田中芳男文庫と『捃拾帖』について (電気通信大学 佐藤 賢一)

*「田中芳男・博物学コレクション」のインターネット公開に際して、コレクションの中核を成す『捃拾帖』の資料解説として、電気通信大学 大学院情報理工学研究科・佐藤賢一 准教授に「田中芳男文庫と『捃拾帖』について」を執筆いただきました。

[PDF版:「田中芳男文庫と『捃拾帖』について」 ]


はじめに

 関東大震災(1923年)で東京帝国大学(当時)の図書館は焼失し、40万冊とも言われる蔵書が灰燼に帰した。現在の東京大学総合図書館の建物は震災後にロックフェラー財団からの寄付によって再建されたものである。蔵書についても、国内外から多数の貴重書、コレクションが寄贈されている。その際に寄贈されたコレクションの1つが、ここで紹介する『捃拾帖』を含む田中芳男文庫である。(約2700タイトル、6000冊、昭和6年の寄贈)
 田中芳男(1838 - 1916)は幕末から大正期にかけて活躍した博物学者、そして博覧会行政を主導した明治政府の実務官僚であった。彼が青年期から晩年にかけて収集した資料をスクラップブックとしたものが、『捃拾帖』『外国捃拾帖』全99冊である。この膨大な資料群を残した田中芳男とはどのような人物であったのか。『捃拾帖』とは一体どのような資料であるのか。その全貌を語ることは到底できないが、その一端を紹介したい。

田中芳男の略伝

 田中は晩年になって、自らの経歴を振り返った談話「田中芳男君の経歴談」(大正2年、田中義信による校注本を参照。以下、「経歴談」と略す)を残している。彼の略伝を見るには格好の資料でもあり、適宜この経歴談からの引用を交えつつ田中の生涯をまとめてみよう。
 田中芳男は天保9年(1838)、信濃国飯田城下の千村陣屋内で旗本千村家に仕える医師・田中隆三の三男として生をうける。2人の兄がいたが、いずれも夭逝したので田中家の家督を芳男が継いでいる。
 幼少期の芳男は父と地元の僧侶から漢学などの基本的な教育を受けつつ、蘭学・洋学の翻訳書を読む。読書ばかりではなく、山野草からエキスを抽出し、化学薬品類の自製なども実践している。嘉永5年(1852)には、父が施術する種痘の手伝いも行うまでとなった。

田中芳男義廉兄弟の顕彰碑
1980年、長野県飯田市内に建てられた田中芳男義廉兄弟の顕彰碑。[佐藤撮影]

 

田中芳男胸像
2008年、飯田市美術博物館敷地内に建立された田中芳男胸像。[佐藤撮影]

 

 10代後半の田中は、安政3年(1856)に名古屋に出て更に学問修業を志す。そこで出会ったのが田中芳男の生涯を決定付ける人物、伊藤圭介(1803-1901)である。伊藤の本職は医師であったが、名古屋の本草学(中国古来の薬物学。この頃には博物学的な領域となっていた学問)の中心的人物で、来日時のシーボルトとも交流を持った大家であった。この伊藤のもとで田中は医術よりも本草学に入れ込み、その基礎から実地の採薬まで修得している。わずか3年の修業であったが田中はいったん郷里の飯田に戻り、この時期から『捃拾帖』の第1冊目を作成し始めている。
 文久元年(1861)に田中の転機が訪れる。「蕃書調所の頭取たる勝麟太郎、古賀謹一郎の二人から政府に向かって物産学というものが世の中に必要であるから是非その巧者な人を採用」(経歴談)せよとの建白があり、これによって伊藤圭介が江戸に召し出され、田中も伊藤に随行することとなった。この蕃書調所とは、幕府が海外情報の収集と洋書の飜訳、教育のために安政3年(1856)に設けた専門部局で、明治期まで名称を洋書調書、開成所と度々変えながら存続する。現在の東京大学の前身機関の一つでもある。
伊藤には名古屋周辺に多くの門人がいたはずであるが、田中を伴うに至った詳しい経緯は不明である。ともあれ、出府後の翌年、田中にも辞令が下り蕃書調所の物産方出役として職務に従事することとなる。伊藤たちが幕府から期待されたのは物産の調査研究、教育であったが、田中の評言では「伊藤圭介先生は博物の大家であるけれども殖産興業というほうは大得意でない。」(経歴談)しかも世情不安となって、伊藤は田中を後に残して文久3年(1863)に辞職・帰郷してしまう。残された田中と他の物産方要員は、それでも業務を継続していく。具体的な業務は、海外から取り寄せた花卉・野菜類の種を試験栽培することや、薬草園の管理、貿易に適した物産調査などであった。例えば、慶応2年(1866)に西洋リンゴの接ぎ木を国内で初めて試行したことを田中は経歴談の中で回顧している。


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『捃拾帖』二十二 画像[144]より

 明治18年9月18日 鹿鳴館の晩餐会のメニュー

 

『捃拾帖』二十二 画像[145]より

 同じく明治18年9月18日 鹿鳴館の晩餐会のメニュー


 同じ慶応2年に、田中は幕府要員としてパリ万博へ参加するために渡欧する。田中はこの時、昆虫標本その他日本の物産に関する標本を作製して万博会場に展示する仕事を担当している。当時、国内には西洋式の昆虫標本に関する知識は全く知られておらず、田中たちは「道具も無ければどうして宜しいか方角も立たぬ」(経歴談)まま、富士山麓まで出張して魚を掬う網で虫を捕り、仕立屋の留め針で桐箱に虫を固定するという、見よう見まねで何とかそれらしい物を作り上げてフランスに持ち込んでいる。
 船と鉄道を乗り継いで到着したパリで田中は、万博開催中の10ヶ月間、会場はもちろんのこと植物園や博物館に出入りし、知見を広めている。

「暇があれば博覧会場を巡覧し、また、博物館や動物園或いは植物園に行き、市街にも行ってみました。それから、種苗商に就いて種々買い入れ、我が邦に持ち帰りて宜しいような植物類を蒐めました。」(経歴談より)

 

『外国捃拾帖』一 画像[35]より 田中芳男の万博関係者身分証明証

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帰国後に明治政府官吏となった田中は、パリでの経験を基礎として博物館や博覧会に関する施策を種々建議することになる。海外で開催された万博としては、このパリ博以後、ウィーン(明治6年(1873))、フィラデルフィア(明治9年(1876))の各万博に田中は事務官として出張している。(一連の海外で収集した資料は『外国拾帖』5冊としてまとめられている。)
 さてパリから帰国した直後の慶応4年すなわち明治元年(1868)に幕府は倒れ、田中の属していた開成所はそのまま明治政府に接収される。ここから彼は新政府に採用され、最初の仕事として大阪に派遣された。ここに舎密局(理化学研究所、学校)を開設する準備を任される。これを皮切りに、明治10年代までの田中は、今で言う社会教育施設(博物館、動植物園、図書館)の設立や内国勧業博覧会の実施を建議していく。書籍館(国立国会図書館の前身)、博物館(東京国立博物館と国立科学博物館の前身)、上野動物園などの設立はこの時代の建議によって設立・計画されたものである。幕末以来、田中が専門としていた物産については、明治初頭に全国の物産調査を手がけ、明治6年のウィーン万博出展品選別に向けて全国から情報と標本を集めさせている。(物産調査で収集した諸情報は、田中文庫の『物産宝庫』32冊、『物産雑説』62冊に残されている。これらは『捃拾帖』と同様に綴じ込み帖としてまとめられている。)
 田中の官吏としての所属は大学(後の文部省)、内務省、農商務省と転々とするが、職務内容はこのように一貫して物産・博覧会に関わっていた。特に、明治10年(1877)に第1回が開催された内国勧業博覧会以後、明治34年(1901)の第5回まで、田中は審査官あるいは審査部長としてこれに関与している。明治日本の産業界は19世紀に出現した新しいメディア、宣伝媒体である博覧会、共進会という手段によって官民あげて牽引された側面があるが、農林水産業方面でその先導的役割を果たした中心人物が田中芳男であった。


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『捃拾帖』二八 画像[22]より

 榎本武揚執事から田中芳男宛の「風呂敷包」受領証

 

『捃拾帖』十二 画像[58]より

 横浜の西洋衣服屋の引き札


 田中は明治14年(1881)に農商務省農務局長まで昇り、明治16年(1883)以降は元老院議官、明治23年(1890)に貴族院議員となっている。政府外での社会的活動としては、大日本農会、大日本水産会、大日本山林会の設立に関与し、それぞれの幹事長を務めている。東京学士会(現・日本学士院)会員ともなり、東京高等農学校(現・東京農業大学)の初代校長も務めた。博物館関連業務としても、神宮徴古館農業館の準備責任者となっている。
 大正2年(1913)、76歳となった田中は自らの生涯を総括回顧する展示会「七六展覧会」を催す。これまで彼が収集した資料、書籍約500点を展示し、2500余名もの参加があった。この時に『捃拾帖』の一部も披露されている。

 

『捃拾帖』八一 画像[33]より 田中芳男の肖像写真

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晩年の大正4年(1915)、多年の博覧会行政や社会的活動での功績が認められ、男爵が贈られている。翌大正5年(1916)、田中芳男は胃潰瘍のために本郷区金助町の自宅で没した。
 田中芳男の経歴をこのように振り返ってみると、一介の青年学徒を振り出しにまさに時代の転換期・過渡期を生き延びて貴顕の地位まで登り詰めた人物像が浮かび上がってくる。一つ一つの彼の事績や建議を追跡紹介する作業は、あまりにも手がけた領域が広すぎて困難と言うよりほかない。とはいえ、大きな傾向は見て取れる。
 田中の生涯を貫いていた信念は、「実用性」の追究であった。蕃書調所物産方に採用されて以来、彼を衝き動かしていたのは世の中に有益な事物を研究し普及させることであった。特に農林水産業方面での勧業博覧会、共進会への関与は田中の信念を具体化し、社会に新しい技法や発明品、新製品を宣伝する場として大いに利用したものであった。田中の信念は普段の日常生活においても徹底されていて、自邸の庭には食用となる果樹しか植えなかったというエピソードも伝わっている。
 欧米の物産の紹介、普及啓蒙の活動を積極的に推進したものの、明治以降の田中は学究的な業績はほとんどなく、むしろその方面からは遠ざかっているような印象すらある。田中はそのような自らの立場を「鳥無き里の蝙蝠」であると経歴談の中で何度も謙遜していたが、むしろ各種学校や教育機関、学会などの設立に関与することで、学問や研究の社会的基盤整備をしたと評価されよう。社会制度や教育制度の過渡期に必要とされる人物像が田中芳男に凝縮して体現されていたということもできる。


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『捃拾帖』二十 画像[27]より

 臥雲辰致製造・綿糸機械(ガラ紡)の広告

 

『捃拾帖』十六 画像[31]より

 京都舎密局の製造したビールのラベル


 

コレクターとしての田中芳男

 田中芳男の有用性を強調する姿勢は幕末の本草学の雰囲気にその端を発するものであるが、田中がそこから学んだもう一つのことは、情報収集の徹底であった。人工物、天造物を問わず、森羅万象の見分した物についての情報を記録し保管する姿勢を、田中は名古屋の本草学の先達から受け継いでいる。この点は『捃拾帖』第1冊の後自序に明記されている。

『捃拾帖』一 画像[50]より 田中芳男筆 後自序

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[後自序 翻刻]
        余寓于博采塾数年先生曰業医者不可以不学本
        草而余身経営甚多数汝之日少冝就余友雀巣庵
        先生学之矣於此課業之餘毎採草木金石蟲魚等
        問之雀巣庵先生先生曽示一冊曰是余平生所集
        之遊方雑爼者也余自少壮歳々集之今既為九巻
        吾受而閲之自天下有名食餌之名宝器宝石之図
        至天下所梓行之記事等糊而載之吾不知何久集
        之意以問先生先生曰研究本艸者須正産地欲正
        産地者非博聞多識不能且雖古今人工之物必以
        草木金石作之故雖非天造物可不検査乎欲検之
        者不此挙不能也子之師錦窼先生亦既有此挙名
        其冊称爛紙籠其他同志之所集皆以已見各名其
        冊或称板行帖或称咫尺千里或称塵塚等不暇枚
        挙子欲学本草冝倣此集捃拾天下自是吾業雖益
        一事本草之餘力所及集之不休頃者有数日之閑
        即糊為一冊名捃拾帖為以吾此挙之嚆矢希者積
        歳月之久欲為数冊若有目吾集者取一紙益此挙吾
        喜豈有限乎雖然此集不能無画虎類猫之誤看官請
        恕之于時安政己未之晩春科埜伊奈東陽斎主人

名古屋での修業時代、田中には雀庵という先輩がいて、彼が所持していたスクラップブックを見せられる機会があった。それらには種々雑多な記録や図像が貼り込まれていたので、田中がその由来を尋ねたところ雀庵は「研究本艸者須正産地欲正産地者非博聞多識不能」(本草を研究する者は産地を正さねばならない。産地を正そうとするには博聞多識でなくてはいけない)、そのための貼り混ぜ帖である、と答える。有用性・実用性を追究するためには事物の関連情報を集約整理し、必要に応じて参照できるようにしておくことが必須となる。田中はこの実践を名古屋修業時代に学んだのである。彼にとって、実用性の追究という信念と『捃拾帖』編纂に代表される情報収集の実践は、車の両輪に等しい物であった。
 田中の事績を振り返ると、顕職に就く前の中堅官吏時代には日本の動植物を描いた博物画を収集・模写し、初等教育用の教育掛け図を編纂するなど、全国の物産(動植鉱物)に関わる情報を調査集約する作業に携わっている。
 この情報収集の実践を田中個人として行った成果が『捃拾帖』その他のスクラップブックに他ならない。田中本人の備忘的なメモ類、商品広告、大安売りのチラシ、商品のラベルや包装紙、電報・ハガキ、飲食店のメニュー、各種行事の招待状やプログラム、名刺、領収書、切符に時刻表、パンフレット等々、田中が足跡を残した随所で入手し、送られた紙類を、雑然と100冊以上のスクラップブックにまとめ上げている。「七六展覧会」の展示品目録では『捃拾帖』のことを次のように紹介している。

    「捃拾帖とは田中芳男君が安政年間より今日に至る迄普く蒐集せられたる広告、引札、
  商標各種の番付類、柱暦、博覧会、興行物、各種の集会に於ける観覧券、案内状の類
  其他旅館諸買物等の受取類、布告類、汽車、汽船の時間表近くは画はがき等の如きに
  至るまで多くは一小紙片に印刷され其場限りに廃棄せらるべきものを年代を逐ふて悉
  く之を帖付して書冊となしたるものなり」

(大日本山林会編纂『田中芳男君七六展覧会記念誌』、大正2年、p. 160.より)


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『捃拾帖』十二 画像[12]より

 砂糖屋の引き札(上下とも)

 

『捃拾帖』十二 画像[14]より

 


 

『捃拾帖』について

 はじめにも述べたとおり、田中芳男の旧蔵書(約2700タイトル、6000冊)は芳男の孫である美津男から、昭和6年(1931)に東京帝国大学に図書館の復興支援として寄贈された。図書館への登録は昭和7年(1932)となる。

『捃拾帖』七四 画像[02]より 田中文庫の寄贈印

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 田中文庫の目録には、昭和11年(1936)に同図書館が作成した『田中美津男男爵寄贈図書目録 』がある。田中文庫は彼が収集した書籍類、各種パンフレット、論文抜き刷り等を含むコレクションであるが、内容としては、本草学、博物学関連が圧倒的に多く、明治になってからの博覧会、共進会関係の書籍、報告書、資料も際立っている。そのような田中文庫の中にあって一際異彩を放つのが『捃拾帖』である。

<『捃拾帖』の編纂と構成>
 田中の青年期から晩年にかけて収集した雑多な資料をスクラップブックとした『捃拾帖』は、1人の人間が収集した資料としてはあまりにも膨大であり、これまでその全容を正確に把握できたのは田中芳男本人以外いなかったのではないかと思われる資料群である。(正確を期すならば、『捃拾帖』の最終冊は田中没後に遺族が編纂したと考えられるので、田中本人も実は全容を知らなかったことになる。) 今やデジタル画像として『捃拾帖』の全体を閲覧できるようになったことで、飛躍的に田中芳男や幕末・明治期の関連研究が進むことは間違いない。


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『捃拾帖』四九 画像[9]より

 東京職工学校校長・手島精一の明治37年 年賀状


 『捃拾帖』の作製については、田中が生涯にわたって継続的に編纂を進めたとこれまでは見なされてきた。しかも、田中が1人でこれらの編集を行ったとも考えられていた。実際の編纂過程はどのような状況であったのであろうか。『捃拾帖』にメモ書きされた田中の一文から、その様子が推し量れる。『捃拾帖』第31冊の表紙見返には、次のように記されている。

  「捃拾帖ハ初十餘冊ハ番號アルモ中途絶ヘタレバ程[ヘ]テ缺号トナリシバ其間ノ分整
  理セザルニ因ル依テ其ノ整綴ヲ急キ茲ニ明治二十九年迄ヲ調整シ始メテ缺点ヲ補フヲ
  得タリ即チ順ヲ逐フテ番號ヲ記シ得ルニ至ル整綴ハ美穂子ノ手ヲ労スル多シ而シテ何
  年分ト記スルハ其年ニ集メ保存スル所ニシテ必ス其年ニ成ルモノ而已ニ非スト知ルヘ
  シ 大正三年四月二十日 田中芳男誌」

 

『捃拾帖』三一 画像[2]より 田中芳男の識語

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この一文から明らかになることは、

(1)『捃拾帖』の最初の10余冊までは番号を付けて編集したが、中途でその作業が途絶したこと
(2)大正3年4月の時点で、明治29年分(第36冊)までの『捃拾帖』製綴作業が完成したこと
(3)第36冊までの整理によって、欠番が無くなり番号を付与できたこと
(4)『捃拾帖』の整理には美穂子(田中の六女で明治28年生)が手伝ったこと

である。他にも、各冊子の表紙に記されているメモ書き等々を確認すると、明治20年代まではたしかに『捃拾帖』の冊子は継続して作られているが、途中10年近くのブランクを経て明治40年代から晩年にかけて集中的に編纂をした痕跡が認められる。これは、七六展覧会の構想を練り始めたであろう田中が、準備作業の一環として過去の収集資料の整理を急いだためという事情も想定される。
 これだけ膨大な分量を持つ『捃拾帖』を、年を追うごとに多忙になっていたはずの田中芳男が1人で作製していたわけではなく、このメモ書きにもある通り、貼り込み作業に田中の娘・美穂子が手伝っていたことも分かる。『捃拾帖』作製には田中の家族の助力があったのである。
 『捃拾帖』の編集作業には途中にブランクのあったことが分かったが、その間に収集した資料をどのように保管していたかを示唆するメモも残されている。第30甲冊の題箋には、次のように記されている。

『捃拾帖』三〇甲 画像[1]より 題箋

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「明治二十二年度ノ袋中ニアリシモノヲ貼ス/其中雑駁ナルモノアルモ惣テ貼附ス但シ/年子ノ分明ナルモノハ遡リテ其年頃ニ収ム/大正三年二月■■」

 すなわち、田中は年度ごとに袋を用意してその中に資料類を一括して封入していたと見える。毎年このようなやり方で資料を保管していたことから、『捃拾帖』の編纂も年度単位の資料を集約できたのであろう。


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『捃拾帖』二十二 画像[63]より

 浜離宮での観桜会の招待状 宮内卿・伊藤博文より


 さて、現在のところ『捃拾帖』のタイトルで登録されている冊子は全94冊である。その内、第57、60~63冊が欠本とされている。各冊子の表紙や背中に漢数字で冊子番号が記されていて、これら5冊の数字が無いことから、従来、これらは欠本であると考えられてきた。しかし、『捃拾帖』の製作編纂過程を精査すると、これらの冊番号は必ずしも正確に冊子番号と対応しているものではなく、欠本5冊と思われていたものは田中没後、東京帝国大学に寄贈されるまでの間に数え間違いが生じたために発生した可能性が高いことが判明した。詳細については拙論を参照いただきたいが、その要点をまとめると次のようになる。

 (1)第57冊目の欠本が生じたように見える理由は、第59冊目として最初に番号付けされた冊子が後に附録とされてしまった(附録の冊子には「五九」と記した背ラベルが残存している)ことと、第30甲・第30乙と区分された冊子の次が32冊目ではなく「31冊目」と間違えられたことに由来する。結果として、57冊目は欠本でなく、完備していた冊子の番号付けの間違いで、見かけの上で欠本が生じている。

 (2)第60~63冊目の欠本についても、その前後の冊子の収録資料の年代を精査すると、4冊もの『捃拾帖』が有ったとは考えにくい連続性が認められる。すなわち、

      第58冊目 明治40年(1907年)資料を収録
      第59冊目 明治41年11月(1908年)までの資料を収録
                 [欠本?]
      第64冊目 明治41~42年3月(1908 - 09年)の資料を収録
      第65冊目 明治42年7月(1909年)までの資料を収録

このように、これらの冊子の資料収録年代は、ほぼ途切れなく連続している。第59冊目と第64冊目の2冊については、収録年代がほぼ重なってすらいる。『捃拾帖』の最終的に採用された番号付けは、年代の古い順から新しい順にほぼ整列されているので、『捃拾帖』の冊子の平均的な厚さとそれらに収録されたであろう資料の総量を考慮すると、この前後の時期にさらに4冊分もの冊子が存在していたとは、たとえ田中の収集癖が尋常ならざるものであったとしても、到底考えにくい。

 以上が、欠本が元々無かったと考えられる根拠である。なお、七六展覧会の際に出品された資料の中には、後に『捃拾帖』の一冊としてまとめられたタイトル(第73冊『中央線開通式出張捃拾帖』)、逆に、本来は『捃拾帖』であったはずなのに出展時に分離してしまった冊子(『新古大捃拾帖』)も存在する。このような事情も加味して『捃拾帖』の元の配列を考える必要がある。


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『捃拾帖』十九 画像[3]より

 河鍋暁斎画の商品ラベル(上下とも)

 

 


 『捃拾帖』のほとんどの冊子は順不同に内容も統一を取らずに雑然と資料を貼り込んでいるが、中には特定の行事ごとに資料をまとめて綴じ込んだ冊子もある。以下の冊子である。

    第72冊 明治42年大日本山林会総会関連資料
    第73冊 明治44年中央線開通式関連資料
    第74冊 明治44年日本材木業連合大会関連資料
    第81冊 大正2年七六展覧会関連資料
    第82冊 大正2年大日本山林会総会関連資料
    第83冊 大正3年年賀状
    第85冊 大正3年大日本山林会総会関連資料
    第88冊  大正4年年賀状
    第90冊  大正4年大日本山林会総会関連資料
    第92冊 大正4年朝鮮共進会関連資料
    第94冊  大正4年日本材木業連合大会関連資料

いずれも、明治40年代から大正にかけて編纂されていることが共通している。田中の晩年の整理方針が反映されていると見なせよう。
 『捃拾帖』の初期の冊子は貼り込む資料のレイアウトを考えて丁寧に作り込まれたものが多いが、明治30年代以降の冊子の中には、反故紙を表紙として、資料を貼り込まずに直接糸穴を開けて綴じ込むような、明らかに粗雑に作られたものもある。題箋すら貼られていない冊子もある。これらを田中は後日、再編集することを考えていたのかもしれないが、このように『捃拾帖』それぞれには、編集方針の粗密があることには注意しておきたい。(これが故に、編纂途中で上述したような番号の付け間違いが起きてしまったことも考えられる。)

 

『捃拾帖』四六 画像[1]より 間に合わせの表紙で題箋を欠く冊子

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<『捃拾帖』の位置付け>
 田中芳男が残した膨大なスクラップブックについては、見る者それぞれが思いのまま、自由に資料と対峙してその情報を活かすのが自然であろう。むしろ、『捃拾帖』はその成立から100年の時間を経過したことで、田中芳男本人は予期しなかったであろう、世相や時代の証言者としての特質を浮き彫りにしているとも言える。
 例えば、『捃拾帖』には大久保利通や伊藤博文、大山巌、榎本武揚といった著名人の名義で出された書類や案内状、私信が数多く貼り込まれている。かたや、無類の甘い物好きであった田中は全国各地の菓子のラベルやチラシをも『捃拾帖』に貼り込んでいる。『外国捃拾帖』には田中の見分した海外の情報が貼り込まれている。つまり、『捃拾帖』には維新の元勲から全国の庶民に至るまでの広い階層の資料が盛り込まれ、さらに海外渡航がまだ簡単ではなかった当時としては希有な例として、海外由来の情報も収録されている。一個人による資料の収集範囲の広さとしては他の追随を許さないだろう。
 貼り混ぜ資料の収集が半世紀以上の長期にわたって継続したことも重要な点である。しかも、幕末から近代初期の激動の時代を生きた田中芳男の周りに、どのような情報が飛び交っていたかが具体的に分かるのである。田中は文章としての日記を残していなかったようであるが、『捃拾帖』の収録資料を辿ることで、何時どこで誰と会い、何を食べたのかというような情報まで判明する。逆に、これだけの情報量を誇りながら収録されていない顕著な分野があったとすれば、それは田中芳男の関心外であったということにもなるだろう。


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 『捃拾帖』二七 画像[14]より
 愛知の月餅の搨写

 田中芳男は立体物の表面の凹凸を模写する技法として「搨写」
 (フロッタージュ)を得意とし、菓子の現物や植物の葉、幹、
 断面などを搨写して残している。
 『捃拾帖』の所々に貼り込まれた、この写真のように真っ黒く
 塗られた版画のような図像は、田中による搨写である。


 田中ばかりではない、新政府に採用された明治初期の官吏たちの日常を想像すると、役職や部署はそれぞれ異なっていても、『捃拾帖』に収録されているような紙媒体の情報量に普段から晒されて生きていたに違いない。そのような想像を働かせることもできる。大抵の同時代人はそれらの資料、情報を残すことなく棄てていたわけで、田中だけが例外的にそれらを保存したことになる。このように考えると田中の残した『捃拾帖』は、明治政府で長期にわたって勤め上げた実務官僚や貴族院議員の周りにどのような情報が集まり、どのような世相を眺めていたのかを示す一例にもなると評価できよう。
 江戸・東京に地域を限定した視点で見ると、偶然ではあるが、田中は安政地震の被害がまだ生々しく残っていたはずの江戸に出府し、関東大震災の起きる前に没している。つまり、『捃拾帖』に収められた情報は、震災と震災の間に挟まれた東京の姿を活写していることになる。彼が晩年まで長きにわたって居を定めていたのは本郷区金助町、現在の文京区本郷3丁目である。東京府内でもっとミクロな視点で探索すると、『捃拾帖』には当時の東京帝国大学周辺の情報も満載していることに気が付くだろう。


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『捃拾帖』(甲)四一 画像[5]より

 明治3年落成大阪高麗橋の写真

 

『捃拾帖』十五 画像[27]より

 明治8年 新橋~横浜間の鉄道時刻表


 

おわりに

 田中芳男の主要な関心領域が農林水産業、博物学にあったので、自ずとその方面の情報が『捃拾帖』には多数収録されている。とはいえ、そこに収められた各種資料の内容の多様性は驚異的である。これまでの先行研究が『捃拾帖』の中から特定の専門分野や商品情報を抽出して紹介することしかできなかったのも致し方あるまい。一方で、『捃拾帖』は文脈も無い断片的な雑多な資料の寄せ集めでしかないので、一貫した論を立てるような研究素材としては価値が無いと思われがちであった。確かに、田中の集めた一点一点の資料は、点描絵画の微少な点でしかない。これを統一的な画面として認知するには、背景的な知識や情報による補正が不可欠である。田中芳男の経歴や交友関係を背景に据え、点としての資料同士を関連する情報を手がかりとして繋いでいく作業が必要になる。『捃拾帖』がデジタル化公開されたことは、この作業を可能とする道筋が開けたことを意味する。
 『捃拾帖』は国内外の歴史資料、考証資料、民俗資料、地域資料、産業資料、田中個人の資料というように、様々な側面からアプローチできる情報の宝庫である。見る人の数だけ様々な情報の切り口、読み取り方による魅力の引き出し方があるわけで、『捃拾帖』から今後も各方面で予期せぬ発見が起きるに違いない。


 [ 『捃拾帖』資料紹介 ] (画像をクリックすると公開サイトへ遷移します)

『捃拾帖』八五 画像[9]より

 大正3年頃の徳島の盆踊りの絵葉書

 

『捃拾帖』二十五 画像[52]より

 三田育種場販売の野菜の種の袋


参考文献

  • 佐藤賢一「田中芳男『捃拾帖』の構成について:欠本5冊の行方を探る」『洋学』24号(2016年)
  • モリナガ・ヨウ『東京大学の学術遺産 捃拾帖』(KADOKAWA・2014年)
  • 田中義信「田中芳男自筆『科埜行雑記』 解説と翻刻」『飯田市美術博物館 研究紀要』第19号(2009年)
  • 國雄行『博覧会の時代 明治政府の博覧会政策』(岩田書院・2005年)
  • 田中義信「田中芳男の貼込帖 『多識帖』を中心に」『飯田市美術博物館 研究紀要』第15号(2005年)
  • 田中義信「新資料 田中芳男自筆『田中芳男履歴年表』解説と翻刻」『飯田市美術博物館 研究紀要』第14号(2004年)
  • 田中義信校注『田中芳男十話 田中芳男経歴談』(私家版・2000年)
  • 飯田市美術博物館『日本の博物学の父 田中芳男』(展示図録・1999年)
  • 磯野直秀「田中芳男の貼り交ぜ帖と雑録集」『慶應義塾大学日吉紀要 自然科学』No.18(1995年)
  • 吉田光邦編『万国博覧会の研究』(思文閣・1986年)
  • みやじましげる『田中芳男伝』(田中芳男・義廉顕彰会・1983年)

 

[東京大学総合図書館での田中芳男に関連する特別展示]
・平成23年度東京大学附属図書館特別展示 『総合図書館貴重書展 江戸 いきもの彩々』
 https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/html/tenjikai/tenjikai2011/index.html

・平成15年東京大学附属図書館特別展示会 『博覧会から見えるもの』
 https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/html/tenjikai/tenjikai2003/index.html

・平成6年東京大学附属図書館マルチメディア展示会 『博物館・博覧会と好奇心-田中芳男男爵旧蔵資料から』
 https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/html/tenjikai/tenjikai94/



  • 「田中芳男文庫と『捃拾帖』について」を利用する際は、必ず引用元(出典)を明記してください。
  • 「田中芳男・博物学コレクション」は以下のURLへアクセスするか、東京大学附属図書館ウェブサイトの「コレクション」からご利用ください。

【田中芳男・博物学コレクション】
 https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/tanaka/

【東京大学附属図書館ウェブサイト】
 https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/
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