展示資料一覧 |
1. 江戸初期の俳諧(〜1672) 寛文末年まで | |||
室町時代、俳諧は、和歌的世界を志向した連歌の余興に「言い捨て」として試みられていた。室町時代末期、最初期の俳諧撰集『竹馬狂吟集』『犬筑波集』とそれに続く『守武千句』が成るが、江戸時代に入ってもなおしばらく、俳諧は連歌の余興という地位を脱するには至っていない。俳諧が文学の一ジャンルとして確立されるのは、貞徳とその門下の俳人たちの活動による。『犬子集』(寛永10年、1633)を江戸時代の刊行俳書の嚆矢として、貞門俳人によって数々の俳書が出版された。 | |||
(千野浩一) | |||
1.犬筑波集 A00-竹冷664 |
2.犬子集 A00-洒竹130 |
3.山之井 A00-洒竹3858 |
4.誹諧抜書 A00-洒竹2671 |
5.埋草・若狐 A00-洒竹4188 |
6.沙金袋 A00-洒竹1202 |
7.遠近集 A00-洒竹546 |
8.雪千句 A00-竹冷23 |
9.歌仙ぞろへ A00-竹冷25 |
10.百人一句 A00-竹冷772 |
11.立圃追善集 A00-洒竹4216 |
12.新百人一句 A00-竹冷775 |
2. 延宝・天和期 (1673〜83) | |||
貞門俳諧はマンネリズムに陥り、かわって宗因を中心とする談林俳諧が俳壇の主流となる。「談林」の名称は江戸の松意らによる結社に由来し、宗因の「されば爰に談林の木あり梅の花」を巻頭に掲げる『談林十百韻』の刊行により普く知られるようになったが、当時は「宗因風」などの呼称が一般的である。その作風は、荒唐無稽で意味不分明な句や、付合において発想のきっかけとなる言葉を敢えて明示しない句、あるいは速吟・漢詩文調などを特色とする。貞門側から非難の声が上がり、談林側もこれに応じて、論難が繰り返された。この時期、次の新風の主役である芭蕉も宗因と一座するなど談林俳諧に親しむが、延宝8年(1680)冬に深川芭蕉庵に退隠して自らを漢詩文の庵住詩人に擬し、新風の確立を志す。 | |||
(千野) | |||
13.古今俳諧師手鑑 A00-洒竹4231 |
14.俳諧類船集 A00-竹冷439 |
15.幕づくし A00-洒竹3480 |
16.江戸談林俳諧幕尽 A00-洒竹368 |
17.大矢数千八百韻 A00-竹冷29 |
18.太郎五百韻 次郎五百韻 A00-洒竹2119 |
19.百番発句合 A00-洒竹3111 |
20.江戸弁慶 A00-洒竹370 |
21.阿蘭陀丸二番船 A00-竹冷35 |
22.桃青門弟独吟二十歌仙 A00-竹冷34 |
23.名取川 A00-洒竹2568 |
24.年中行事之図 A00-6567 |
25.月次のあそび A00-5771 |
26.西鶴大矢数 A00-洒竹1211 |
27.犬の尾 A00-洒竹143 |
28.むさしぶり A00-竹冷114 |
3. 元禄期 (1684〜1703) 貞享元年から元禄末年まで | |||
『野ざらし紀行』の旅で『冬の日』五歌仙を巻き、天和調にかわる貞享蕉風を打ち立てた芭蕉は、元禄2年(1689)『奥の細道』の旅で「不易流行」の思想に開眼、『猿蓑』『ひさご』の編集を後見して「かるみ」の新風を世に問う。芭蕉没後も、蕉風は門人たちに引き継がれるが、鬼貫がこの間、詞の工夫より心に重きをおくべきことを説く「誠」の俳諧に大悟し、三千風が『日本行脚文集』(元禄2年、1689)の旅を終え、西行を偲んで『和漢田鳥集』(元禄14年、1701)を編むなど、蕉門以外の俳人もまた活発に活動している。 | |||
(千野) | |||
29.丙寅之歳旦 A00-洒竹3349 |
30.貞享 三つ物 A00-竹冷115 |
31.いつを昔 A00-竹冷324 |
32.いつを昔 A00-竹冷325 |
33.犬居士 A00-洒竹148 |
34.団袋 A00-洒竹2121 |
35.花見弁慶 A00-洒竹 2735 |
36.呉服絹 A00-洒竹 1035 |
37.和漢田鳥集 A00-竹冷 355 |
38.花見車評判 鳴弦之書 A00-竹冷521 |
39.蝿袋 A00-洒竹 2755 |
40.霜のひかり A00-洒竹1733 |
4. 享保期 (1704〜43) 宝永元年から寛保末年まで | |||
この時期は、洒脱さ・享楽性を追求した都市俳諧と、平明な句風をもって地方に勢力を強めた田舎俳諧とに俳壇が二極化するとともに、俳諧が大衆化してゆく。都市においては、点者より与えられる点数の多寡を競う点取俳諧が流行し、高点を狙って付け味よりも付句一句のみの奇抜な着想を求めるようになる。このような風潮に対し、『五色墨』(享保16年、1731)『四時観』(享保18年、1733)の作者たちが反点取を標榜したことは、後の蕉風復興運動へとつながるものである。そのいずれの書にも祇空が列している点が注目される。一方、この時期は俳書の趣味化が進み、享保2年(1717)の沾凉編『百福寿』を皮切りに、江戸において絵俳書が続々と刊行される。 | |||
(千野) | |||
41.その浜ゆふ A00-洒竹2083 |
42.東遠農久 A00-竹冷649 |
43.石などり A00-洒竹164 |
44.みかへり松 A00-竹冷216 |
45.百華実 A00-竹冷779 |
46.夜桜 A00-知十212 |
47.閏の梅 A00-竹冷784 |
48.誹諧草結 A00-洒竹917 |
49.父の恩 A00-竹冷677 |
50.倉の衆 A00-知十38 |
51.似錦集 A00-竹冷781 |
52.風の末 A00-洒竹4004 |
5. 中興期 (1744〜1800) 安永・天明を中心に延享元年から寛政末年まで | |||
寛保3年(1743)芭蕉の五十回忌を迎える頃から、都市俳諧の浅薄・難解さと田舎俳諧の卑俗・平板への反省から、芭蕉への回帰を求める気運が高まる。そうした気運は次第に、主として美濃・伊勢を基盤とする地方系蕉門の傍流俳人たちの活動により、「蕉風復興運動」とも言うべき文学運動へと発展してゆく。蝶夢は、芭蕉墓所の義仲寺を護持するなど芭蕉顕彰に尽力し、暁台・蕪村らは天和・貞享蕉風を宣揚するなど、多くの俳人たちによって運動が推進された。寛政5年(1793)芭蕉の百回忌を迎える頃には、運動の大衆化・芭蕉の神格化が進み、中興諸家の半ばが没したこともあり、蕉風復興運動は収束へと向かう。 | |||
(千野) | |||
53.続三疋猿 A00-洒竹1999 |
54.続三疋猿 A00-洒竹2000 |
55.その菊 A00-洒竹2009 |
56.古今短冊集 A00-洒竹1059 |
57.誹諧古硯屏 A00-洒竹3238 |
58.草庵式春帖 A00-洒竹2017 |
59.華葉集 A00-洒竹728 |
60.華葉集 A00-知十226 |
61.暗夜訓蒙図彙 A00-洒竹3874 |
62.うづら立 A00-竹冷167 |
63.八楽庵米仲手記 明和元年閏十二月日記 A00-知十177 |
64.山の幸 A00-知十208 |
65.姑射文庫 A00-竹冷686 |
66.草根発句集 A00-洒竹958 |
67.ちよのはる A00-洒竹2319 |
68.福寿草 A00-洒竹3248 |
69.海の幸 A00-知十23 |
70.除元吟 A00-洒竹401 |
71.から檜葉 A00-洒竹636 |
72.初懐紙 A00-竹冷177 |
73.花見次郎 A00-洒竹2866 |
74.芳春訓蒙図彙 A00-洒竹3465 |
6. 化政期・幕末 (1801〜67) 享和元年から幕末まで | |||
中興期の高雅な詩情は失われ、大衆を相手とする月並句合の流行と相俟って、後に正岡子規に「月並調」として排撃される平俗な作風が主流となる。このような中で、成美は清新で高雅な作風をよく保ち、一茶は、当時江戸で流行していた俗言・鄙語を用いた句風を取り入れつつ、不幸な生い立ちや農村での窮乏・都市での流民生活などの実体験に根ざした作品を残し、異彩を放っている。またこの時期は、中興期末以来の芭蕉の神格化が一段と進むとともに、芭蕉伝記資料の蒐集整理が盛んに行われ、芭蕉の最初の全集ともいうべき『俳諧一葉集』(文政10年、1827)が刊行された。 | |||
(千野) | |||
75.鸞鳳帖 A00-洒竹4011 |
76.鸞鳳帖 A00-竹冷233 |
77.名月帖 A00-洒竹3795 |
78.玉の春 A00-洒竹830 |
79.玉の春 A00-竹冷192 |
80.三韓人 A00-洒竹1325 |
81.(百家交筆)おくの細道 A00-洒竹487 |
82.四山藁 A00-洒竹1596 |
83.鶴声帖 A00-竹冷240 |
84.桃家春帖 A00-知十151 |
85.梅室翁紀年録 A00-竹冷745 |