特別展示会附属図書館
TOPごあいさつまえがき資料解説資料リスト会場マップ

展示資料解説   展示会場図(別ウィンドウ)

ケース1ケース2ケース3ケース4ケース5ケース6ケース7ケース8ケース9ケース12ケース15ケース16ケース17ケース18

:::::ケース2:::::資料をビューアーで見る 

06 船中歌舞図・船中弦歌図 高川文筌筆 嘉永7年 2軸 1箱

 1853年に浦賀沖に来航したペリー(1794~1858)は、翌年にも再び現れ、日米和親条約を結んだ。ペリー艦隊の出現は、日本の長い鎖国の夢を破る最大のカルチャー・ショックだった。ペリーは、天狗(赤鬼)や西郷隆盛に似た異貌の持ち主として瓦版などに肖像画が載せられた。ここに展示したのは、高川文筌が1854年に描いたもの。ペリー(オランダ式に「ペルリ」と表記されている)以下6人の肖像画は、髪型・鼻・指の長さ・眼鏡などに特徴がある。右から3番目の「彼理之嗣子」の「彼理」は、「ペルリ」の漢字表記。

 吉田松陰(通称は寅次郎)は、1854年3月28日、燃えさかる知識欲に抗しきれず、下田で密航を企てたが、丁重に断られ幕府に捕えられた。『宝島』の著者として有名なR・L・スティーブンソンは、松陰の志に感動し、「吉田寅次郎」という伝記を書いた。肖像画の右から5番目に書かれているウィリアムズは、日本語が話せたので、旗艦ポーハタン号に乗船してきた松陰との交渉にも当たった。

 ペリー艦隊の水兵たちが、顔を煤で黒く塗っていかにも楽しげに歌い踊っているのは、「ミンストレル・ショー」という大衆芸能。ペリーの二度にわたる来航時に、「ヤンキー・ドゥードゥル」や「埴生の宿」、フォスター(1826~1864)の「主人は冷たい土の中」などが演奏され、タンバリン・カスタネット・バンジョーなどの楽器がかき鳴らされた。日本人が初めて耳にした欧米の現代音楽の響きであった。

 高川文筌は、谷文晁の弟子で、1818年に現在の埼玉県所沢市で生まれた。三上文筌とも言う。信州松代藩の御用絵師となった。松代藩が、ペリー来航時に横浜の警備を命じられたことから、「浦賀紀行図」「横浜応接場秘図」などを描いた。文筌は、応接委員・伊沢美作守政義のお付きの医師を装って重要な場所に出入りし、写生を行った。高川文筌の本作品(「船中歌舞図」「船中弦歌図」)と「浦賀表米使応接之図」が二軸で一箱に入って、総合図書館に収蔵された経緯は不明である。あるいは、東京大学史料編纂所に文筌の下絵を含む「米国使節ペリー渡来絵図写生帖」や、「ペリー渡来絵図貼交屏風」が所蔵されている事実と関係があるかもしれない。

 日本が外国文化に向かって広く開かれ、相互影響下に近代化と国際化の道を歩むこと、それこそが東京大学の創設の使命の一つであった。そして、その実現のために、大学の中心としての図書館が機能してきた。その原点に思いをいたすべく、ペリー絵巻をここに展示するものである。(島内景二)

07 日本の詩歌
07 Japanese Poetry by C.H. Page, Boston, Mifflin, 1923 [モース文庫]

 欧米における俳句人気の高まりを考える時、日本では顧みられることの少ないペイジ(1870~1946)『日本の詩歌』の意義は大きい。本書が刊行された1923年と言えば、既に英語圏にはチェンバレン、アストン、ディッキンス、ポーター、ヨネ・ノグチ、ウェイリーなどの日本文学の研究書・翻訳があり、フランス語圏にはロニー、ルヴォンが、ドイツ語圏にはフローレンツがいた。彼らの紹介に導かれたイマジストたちの詩作は、1910年代に始まっていた。ペイジは、230の詩歌の翻訳と解説を、8枚の美しい挿絵付きで出版した。フランスやイタリアの文学の英語への翻訳を専門とするペイジは、日本の歴史や文化の「真実」には詳しくないので、アメリカにおける友人・朝河貫一(二人はダートマス大学で出会ったと推定される)の助言も仰いだという。古代から始まる全19章の中で、タイトルが人名なのは芭蕉と加賀の千代(千代女)だけである。ペイジは、「朝顔につるべ取られてもらひ水」「とんぼつり今日はどこまで行つたやら」などの名句を挙げながら、千代の人生と文学の真実を美しく描き上げた。本書は、ペイジが意図した通りの「true book」たりえている。(島内景二)

08 The Chrysanthemum and Phoenix. Vol.3(no.2) (1883) [モース文庫]

 外国語に翻訳された最大の古典は『源氏物語』であるが、『徒然草』も翻訳書の種類が多いことで知られる。ここには、『徒然草』の記念すべき世界初訳を掲載した月刊の雑誌『The Chrysanthemum and Phoenix』(通称『The Chrysanthemum』)の第3巻第2号を展示した。これは横浜のケレー商会が出版していた日本文化紹介の英文雑誌で、日本学の基礎を築いたバジル・ホール・チェンバレンや、夏目漱石を教えたJ・M・ディクソンなども寄稿している。『徒然草』を英語に翻訳したC・S・イービー(1845~1925)は、カナダ・メソジスト教会宣教師で、明治9年に来日し、10~14年まで山梨で布教活動を行った。明治27年に帰国し、大正14年に没した。宣教師が『徒然草』を訳したのは、この作品の教訓性と思想性にキリスト教とも通じる普遍性がある事実を照らし出している。ちなみにH・H・ゴーウェンも、『徒然草』と旧約聖書の「コーヘレスの書」との響映を指摘している。(島内景二)

Copyrights © 2007 東京大学附属図書館