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20 モース『日本その日その日』
20 Morse, Edward S. Japan day by day; 1877, 1878-79, 1882-83. Boston and New York, Houghton and Mifflin, Riverside Press, 1917. [個人所蔵]

 エドワード・モース(Morse, Edward S., 1838-1925)はシャミセンガイなどの腕足貝を求めて来日したのがきっかけとなって、東京大学で動物学を教えることになる。3回来日し、いずれも日記を残し、それを基にして出版したのが展示本。本には親しみのある彼の挿絵が随所にちりばめられている。東京に在住しただけでなく、精力的に動き回り、北は北海道から南は鹿児島まで、徒歩と人力車と船と馬で駆け抜ける。おかげで今はほとんど見かけ無くなった日本のたたずまいが文章からも絵からも十分に伝わってくる。各ページはRiverside Pressがすっきりと仕上げ、表紙は部屋から眺めた海岸の図に彩色して飾るという、贅沢な装丁。この部屋とはモースがシャミセンガイなどを求めて神奈川県の江ノ島に設けた実験室。(髙野 彰)

21 モース 『日本その日その日』の電鋳版の第339ページ [モース文庫]

 東京大学総合図書館は関東大震災で崩壊後、多方面からの援助を受けた。そのなかに動物学教授を勤めたエドワード・モースがいた。東京大学の悲報を聞くと、かつての弟子で、震災の頃は東京の千代田区に法律事務所を開設していた宮岡恒次郎と連絡を取りながら情報を入手し、最後にはモース自身のコレクション約12,000冊を寄贈(注)。彼の遺言執行人ラッセル・ロブ(Russell Robb)氏からは『日本その日その日』の電鋳版が寄贈された。展示品はその第339ページ。電鋳版とは活字組をしたページを電気的に複製して作った印刷版のこと。本を印刷するときに図が多用されていると、活字と図版の部分が1枚の板になっていれば扱いは楽だし、小さなスペースで保存が可能。19世紀のイギリスでは挿絵入り本の印刷に専らこの版を使用、アメリカでは大量印刷本の印刷にこの複製版を使用。巻頭の日本人画家の手になる挿絵以外は上下2巻本の全ページの電鋳版が揃っている。(髙野 彰)

注)冊数は『東京帝國大學附屬圖書館復興帖』(東京帝國大学, 1930)(A15:322)等による。受入作業時、重複本・重複雑誌は所蔵登録されなかった。現在確認できる目録には図書・雑誌あわせて1,770件(約3,300冊)が記載されており、現在、蔵書検索システムへの入力作業中である

22 モース 『日本その日その日』の電鋳版で刷った第339ページ

 『日本その日その日』の電鋳版を使って実際に印刷したページ。展示品には図が2点示されている。1点目には東京大学の赤門が写っている。図によると、通りから赤門までは坂道、塀の周りには堀が巡らされている。『東京帝国大学五十年史』の写真では坂道だけが残り、堀は既に埋められている。現在は坂道もない。時代の経過を感じさせられる。こどもが長い竹竿を振り回しているが、これは竿の先端に「鳥もち」を塗り、トンボを追いかけている姿。日傘を差している後ろ姿の女の人はお母さんであろうか。2点目には小卓の上にガラスの水差しとコップ、そして湯気の出ているお茶をいれた土瓶が載っている。モースは1877年10月6日、日本で初めてと言われているダーウィンの「進化論」を講義する。その折に用意されたのがこの小卓。2図はいずれもモース画。(髙野 彰)

(トッパン印刷株式会社 印刷博物館による印刷協力)

23 モース『日本のすまい、内と外』
23 Morse, Edward S. Japanese homes and their surroundings. With illustrations by the author. Boston, Ticknor, 1886. [モース文庫]

 明治初期の日本で日常見かける建築物を人類学的な立場で研究した貴重な記録。モースは『日本その日その日』の著者として有名であり、そこには建物に関する記述も沢山出てくる。しかしその他の話題も沢山盛り込まれている。他方、展示本『日本のすまい、内と外』は建築物が主たるテーマなので、建築の専門書である。それが展示本を有名にしない理由と思う。確かに建築に関する本であるが、本文に飽きたときなどは絵とその説明文の部分だけで済ませたとしても、かなり内容は理解できるはずである。しかも絵はほとんど見かけなくなった日本の民家の様子を示した貴重な図版集となっている。(髙野 彰)

24 エドワード・S・モース撰著
24 表紙『大森介墟古物編』(理科會粋 第1帙上冊) 谷田部良吉口訳、寺内章明筆記。
24 東京大学法理文学部印行、明治12年12月 [宮内庁図書寮から寄贈]

 「横浜に上陸して数日後、初めて東京へ行った時、線路の切割に貝殻の堆積があるのを、通行中の汽車の窓から見て、私は即座にこれを本当のKjoekkenmoedding(貝墟)あると知った…貝塚を沢山研究したから、ここにある物の性質もすぐ認めた」。大森貝塚を発見した様子をモースは『日本その日その日』でこのように伝えた。この日(1877年6月19日)とは彼が来日してから2日しかたっていない。彼はこの僥倖を新橋駅に出迎えた東京大学のウィルソン教授にも、外山教授にも話さなかった。第一発見者として事の重大性をしっかりと認識していたことが分かる。その後、発掘調査を踏まえて「Shell mounds of Omori」が、2ヶ月後にはその翻訳版『大森介墟古物編』も世に出る。日本における考古学・人類学研究は彼とこの本に始まる。展示本の写真を見ると、新橋・横浜間の単線運転の鉄道線路のすぐ脇で発掘をしている様子がよく分かる。この2点を載せたMemoirs of the Science Department, Tokio Daigaku(Universtiy of Tokio)と『理科會粋』は日本に於ける大学紀要の嚆矢である。(髙野 彰)

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