平成19年度オープンキャンパス展示「本で出会う駒場発の先端研究」

2007年8月2日開催のオープンキャンパスのために企画された展示です。


2007年8月2日開催

解説:佐藤賢一 電気通信大学准教授
協力:岡本拓司 総合文化研究科准教授 (東大-イェール・イニシアティブ)


ディジタル展示目録

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『航米日録』

著者: 玉蟲左太夫編 成立年:1861年(写本・全七巻)

     

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玉蟲(1823〜1869)は仙台藩士。20代前半で江戸に出て、林家(幕府の儒官) に入門する。その学才を認められ、大槻磐渓らの推挙により万延元年(1860)、幕府が派遣した遣米使節の随員として渡米。10ヶ月に渡る世界一周航海と なったが、この間の記録をまとめたものが本書『航米日録』である。

横浜→ハワイ→サンフランシスコ→パナマ→ワシントン→ニューヨーク→ルワンダ→バタビア(インドネシア)→ 香港→横浜という航路を玉蟲はたどっていく。彼にとって、異文化との接触はまさにカルチャー・ショックの連続であったであろう。行く先々での印象、見聞を この記録に残している。

帰国後の玉蟲は、帰郷して仙台藩の藩校養賢堂学頭副役までのぼるが、戊辰戦争の際、榎本武揚に合流して蝦夷行きを企てたために捕縛され、切腹。

なお玉蟲の曽孫が故・玉蟲文一教授(化学)である。戦後まもなく、東京大学教養学部教養学科内に科学史・科学哲学教室が開設されたが、その提案をされたのが玉蟲教授である。

 


 

『物理日記』三冊・『化学日記』六冊

刊行年:1874年(文部省)

   

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ともにリッテル(Hermann Ritter, 1828〜1874)が行った講義をもとにして編纂された教科書。リッテルはドイツの化学者。明治3年(1870)来日。

大坂理学所(後に旧制三高となる教育機関)で体系的な近代理化学の講義を実施する。助手の市川盛三郎がまとめた講義録が本書の原型である。当初、『理化日記』として刊行されたが(1870年)、後にこのように『物理日記』と『化学日記』に分けて刊行された (1874年)。内容は現在の高等学校程度のものであるが、当時の日本においては高水準の内容である。(例えば、電気化学なども紹介されている。)

リッテルは1872年に上京して開成学校(東京大学の前身)で教鞭を執ったが、1874年、不幸にも天然痘に罹患して没した。

 


 

『星学捷径』 上・中・下巻

原書名無し(関藤成緒訳) 刊行年:1874年(文部省)

   

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訳者の関藤(1845~1906)は明治の翻訳家、教育行政官。英学を福沢諭吉に学んでいる。文部省の教科書編輯課や各地の中学校の校長を歴任した後、福山誠之館中学校校長を務める。明治初期に地学関連の教科書翻訳を手がけているが、本書はその中の一冊。19世紀後半における天文学の概説を述べた書としてよくまとめられている。天王星、海王星など、その発見にまつわるエピソードも交えながら簡明な紹介がなされている。

 


 

『代微積拾級』 全三冊

著者: A. Wylie口授/李善蘭筆述 刊行年:1859年

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現在も用いられている数学の用語、「微分」と「積分」が中国語に翻訳されて一般化する きっかけになったのが本書。原書は、E. Loomis, Elements of Analytical Geometry and of Differential and Integral Calculus, 1850. これをイギリス人の宣教師、A. Wylieと中国人数学者、李善蘭(1811~1882)が協同で翻訳したものである。内容はいわゆる解析幾何学と微積分であるが、数式、記号の体系は完全に中国式に翻訳・翻案されている。(例えば微分の記号“d”は微分の「微」から「彳」、積分の記号“∫”は積分の「積」から「禾」としている。)幕末の 日本人にも影響を与え、明治になってから何人かの数学者がこの本の解釈・翻案を試みている。

 


 

Rudiments of Natural Philosophy, and Astronomy

著者: Denison Olmsted  刊行年:1866年(開成所刊行)

   

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本書は東大-イェール・イニシアディブのニュースレターにも掲載されています。

本書はDenison Olmsted, Rudiments of Natural Philosophy, and Astronomy, vol.1, 1858の日本における翻刻(海賊版)である。慶応2年(1866)に開成所が刊行したものである。内容は少年向けの自然科学の概説(英文)である。(力学、気象学、音響学、電磁気学、光学の初歩がイラスト入りで解説されている。)幕末もこの頃になると、外国語学習の力点はオランダ語ではなく英語に向けら れていくが、平易な英文で記された本書を自然科学の教科書として利用しようとした開成所メンバーの意図は容易に察せられる。

開成所は幕末に設置された教育機関であるとともに、海外情報の収集、外交文書の処理などに当たった部署である。明治になってからこの組織と人材は新政府に引き継がれ、後の東京大学の母体となっていく。

2冊を展示するが、両冊とも東京大学蔵書。(1冊は駒場図書館・旧一高蔵書。もう1冊は総合図書館蔵書で、開成所のメンバーであった川本幸民の子孫からの寄贈書である。)駒場図書館蔵書の裏表紙には渡辺一郎(温)、何礼之助(礼之)、内田弥太郎(五観)等の名が 墨書されている。(各人については下記を参照。)本書の利用者の氏名を記載したものであろうか。また、「御稽古場」の文字も見える。開成所内に設けられた 部署の名称と考えられる。開成所から旧制一高へと本書が伝来した経緯は明らかではないが、貴重な歴史的資料である。

渡辺(1837~1898)は英学者にして実業家。アダム・スミスの『富国論』を日本で最初に紹介した人として知られる。明治政府に一時仕えるが、後に下野して『訂正康煕字典』を刊行する。後に実業界入りして東京瓦斯、他の会社設立にあたった。

何礼之(1840~1923)は長崎出身の洋学者。独学で英語を学んだ後、外国人宣教師についてさらに研鑽に励む。開成所で教授した他に、私塾も開いて教育に専心した。明治になってからは大坂洋学校の督務、岩倉使節団の書記官、などを務める。

内田弥太郎(1805~1882)は関流の和算家。少年期から神童と称された数学者。積分に相当する「円理」 という分野の研究を進めたことで知られる。蘭学者の高野長英とも交流があり、西洋の数学をも学んでいた。明治になってからは太陽暦の採用、度量衡の統一などで活躍した。

 


 

『朝庭御鷹野之影』 二巻

著者: (狩野)栄川院・養川院筆写/飯嶋助九郎筆

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春夏秋冬それぞれの季節が巻物を展開するにつれて推移し、その季節を背景として、鷹狩の様子が描写されている。後世の筆による写しと思われるが、鷹狩の姿を見事なまでに活写している。

この巻物には一高の蔵書印が捺されているものの、箱に記されている情報(箱書)以外にその来歴を知らせるものがない。栄川院、養川院はともに幕府御用絵師として一世を風靡した狩野派木挽町家の二代にわたる当主である。(狩野栄川院典信、1730~1790/狩野 養川院惟信、1753~1808)彼ら二人は奥絵師としては高位の「法印」の称号を幕府より授かっている。

江戸時代の鷹狩は生類憐れみの令で知られる徳川綱吉の時代には厳禁されていたが、八代将軍徳川吉宗がこれを復 活させている。江戸の近郊には「鷹場」と称する特別区域が幾つか設けられ、将軍家をはじめとする有力大名がこの狩に興じていた。東京大学駒場キャンパスの 周辺地域は享保期以後、「目黒筋」と呼ばれる鷹場の一部に編入されていた。駒場の近世に思いを馳せれば、この図に描かれているような農村風景や武蔵野が広 がっていたはずだが、その裏では、数多くの人々の生活が犠牲にされていた。鷹狩は、庶民に様々な負担を強いる為政者の娯楽であった。

 


 

※このページは旧「東京大学駒場図書館ディジタル展示プロジェクト」で公開されていたものです。

 

本で出会う駒場発の先端研究