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27 万民文庫の扉
27 Herbert, George The temple & a priest to the temple.
27 London, Published by J.M. Dent and in New York, by E.P. Dutton, [n.d.]  [イギリスから寄贈]

 ウィリアム・モリスは衰微したイギリスの印刷術の復興を目指して活動。その彼の主張を取り入れた最初の商業出版社がイギリスのデント社(Dent)。展示本の見開きのページを見ると、どちらのページも唐草模様で縁取りされている。モリスが自身の印刷所「Kelmscott Press」から出した本の雰囲気を十分に伝えている。しかもこの雰囲気をデント社は1906年から「万民文庫」(Everymans Library)という双書に採用。この双書であればどの本の扉を開いても、この雰囲気が飛び込んでくる。モリスの及ぼした影響の大きさが分かる。(髙野 彰)

28 「イルカと錨」の印刷者マーク
28 Coleridge, Samuel Taylor. The literary remains of Samuel Taylor Coleridge, collected and edited by 28 28 28Henry Nelson Coleridge. London, William Pickering, 1836. [イギリスから寄贈]

 エリザベス朝のイギリスで印刷の質が落ちたと嘆いたのはウィリアム・モリスだけではない。ウイリアム・ピカリング(William Pickering)という印刷者もいた。彼はダイヤモンド古典(Diamond classics)という双書を、当時とすれば簡便な様式であったが、製本をして出版。当時の出版物はまだ未製本で販売されていたので、たとえ簡便な製本とはいえ、彼の出版にかける気持が十分に感じられる。その意気込みを形に表したのが彼の採用した「イルカ」と「錨」の印刷者マーク、さらには、そこに付けた銘「アルダスの英国人弟子」(Aldi Anglvs Discip)。印刷に携わる者の永遠の手本であるアルド・ナヌティウス(Aldo Manutius)を師と仰ぎ、その名に恥じない印刷をするという意気込みをこのような形で示して実行。彼の目指した「Fine printing」をこの展示本に見ることができる。(髙野 彰)

29 エトルリアの偉大な指導者コシモ・メディチの葬儀で催されたペトルス・ヴィクトリウスの祈祷」 1574年 (セルマルテルリ印刷)
ORATION PETRI VICTORII HABITA IN FVNERE COSMI MEDICIS MAGNI DVCIS ETRVRIAE.
FLORENTIAE, Ex officina Bartholomai Sermartellii. CIC IƆ LXXIIII. [イタリアから寄贈]

 「Festina Lente」(急いで、ゆっくり)という銘文は、ルネサンスの印刷者でイタリア人のアルド・マヌティウスが初めて用いたことで有名。図柄には銘文の「早さ」に力点を置いて「いるか」をあしらい、早さを抑える象徴として船の「錨」を配す。マヌティウスの次の時代のイタリア人印刷者セルマルテルリ(Bartholomaus Sermartelli)は同じ銘文を用いても、図柄には「遅さ」を強調した「亀」と、遅さを少しでも速めるために「帆」を配している。「いるか」からは優美さを、「亀」からは着実さを読み取るべきであろう。セルマルテルリの書体は日本で直接目にする機会の殆ど無い、希少な書体。彼の書体は、既にアントニオ・ブラドー(解説30を参照)の書風を受け継いでいるので、イタリック(書体)の後年の方向性は既に見え始めたことが分かる。(髙野 彰)

30 「教皇五世の宣告文」 1587年 (A. ブラドー印刷)
MI SANCT. D.N. SIXTI PAPAE. V. CONSTITVTIO.
ROMÆ Apud Hæredes Antonij Bladij Impreffores Camerales. M.D.LXXXVII.  [イタリアから寄贈]

 斜体字は15、16世紀のイタリアで多用。イタリアの書体(イタリック)と呼ばれ、ローマン(書体)と対等の活字書体。イタリックで全体を刷り、人名をローマンで表示することもあった。こうした使用例は1580年代でもまだ見かける。イタリックの書体には2系統あり、その一つを受け継いだのがアントニオ・ブラドー(Antonio Blado)。彼は1515年頃から印刷業を始め、1549年には教皇庁布教聖省印刷師となる。おかげで異端摘発の根拠となった、悪名高い『禁書目録』の印刷者とも呼ばれた。死後は後継者達(Hæredes)が彼の衣鉢を継ぐ。“Contrà illegitimos” で始まる部分がそれである。展示本では、大文字のC, Rそして合字etが巻きひげ(swash letter)。(髙野 彰)

31 「ローマ教皇五世の教書」 1589年 (P. ブラドー印刷)
SANCTISSIMI D.N. SIXTI V. PONT. MAX. BVLLA.
ROMÆApud Paulum Bladum Impressorem Cameralem. M.D.LXXXIX. [イタリアから寄贈]

 展示本はアントニオ・ブラドーの息子パウロ(Paulo Blado)が教皇庁布教聖省の責任者に任命された貴重な任命書である。パウロも父の衣鉢を継ぎ、“Qua Paul Brado”ではじまるイタリックを使用して印刷。とてもすっきりとしたイタリックである。仕事とはいえ、自分宛の任命書を印刷するのはどんな気持であろうか。しかし理由は不明だが、パウロはその地位を1594年には放棄。(髙野 彰)

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