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日本の天文学の歩み ~世界天文年2009によせて~

帝京平成大学教授
中村士(つこう)

1.はじめに

本年(2009年)は、国際天文学連合とユネスコが提唱した「世界天文年2009」である。

1609年の5月頃、イタリアの物理学者だったガリレオ・ガリレイは、あるオランダ人が遠方の物がごく近くにあるように見える特別な眼鏡を発明したという噂を聞いた。また、友人のフランス貴族から来た手紙によって、この噂が事実であることを知った。そこでガリレオは、レンズの屈折理論に基づいてこのオランダの器械の原理を見つけだし、ほどなく筒の両端に2枚のレンズを取りつけた装置 --- 望遠鏡を製作した。そしてこの望遠鏡を星の世界に向けて、1609年の秋から1610年の1月頃まで天文学上の数々の新発見をなし遂げるのである。その成果は、1610年3月の序文がある『星界の報告』として出版された。

望遠鏡の発明によって、それ以前に私たち人類が認識していた宇宙の広がりは飛躍的に拡大し、天文学も大きく進展した。そのため、望遠鏡の発明は天文学における革命と呼ばれることもある。今年2009年は、ガリレオが初めて望遠鏡を天体に向けた記念すべき年から数えてちょうど400年にあたるため、国際天文学連合とユネスコは、天文学の歴史を振り返り、さらなる天文学の発展を期待して、上に述べた「世界天文年」を提案したのだった。

東京大学総合図書館には、天文学に関する多数の図書・資料が所蔵されている。大正12年(1923)9月の関東大震災のため、伊能忠敬の『大日本沿海輿地図』など天文学に関係ある貴重な史料の相当数が失われたとはいえ、その後の寄贈や収集の努力によって、中世の時代から現代に至るまで豊富な天文書が揃っている。また、昨年2008年は、日本天文学会が創立されてから100周年にあたり、同学会から『日本の天文学の百年』が出版された。

そこでこの特別展示では、「世界天文年2009」を機会に、本学図書館の図書資料を中心に紹介し、「日本の天文学の歩み」を振り返ってみたい。

2.中国天文学の時代

『古事記』に記された"天の岩戸"伝説が日食であるとする解釈は江戸時代からあるが、多少とも科学的な要素を含む天文学は古代の日本には存在しなかったと言ってよい。暦や占いに関連した最初の天文学は中国からもたらされた。『日本書紀』によれば、6世紀後半、朝鮮の百済の暦博士が初めて渡来して中国の暦と天文を日本に伝え、推古天皇10年(602)には百済の僧・勧勒が来朝して暦本を朝廷に献上した。以上から分かる通り、この時代の「天文」とは、天体の運動や特性を科学的に研究する近代の天文学とは全く別物だったのである。日月食、惑星と星の接近、彗星・新星の出現、虹、雲の形や色などの天象異変から吉凶を判断する占い的な技術が天文と呼ばれた。これは、古代中国の皇帝は天帝の意思を受けてまつりごとを行ない人民に暦や時を授ける、天帝の意思は天文現象に現れるという伝統的な政治思想、いわゆる「観象授時」に基づいている。そのため、日本でも中国と同様に、天帝の意思を見落さないように絶えず空を監視し記録した。

律令国家の時代になると、中国の政治制度・組織、法律、仏教、文化が我が国に組織的に導入される。天文暦学に関するものとしては陰陽寮があった。天文現象の監視と報告、卜占、造暦、時を知らせる報時、などの部門をつかさどる役所(寮)である。天変地異を占う陰陽師と陰陽博士、暦博士、天文博士、漏刻(水時計)博士がいて、各博士はそれぞれの仕事に責任を持つと共に学生にその仕事内容を教育した。我が国の陰陽道は、古代中国の陰陽五行説を軸に、道教、仏教、神道からの影響も受けて生まれた日本独特の卜占的自然哲学と言ってよい。その代表は平安時代の安倍晴明で、その子孫は土(つち)御(み)門(かど)家とも呼ばれた。また、暦作りは賀茂家が代々担当した。

少なくとも律令時代の初期の頃は、暦法に基づく毎年の暦の計算、天変地異の解釈などは、中国・朝鮮からの渡来人が日本人を指導・教育して行ったと想像される。その際、彼らは輸入されていた中国の書物を当然使用しただろう。それらは現在残っていないが、9世紀終りに勅撰された漢籍目録である『日本国見在書目録』によって、当時日本で利用された中国書の概要を知ることができる[展示資料1]。天文暦学、卜占に関する書物名も多数記されていて、安倍晴明や陰陽師はこれらの書を種本にして占いを行なったに違いない。

中国の暦は、月の満ち欠けと太陽の動きによる季節変化の両方を考慮した太陰太陽暦(いわゆる旧暦)であるが、前漢時代の四分暦から始まり最後の太陰太陽暦である時憲暦(1645年から)に至るまで少しずつ改良されて、実に50近い暦(暦法)が行なわれた。それらの内、日本では、唐代に作られた「宣明暦」が貞観4年(862)から採用され、800年以上もの間使い続けられた。そのため、宣明暦の影響は現在にまで及んでいる。例えば、昼の12時のことを宣明暦では「午(うま)の正刻」と呼んだが、現在の「正午」という呼名はこの宣明暦に由来するのである。日本で日常生活に使われた暦は、具注暦[展示資料2]と仮名暦の2種に大別できる。前者は全て漢字でしかも手書きの暦で、平安時代から主だった貴族に配布された。彼らはそれを日記として利用したから、具注暦はかなり古い時代のものが残っている。仮名暦は14世紀の三島暦が最古の木版暦で、江戸時代になると盛んに各所で仮名暦が発行されるようになる。

宣明暦は800年の長きにわたって使われたため、誤差が積もり江戸時代の初めには度々日月食の予報を失敗するようになった結果、新しい暦に切替える(改暦という)気運が高まった。この頃、日本には中国の元朝で作られた授時暦の暦法が伝わっていて、これは数理的にも、また暦の元になる太陽の観測方法も非常に優れた暦だったから、関孝和のような数学者も熱心に研究した[展示資料3]。新しい暦の提案を行なったのは、囲碁をもって将軍に仕えた囲碁四家の一人、保井春海(後に渋川と改姓)である。数回の失敗の後、貞享元年(1684)に春海の新暦は正式に採用され、貞享暦と命名された --- 新暦の内容は授時暦を若干修正した程度だったが、科学的な立場で天文暦学を初めて研究したという意味で、春海は我が国最初の近代的天文学者と呼ぶことができる。

春海が改暦を成功させることが出来たのは、囲碁の家元として多くの幕閣・諸侯の間に人脈があったことも見逃せない。春海は貞享暦の功績によって初代の幕府天文方に任命され、以後暦を編纂する主導権は京都の土御門家から幕府に移行することになる。

春海は暦学だけでなく天文観測にも熱心で、天文儀器の改良や考案にも努めた。朝鮮星図を元にして寛文10年(1670)に春海が製作した『天象列次之図』は、刊行された星図としては我が国で最初である。貞享の改暦が一段落した後も、渾天儀という観測装置で4年間恒星の広範な観測を行い、その成果を『天文成象』と題した星図として、元禄12年(1699)に息子昔尹(ひさただ)の名で出版した[展示資料5]

このように春海は優れた天文学者だったから、仙台、薩摩、土佐など各所に春海の弟子が輩出した。中でも土佐藩士の谷秦山(重遠)は、高弟の一人として春海から多くのことを学んだ[展示資料4]。秦山が著した『壬癸録』は、春海の天文暦学を研究する上で重要な史料である。

天文方は幕府の正式な役職だから、業務記録である「御用留」をいつの時代からか、必ずつけていたはずである。しかしそのほとんどは失われ、幕末期のものが10数冊残っているに過ぎない。特に、春海以後から18世紀末の寛政期に至る間の天文方の動向はほとんど知られていない。『渋川氏記録』[展示資料6]は断片的ながら、その空隙を補う貴重な史料で、世襲制の幕府役職においては、お家存続のための養子が重要な課題だったことが分かる。

3.西洋天文学の導入

天文12年(1543)の8月、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着し、日本人は鉄砲という強力な武器の存在を初めて知った。この時代に日本に来たポルトガル人、スペイン人は南蛮人と呼ばれた。ついで、最初のイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが天文18年(1549)に鹿児島に上陸する。ザビエル以後、ローマ教会はキリスト教の布教を促進するために、天文学に詳しい宣教師を選んで日本に送り込んだ。日本人は好奇心・知識慾が旺盛で、特に天体の運行、日月食、月の満ち欠けの理由を熱心に質問し、雷と稲妻、彗星などの説明を大いに好む、とザビエルがローマに報告したからである。キリスト教の布教は西国大名らからは公認されたため、1580年頃には、コレジオと呼ぶ宣教師養成の学校が設立され、キリスト教と共に西洋天文学も教授された(南蛮天文学と称する)。それはもちろん太陽中心説(地動説)の宇宙ではなく、地球中心の古い天動説に過ぎなかったが、南蛮天文学によって日本人は、人の住む大地は空間に浮かぶ球形の"地球"であることを初めて知ったのである。

やがて江戸幕府は、急速に信者を増やしてゆくキリスト教に危機感を抱き始める。そして、キリスト教に関した漢籍の輸入禁止から始めて(寛永7年(1630))、日本人の帰国と海外渡航の禁止、キリスト教の禁止と信者の海外追放、ポルトガル船の来航禁止と続き、寛永16年(1639)には完全な鎖国の体制に突入してゆく。一方のローマ教会からは、宣教師は逮捕されれば過酷な処刑を受けることを知りながら、"殉教に対する憧れ"とも言うべき高揚した宗教心に突き動かされたように、キリスト教弾圧が激化した日本に宣教師が次々に上陸・潜入した。その一人、ポルトガル人宣教師のクリストファン・フェレイラも地下に潜行しながら布教活動を続けていたが、寛永10年(1633)に逮捕され、拷問の果てキリスト教を棄教、キリスト教信者を取締まるキリシタン目明しになり、沢野忠庵と名乗った。忠庵は後に、彼と同様にキリスト教を棄教したイタリア人G. キアラが所持していた西洋天文書を長崎奉行の命で口述翻訳したが、その書物が『乾坤辨説』である[展示資料7]。しかし、初めて我が国に導入された南蛮天文学は、鎖国が長引くにつれてやがて風化し忘れ去られていった。

中国から輸入された漢籍の内、キリスト教に関係あると見なされた書籍は「禁書」に指定された[展示資料9]。西洋の科学知識を中国に紹介したのも宣教師で、彼らの著作にはキリスト教の教義書と数学、天文学の本が一緒に含まれていたから(例えば、『天学初函』が代表例)、禁書のあおりを受けて日本人は、有用な西洋科学書に触れる機会を逃した場合も少なくなかった。しかし少し後の時代になると、本の内容をある程度吟味して輸入を許可したらしく、その典型は1670年代に舶載された『天経或問』である[展示資料8]。西洋天文学の知識も含む天文学全般を扱った入門書で、日本では非常な好評を博し、幕末に至るまで訓点本や解説書が多く出版された。渋川春海、谷秦山らの外、新井白石も『西洋紀聞』の中で『天経或問』に言及している。

日本人が洋書から直接西洋の科学、天文学を学ぶ道を開いたのは、八代将軍徳川吉宗(1684-1751)である。吉宗は為政者としての立場から、天文暦術は人民に時を授け農業を促進する根本という信念を持ち、自らも天文観測と天文儀器の考案・改良を行ない、西洋天文学による改暦に情熱を燃やした。吉宗から改暦についての諮問を受けた和算家の中根元圭、建部賢弘は、禁書令の緩和が必要である旨を上申した。二人には吉宗はしばしば天文暦学の質問をしている[展示資料10]。享保5年(1720)、キリスト教に関係しない内容の漢籍の輸入解禁が長崎奉行に通達された。しかし、吉宗が熱望した西洋天文学に基づく改暦の方は、当時の天文方の実力が低かったために、吉宗の生前には実現しなかった。なお、オランダ語の本から直接翻訳して出版された最初の本は、杉田玄白らによる解剖学書、『解体新書』である(安永3年(1774))。

西洋天文学の研究は、長崎と大阪で始まった。長崎の出島オランダ商館に勤務するオランダ語通詞の中に、オランダ語の天文学書を読んで研究する人が現れた。その最初の人は本木良永といい、10点余りの天文・地理に関する抄訳・翻訳書を著し[展示資料11][展示資料12]、その中で新しい訳語を用いた。例えば、「惑星」は良永が考え出した用語である。また良永はコペルニクスの太陽中心説を初めて日本に紹介したことでも知られる。

同じ頃の大阪では、大分県の臼杵から出てきた麻田剛立という医者が天文暦学の私塾を開いていた。この塾には優秀な弟子が多く集まり、中国書によって西洋天文学を研究した。彼らが集中的に研究した主な中国書は、『暦象考成』上下編[展示資料13]と『暦象考成後編』[展示資料14]である。前者は1633年に出版された西洋天文学の書、『崇禎暦書』を、清朝の康熙帝の時に中国人天文学者らが再編した本で、円運動を組合わせた伝統的なギリシアの惑星運動理論を扱っていた。また、『暦象考成後編』は、清朝の天文台長にまでなった宣教師I. ケーグラー(中国名、戴進賢)らが著した暦算書で、太陽・月の楕円運動理論を初めて中国語で紹介した本である。

上に述べた麻田派天文学者の活動と実力が広く世に知られるようになった結果、幕府は麻田派メンバーの中でも特に優秀な高橋至時と間重富とを、改暦を行なわせるために江戸に召し出した。至時は大阪城を警固する下級武士で理論天文学に優れ、裕福な質屋の主人だった重富の方は天文儀器の考案開発に才能を発揮した。至時は寛政7年(1795)11月に天文方に任命され、『暦象考成後編』によって改暦を行なう旨幕府に答申する。かくして改暦事業はスタートし、寛政9年(1797)、「寛政暦」と命名された新暦が採用されることになった[展示資料15]。寛政の改暦は、西洋天文学に基づく改暦というだけでなく、多種類の新しい天文観測装置が用いられ、観測精度も従来より大幅に改善されたという意味で、江戸時代の天文学史上、重要な転換点だったと言ってよい。

寛政の改暦が済んでしばらく後、至時は幕府からオランダ語の新しい天文書を取調べるよう命じられる。それは、パリ天文台の天文学者ラランデが書いた著書をオランダ語に翻訳した本だった[展示資料17]。至時はオランダ語がほとんど出来なかったにもかかわらず、ラランデ天文書の精緻な内容に感銘を受け、暦算に関係ある部分、自分が内容を理解できた章を、文字通り寝食を忘れて解読することに没頭した。その成果が『ラランデ暦書管見』である[展示資料18]。至時は翻訳を始めて約半年後の文化元年(1804)1月、過労のために死亡した。本書を見ると、一部を除いて至時は『ラランデ天文書』の内容を大部分正しく把握しており、分からないオランダ語を彼の天才的な数理の理解能力で補ったことが了解できる。寛政改暦の顛末や至時と重富の協力関係、ラランデ暦書の解読に関する経緯などが今の私たちに比較的詳しく分かるのは、実は至時の次男だった渋川景佑が麻田派天文学者の往復書簡を集めて編纂した『星学手簡』[展示資料16]が残されているからなのである。

次に、江戸後期から幕末にかけての日本天文学の状況を見てゆこう。至時の天文学から最も影響を受けたのは、日本全土の測量と地図作りで有名な伊能忠敬であろう。忠敬は、至時が天文方として赴任するとすぐに入門を果した。千葉県佐原で裕福な醸造業を営み、名主になる程の人望もあったが、若い頃から興味のあった天文測量の勉強に取組むため、隠居して51歳で江戸に出て来た。至時の指導のもと熱心に研鑽し、数年で『暦象考成後編』によって日月食の予報計算が出来るまでに上達した。観測儀器も全部自前で揃え、自宅で熱心に恒星の位置観測に励んだ。二人の師弟はやがて、緯度1度の長さを実測すること、つまり地球の大きさを決定したいと強く望むようになった。至時は、蝦夷地の地図作りを兼ねて往復の旅程で緯度1度の測定も行なう計画を作り上げ、幕府の承認を得て、忠敬を蝦夷の測量行に送り出した。忠敬が献上した蝦夷の地図は幕閣から高く評価されたため、その後17年間、10回に及ぶ日本全国の測量に忠敬は従事することになる。その集大成として忠敬の死後、文政4年(1821)に完成し幕府に献上されたのが『大日本沿海輿地全図』である[展示資料20]。また、『大日本沿海実測録』はこの地図製作のための測量データをまとめている[展示資料21]。ちなみに、忠敬による緯度1度の測定値については、初めのうち至時が忠敬の結果に疑いを抱いたため忠敬は不満を募らせたが、至時が『ラランデ天文書』中の地球の大きさの値を見て忠敬の値とよく合っていることを知り、師弟は手を取り合って喜んだと伝えられる。

至時の死後、長男の高橋景保が天文方の筆頭となったが、文政11年(1828)、シーボルト事件の主謀者として逮捕され獄死した。その後の天文方を率いたのは、天保の改暦を主導した次男の渋川景佑である。彼は浅草天文台とは別に九段坂に九段坂測量所を創立してもらい、そこで日本で初めて長期間の定常的天文観測を実施した。その記録が『霊憲候簿』である[展示資料19]

天文方で忘れてはならないのは、「蕃書和解御用」である。天文方では文化5年(1808)以来、景保のもと、オランダ語の能力がずば抜けて高い長崎通詞の馬場佐十郎を江戸に出仕させて世界地図の翻訳刊行を行なっていた。景保はこの世界地理取調べの過程で、長崎のオランダ商館に頼ることなく、国際情勢の自主的な取得が幕府にとって外交上極めて重要な課題であることを認識し、翻訳センターの設立を幕府に進言した --- 景保、弱冠27歳の時である。景保の提案は受入れられた結果、文化8年(1811)に天文方の内部に「蕃書和解御用」が創設され、佐十郎を中心にフランスのショメールが著した『日用百科辞典』の蘭訳本を翻訳する事業がスタートする[展示資料26]。この「蕃書和解御用」は蕃書調所として規模を拡大し、明治以後は開成学校から東京大学に発展してゆくことを考えると、東京大学の源流は「蕃書和解御用」であると言っても過言ではない。蕃書調所に所蔵された洋書の目録も本学図書館にある[展示資料23]

江戸時代の天文学は、天文方による天文暦学がもちろん全てではない。西洋の航海用天文観測器具だったオクタント(八分儀)・セキスタント(六分儀)を、地上測量用に改変した新型の六分儀が作られ[展示資料22]、六分儀測量術と称する日本独特の測量法まで誕生した。望遠鏡を製作し、日月、惑星の観測を行ったのは、天文方ではなく民間人だった[展示資料24]。幕末近くになると、伝統的な和時計はすたれ、安価に輸入され始めた西洋機械時計の文字盤を、我が国の不定時法(昼と夜で時間の単位の長さが異なる)に合わせて使う図表が市販されたりもする[展示資料25]。また、19世紀中頃から欧米で盛んになった天体物理学について述べた漢籍も紹介されるようになるが[展示資料27]、天文方は依然古い天文暦学に執着して、やがて時代から取残されていった。

4.明治維新とお雇い外国人教師

明治元年(1868)、江戸幕府の崩壊と大政奉還で明治政府が誕生する。天文方がいた浅草天文台も明治2年(1869)には東京府に移管された後、廃止された。歴史的な天文台儀器の大部分はスクラップとして入札売却されたことが『東京市史稿』に載っている。

幕末には欧米の主要国が日本に来航し、幕府に開国と外交及び貿易の条約を結ぶことを要求した。米国からは、ペリー提督率いるいわゆる黒船が嘉永6年(1853)に浦賀沖に出現し、翌年の安政元年に幕府は日米和親条約に調印することを余儀なくされた。このペリー艦隊による日本遠征は、単なる条約の締結ばかりでなく、学術調査の目的も持った航海だった[展示資料29]

明治維新後も暦はそのままだったが、旧暦や日本独特の時刻制度では外交交渉上支障が多い。そのため、明治6年(1873)1月から、それまで使用された天保暦を廃止して太陽暦を施行した。また、時刻制度も1日を24時間に等分する定時法に改めた。しかし、長年慣れ親しんだ江戸の習慣から新制度に移行するのはなかなか容易ではなかったため、太陽暦について啓蒙する書物が出版された[展示資料30]

明治時代の初め、極めて珍しい天文現象が日本で起こった。明治7年(1874)の金星の太陽面通過である。この現象は110-120年の間隔でしか起きないが、これを地球上の南北両半球から同時観測すると、地球と太陽の平均距離である「天文単位」が精密に測定できることから世界中の天文学者が注目し、日本にはフランス、米国、メキシコが観測隊を派遣した。特にフランスは、J.ジャンセン(J. Janssen) とF.ティスラン(F.F. Tisserand) という有名な天文学者を2名送り込んできた。日本の天文学はまだこの現象を自主的に観測研究するレベルに達していなかった。しかし、これら外国観測隊の仕事の見学と手伝いをすることによって、観測点の精密な経緯度の測定、電信法を用いた遠隔地の時計同期、写真法の天文観測への応用など、近代的な天文観測の技術を初めて実地に学ぶことが出来たのである。

明治11年(1878)には、東京大学理学部の中に星学科が設けられ、理学部附属の観象台(天文気象観測所)が本郷元富士町の文部省用地内に建設された。加賀屋敷と呼ばれたお雇い外国人教師の宿舎の近くだった。現在の工学部7号館の東端にあたるが、今では何の痕跡も残っていない。東京大学以前の開成学校で明治5年頃、短期間天文学を教えたフランス人もいたが、理学部の物理学教授として明治11年に赴任して最初に天文学を教授したのは、米国人のお雇い教師、T.C. メンデンホールであった。彼は、先に来日して理学部の動物学教授に就任し、大森貝塚の発見や進化論の紹介などで知られたE. モースの誘いに応じて日本にやって来たのである[展示資料32]。メンデンホールは、後に東京大学の重要スタッフになる田中舘愛橘、藤沢利喜太郎ら物理学科の優れた学生を教育し、富士山頂での重力測定、気象観測、太陽の吸収スペクトル線の精密波長測定などの研究も行なった[展示資料31]。メンデンホールの帰国後、後任として米国海軍天文台のH.M. ポールが星学科の初代教授として赴任してきた。

理学部各学科の教師たちは、かなり早い時期から国際的な学術誌に研究発表をしていた。東京大学全体で、明治13年(1880)から約60年間に国内外で発表された研究成果と論文リストは、『東京帝国大学学術大観』として第2次世界大戦の直前に刊行された[展示資料40]。天文学に関しても、星学科(天文学科)と東京天文台とに分けて記述している。

一方、明治年間は国内向けとして、教官自らの研究成果、世界の研究動向、海外で見かけた教育用資料などを、『東洋学術雑誌』に啓蒙的に紹介することが多かった。中でも、理科大学の数学・物理学系教授だった菊池大麓は執筆の常連で、ほとんど毎号何かの記事を書いている。広い範囲の啓蒙記事を書ける教官がまだ少なかったためだろう。地球の自転運動を証明したフーコー振子の実験というものがある(1851年)[展示資料43]。力学理論の面でも視覚的効果の点でも興味深い実験で、菊池も『東洋学術雑誌』に数回にわたって紹介している[展示資料42]。東京大学内で行なわれた実験についても言及しているが、これは日本におけるフーコー振子の実験としては最初のものに違いない。

明治年間には、珍しい皆既日食が日本本土で起こった。白河・那須地方を皆既食帯が通った明治20年(1887)8月の日食である。海外からも観測者が来日し、東京大学の星学科からも初めて観測隊が那須に派遣された。政府・文部省は新聞などを利用して、この日食の意義の啓蒙をはかったから、一般の関心も高まり民間人が記録した日食のスケッチなども残されている。また、一般に錦絵と呼ばれる明治の浮世絵にもこの日食は取上げられた[展示資料33]

5.日本人による天文学

明治21年(1888)になると、それまで文部省、海軍省、内務省でそれぞれ別々に持っていた観象台を統合して、文部省のもとに東京天文台が理科大学の附属施設として設立される。場所は、海軍省の旧観象台が置かれていた麻布飯倉の地が選ばれた。この2年前、東京大学は理科大学など5つの分科大学から成る帝国大学に改組されていた。

ポールが帰国すると、入れ替わるようにフランスに留学していた寺尾寿が帰朝して星学科のスタッフに就任した。そして間もなく、理科大学の教授と東京天文台の台長を兼任することになる。寺尾は福岡県の士族の出身で、上京するまで旧体制の儒学教育しか受けていなかった。明治6年(1873)に東京外国語学校に入学してフランス語を学び、明治11年(1878)には理学部物理学科を卒業する。翌年、フランスのパリ天文台とソルボンヌ大学に国費留学をした。

パリでは、先に留学していた工学系の古市公威と共に、明治7年(1874)に金星の太陽面通過観測で来日したティスランの力学の授業を1879-80年の期間受講した[展示資料36]。寺尾は帰国後、フランスに法律の勉強に行く17歳の黒田清輝にフランス語の手ほどきをした。黒田は後に日本近代洋画の父と呼ばれる有名な画家になった人である。黒田はフランス語の師である寺尾を敬愛しており、寺尾の帝大教授在職25周年の時に、記念に寺尾の肖像画を描き献呈したことが、黒田の談話に載っている[展示資料34]

寺尾は星学科の発展と東京天文台の人事、設備や備品の拡充に忙殺されたため、草創期の指導者にありがちな宿命で、研究上の特別な業績はあげなかった[展示資料35]。西洋の近代天文学を我が国に導入し、次世代の研究者の卵を育てたことが最も大きな功績と言えるだろう。明治31年(1898)という早い時期から、海外へ日食観測隊の派遣を始めたのも寺尾である。一般にはむしろ、明治期における初等・中等の数学教育の方で名が知られている。また、東京物理学校(現在の東京理科大学)の創立者・初代校長であったため、物理学校関係の出版物にも多く文章を書き残した。

星学科に入学した最初の学生は僅か2名だったが、明治後期から大正にかけて、寺尾の弟子の中から初めて国際的に評価された研究業績を挙げた天文学者が2人輩出した。

最初の1人は木村栄(ひさし)で、明治25年(1892)の星学科卒業生である。1880年前後、各地の緯度の微小な変化として観測される、「極運動」と呼ぶ現象が発見された。この現象の正体を国際協力で観測・解明するために、日本では岩手県の水沢に緯度観測所が設けられる。木村はその所長として赴任し、緯度観測を指揮した。そして、日本の観測は信用できないとするヨーロッパの評価に反論するため、詳細な測定データの検討を積み重ね、明治35年(1902)には極運動の中に特別な成分を発見してZ項と命名した。この発見は天文学の国際コミュニティで注目され、ここに日本の天文学は初めて国際舞台に登場することになる。木村はZ項の功績で、英国王立天文学会のゴールドメダル、文化勲章を授与された。
また木村と緯度観測所の名は、一般の人々にまで知れ渡った。

木村より少し遅れて、次に国際的なハイライトを浴びたのは平山清次である。
平山は木村の5年後輩で、天体力学が専門だった。大学卒業後米国に留学し、同じ頃、共通な起源を持つと考えられる多数の小惑星がいくつかの軌道のグループを成していることを発見し、これらのグループを"族(family)"と名づけた(大正7年(1918))。現在では、平山が見つけた族以外にも多数の小惑星の族が同定され、さらに族の概念は惑星の形成・衝突など太陽系の起源論、小惑星探査にまで応用されつつある。このように、「小惑星の族」の発見は画期的な業績だったが、生前の平山は受賞などには余り縁がなく、また、平山自身は、族の成因が小惑星同士の衝突であることを認めたがらなかった[展示資料37]。この木村と平山による研究成果は、少なくとも間接的には、寺尾がパリで身につけた位置天文学、天体力学などの古典天文学の延長上に咲いた花と言うことも出来るだろう。

一戸直蔵は、当時の天文学者の間では異色の存在である。明治36年(1903)に星学科を卒業した後、米国のヤーキス天文台に留学し、日本人として初めて巨大望遠鏡による天文観測を体験した。一戸自身は変光星の観測研究に関する論文を海外の学術雑誌に精力的に発表し、その頃欧米で台頭しつつあった天体物理学の研究が重要であることを力説した。また、大望遠鏡を台湾の「新高山」 (現・玉山、標高3,952m) に建設する案を主張した。そのため、天文台の将来像を巡って台長だった寺尾と対立し、ついには東京天文台を追われることになる。退職後は、本の執筆や『現代之科学』というかなり高度な内容の雑誌を大正2年(1913)から発行し、科学の啓蒙活動に努めた[展示資料38]。しかし経営難からやがて破綻し、一戸も病気で早世した。ハワイのマウナケア山頂に平成11年(1999)に建設されたすばる望遠鏡は、ある意味では一戸の夢を百年後に実現した存在と言ってよいだろう。

科学技術の世界では、研究発表と情報交換の場としての学会の存在が大きな意味を持つ。数学、物理、動植物学など主要な理学系の学会は既に明治10年代に設立されていたが、天文学会の発足はかなり遅く、明治41年(1908)に創立された[表1]。発足時は研究者の数が少なく、会員の大部分がアマチュア天文家であった[展示資料44]。東京天文台は大正14年(1925)に、『理科年表』の第1冊を発行した[展示資料45]。暦、天文、物理など科学の総合的データブックで、2009年現在で82冊が刊行されている。天文学の概説書については、明治期には翻訳書が大部分だったが、大正期に入ると日本人天文学者が書いた著書も出版されるようになる[展示資料47]

表1  学会の創立年表
西暦元号創立された学会(2005年現在の会員数)
1877明治10日本数学会(5,100)、日本物理学会(約20,000)
1878明治11日本化学会、日本動物学会(2,600)
1879明治12東京地学協会(800)、日本工学会
1880明治13日本薬学会(20,300)、日本地震学会(2,300)
1882明治15日本植物学会(2,200)、日本気象学会(4,300)
1884明治17日本人類学会(770)
1885明治18日本獣医学会(4,200)
1886明治19日本建築学会(36,000)
1887明治20農学会、順天堂医学会(3,700)
1888明治21電気学会(27,000)
1889明治22史学会
1890明治23徳島医学会
1891明治24東北医学会(900)
1892明治25長崎医学会(800)
1893明治26日本解剖学会(2,600)、日本耳鼻咽喉科学会(10,900)
1896明治29日本小児科学会(18,100)
1897明治30日本眼科学会(13,600)、日本機械学会(38,500)、国際法学会(1,000)、日本造船学会(4,000)
1898明治31日本消化器病学会(27,600)、工業化学会
1899明治32日本外科学会(39,300)
1900明治33日本皮膚科学会
1901明治34日本保険医学会(800)
1902明治35日本精神神経学会(9,900)
1903明治36日本内科学会(86,600)
1908明治41日本天文学会(2,900)
1915大正4日本鉄鋼協会(10,500)
(文部科学省公益法人一覧及びUMIN学会情報による) 斜体字は文科系学会

6.天体の物理学研究へ

大正12年(1923)9月1日、東京は関東大震災に見舞われた。麻布の東京天文台も観測施設が壊滅的な被害を受けた[展示資料48]。東京天文台は以前から、都心の灯火を避けて郊外の三鷹村に移転する計画が始まっていたが、大震災を契機に移転は一気に加速され、翌年には引越しはほぼ完了した。三鷹に広大な敷地を得て、麻布では不可能だった大型の天文観測施設が導入される。それは口径65cmの大赤道儀屈折望遠鏡とアインシュタイン塔望遠鏡である。後者は、アインシュタインの相対性理論を観測的に検証する目的でドイツで建設された望遠鏡を導入したものだった。これらは天体物理学の研究を促進させることを意図していたが、両者とも結果的には大した成果を挙げることなく終わってしまった。しかし、1880-1940年間に東京大学関係者が発表した天文学の論文約580篇を分析してみると、1925年頃から天体物理学に関する論文数が全体の半数近くを占めるようになり、次第に天体物理学が勢力を伸ばしていたことが理解できる。なお、東京大学以外で戦前に天文学の学科を持っていた大学は京都大学と東北大学である。前者は宇宙物理学科と呼ばれ明治30年(1897)に、後者の天文学教室は昭和9年(1934)に創立された。

第2次世界大戦中(1939-1945)は、一般的にはどの国も純粋科学の研究どころではなく、天文学研究も停滞する。ただし日本の場合、軍国主義、国粋主義の台頭で民族主義的な自覚が高まったためか、多くの分野でこの時期に優れた研究が集中して発表された点は注目に値する。昭和19年(1944)11月から米軍による東京空襲が始まると、麻布の天文学教室も疎開を余儀なくされる。信州の諏訪に疎開した後、天文学教室は空襲で焼失した。諏訪の疎開は約半年ほどだったが、当時教授だった萩原雄祐らは東京から出張して講義をした[展示資料52]

昭和20年(1945)8月15日の敗戦後、我が国は連合国占領軍の支配下に置かれた。GHQ(占領軍総司令部)は戦時中の日本の科学技術研究の実態調査を日本国政府に命じる。その結果、生まれたのが『天文学の概観 1940-1945』である[展示資料49]。これら戦時中の研究の一つとして、後に東京天文台長になった広瀬秀雄らによるシュミットカメラの研究があった[展示資料53]。広瀬によると、当時はこのカメラと暗視装置を組合わせた明確な軍事機器の大量生産を目指していたと言うから興味深い。しかし戦後は、広瀬らの研究は本来の天文学研究に生かされることになり、やがて東京大学木曾観測所の大シュミット望遠鏡として完成をみるのである。

戦後の日本天文学を世界水準にまで引き上げるのに主導的な役割を果したのは、萩原雄祐である。萩原は、敗戦直後の昭和21年(1946)に東京天文台台長に就任した。学生時代から極めて優秀で、卒業の僅か2年後に東京大学と東京天文台を兼任し助教授に昇任する。英国のケンブリッジ大学に留学し、主に天体力学を専門とした。後に天体力学を集大成した膨大な5巻9冊の英文著作を出版する[展示資料54]。また、相対性理論、理論天体物理学にも多くの研究業績があり、ほとんど全ての天文学分野をカバーする大部な萩原の講義録が残されている[展示資料50]

東京天文台台長に就任した後は、天体物理学の観測施設の拡充と研究者の育成に力を注いだ。地球上の経度で見ると日本は米国とヨーロッパのほぼ中間に位置する、そのため、時間変化を追うような天文観測では特に、東アジアは重要な地域であるから日本にも大望遠鏡を作るべしという"鼎の三脚"説を唱え、口径1.8mの当時としては大反射望遠鏡の建設を岡山に実現させた。また、畑中武夫に説いて、電波天文学を日本でスタートさせたのも萩原だった [展示資料51]。萩原の弟子たちの多くはその後、各分野の指導的研究者に育っていく。その具体的内容は、『日本の天文学の百年』に詳しい[展示資料55]。萩原は学士院賞、文化勲章、米国学士院のワトソン賞を受賞している。