知の職人たち−南葵文庫に見る江戸のモノづくり−
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個別資料解説

[6] 作り 試し 伝える

54 稲冨流砲術書 (いなとみりゅうほうじゅつしょ)

  • 写本(折本) 10冊(展示資料は「三十二相人形書」1冊)
  • 慶長14年(1609)
  • 正月伝授(稲冨一夢理斎[伝授]、寺嶋甚介[宛])
稲冨流砲術書(画像)
 種子島に火縄銃が伝来したのが1543年とされている。その後半世紀の間に、鉄砲は日本国内の戦術ばかりではなく、歴史そのものを変えた。このようにしばしば語られてきたところである。確かに時代の大きな流れを見れば、それはその通りであろう。しかし、その背後に幾多の人々の活動、苦闘、悲劇があったことを忘れてはなるまい。鉄砲による犠牲者も数多くいたことは言うまでもなく、かたや、この道具を製作する職人集団の切磋琢磨もあった。そして、鉄砲をより有効に使う技術を磨いた鉄砲師・砲術師たちもまた、ある意味では武芸者という職人としてあったのである。

 17世紀の初頭、まだ時代は殺伐としており、鉄砲を扱う技術には、戦場での実践という側面が強烈に意識されていた。この時代、鉄砲の名手と言われる人々が輩出したが、本資料をまとめた稲冨一夢(1571〜1611)もその一人である。彼ら砲術師たちは自らが開発した技を秘伝化して門弟たちに伝授していたが、日々刷新されていく技能の向上にそれらの秘伝書も対応し、内容が広範になっていく傾向が認められる。稲冨のまとめた技術書(秘伝書)も、南葵文庫に伝来した冊子だけでも10冊に上っている。

 本資料は、鉄砲の発射の仕方(構え方)、照準の合わせ方、火薬の調合の仕方、標的までの距離の目算の仕方等々、鉄砲に関する総合的な技術が秘伝書の形式をとって記されている。本書を伝授された寺嶋氏については未詳。また、本資料が南葵文庫に伝来した経緯についても明らかではない。全10冊の標題については以下の通り。

  1. 「三十二相人形書」
  2. 「三十二相書」
  3. 「極意薬籠書」
  4. 「三十二相筒堅之書」
  5. 「星合絵書」
  6. 「秘伝集」
  7. 「目積口伝書」
  8. 「日月両露相合」
  9. 「一両玉星合書」
  10. 「町積書」
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55 安盛流火薬書* (あさかりゅうかやくしょ)

  • 写本 1冊
  • 矢野専治安盛 伝授
  • 宝暦6年(1756)11月
安盛流火薬書(画像)
矢野専治安盛(あさか)は砲術家で、生没年未詳。淡路の洲本の人。(本書内に「淡嶌洲府住」とあり。)これ以上の伝記を詳らかにしない。

 本資料は戦前に東京帝国大学火薬学教室の教授、西松唯一が収集した一冊で、全文挿図入りで、西澤勇志智編著『日本火術考』(聚芳閣、昭和2年)に翻刻されている。戦後、総合図書館に移管され現在に至る。

 この一冊は主として火薬の調合とそれを用いた製品について説き、「相図」のための花火玉の作製法、地雷の作り方などが挙げられている。前記西澤は本資料を評して、「花火書として之を見れば、最も古く完成されたるものとして稀なる貴重品である」(前掲、96頁)と述べている。砲術の中でも、火薬に関する事柄に特化した内容の一冊である。

 この他にも、大筒を台に仕掛けた際に射出角度を設定する方法についても解説が加えられている。西洋ならば、砲口に角度を測る分度器様の計測器を差し込んでいるが、当時の日本では角度の概念は希薄だったので砲台に沿って曲尺や直交する紐をあてがい、その「勾配」を計測する方法が一般的であった。安盛流でもそのやり方が踏襲されている。微細な点ではあるが、東西の計測法の違いが現れていることは興味深い。

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56 心的妙化流* (しんてきみょうかりゅう)

  • 写本(折本・表裏両面墨書) 1冊
  • 南部行信 著
  • 元禄5年(1692)跋
心的妙化流(画像)
 著者の南部行信(1642〜1702)は盛岡藩主。信濃守。元禄5年に家督を継ぐ。本書は行信自らが創設した砲術の流派、心的妙化流の秘伝書である。藩主自らが砲術の一派をなし、さらには測量器具まで考案するというのはこの近世中期においては珍しい事例であろう。内容は、表の面に砲術の理念、火薬の調合法、鉄砲の図を載せ、裏の面に鉄砲の仕立て方、そして標的までの距離を測定するための台、「町見仏照器」を載せる。

 「町見仏照器」の用法についての明確な説明はないが、台の上に載せた扇状の板に目盛りを刻み、標的を見通すことによってその距離を読み取る仕組みのようである。

 本書も旧火薬学教室蔵書で、『日本火術考』にその全文が翻刻されている。

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57 礟家技精鍛捷弾誌* (ほうかぎせいかんしょうだんし)

  • 写本 1冊
  • 種子島盛行 誌
  • 安政6年(1859)授与(小川氏宛)
礟家技精鍛捷弾誌(画像)

 火縄銃の別名として「種子島」が知られているが、本資料はこの種子島を名乗る一族の一人が幕末、安政年間に砲術書を記していたことを示すものである。西欧ではこの頃に主流となっていた炸裂弾の解説である。

 本資料を授与された小川氏については未詳。旧火薬学教室の蔵書。

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58 天山派備忘録* (てんざんはびぼうろく)

  • 写本 1冊
  • 原禎賜祥甫 鈔録
  • 嘉永6年(1853)[録]
天山派備忘録(画像)
 近世中期以降の砲術史において、坂本天山(1745〜1803)の名は逃せない。機動性に富む砲台、「周発台」を考案し、それまでの命中主義を前提とする砲術に銃陣戦術の発想を取り込んだことは特筆される。高遠藩の砲術師範の家に生まれた坂本は、萩野流を修めた後、これらの創意工夫を発揮する。郷里の高遠藩では郡代として藩政改革を断行するが反対にあって罷免される。後に諸国を巡って教授生活を送るが、松浦静山(1760〜1841)の知遇を得て晩年は平戸で活動をする。

 本資料は天山死後、門弟がまとめた備忘録と思われるが、まさに雑記録というにふさわしい。特に明確な構成があるわけではない。砲術全般の記事が雑然と記されている。むしろ、天山の砲術の実践が非常に多岐に亘っていたことを窺わせるに足るものばかりである。算術の記載があるかと思えば、硝石の製造法も述べられている。日本沿岸に異国船が出没し、海防問題が緊迫する過程で天山派の砲術は、高島秋帆に代表される西洋砲術が本格的に導入されるまでの間、全国で盛んに学ばれることとなる。旧火薬学教室の蔵書。

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59 花火競技* (はなびきょうぎ)

  • 写本(本) 1冊
  • 編著者・年紀 欠
花火競技(画像)
 本来は標題を欠く資料であったと思われる。旧火薬学教室蔵書。

 全体が非常に淡い色調で、おぼろなタッチで描かれているが、これらが当時の打ち上げ花火の実際であった。年代、状況を明らかにできない資料であるが、当時の花火の雰囲気を知らせる格好の資料である。(本資料に掲げられている花火の一つ一つに人名が併記されているが、これは花火打ち上げの勧進元であろうか。)閃光とともに色とりどりに花開く現代の打ち上げ花火は、明治以後、種々の化学薬品を導入することで得られたものである。

 この火薬をふんだんに使った娯楽としての打ち上げ花火は、近世中期以後に一般化していく。戦場の殺戮のための道具が見せ物として享受されるまでに江戸の社会は成熟していたというべきか。

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60 立花百瓶図 (りゃっかひゃくへいず)

  • 刊本 3冊 彩色
  • 猪飼三左衛門 編
  • 寛文13年(1673)刊
立花百瓶図(画像)
 数ある近世の芸道の中で、比較的早い時期から組織・内容ともに確立を遂げていたものに華道と茶道がある。現在も隆盛を誇っている池坊の華道は、京都頂法寺六角堂の僧籍にあった池坊氏が確立したものである。本書は初期池坊の歴代、そしてその門弟たちが立てた花の彩色見取図集である。近世初期の華道は未だ貴族の趣味にとどまっており、これが大衆化していくのは近世中期以降のことである。

 本資料は藤井咲子氏によって大正8年に南葵文庫に寄贈されている。この他にも藤井氏は大部の華道関係書を寄贈しており、コレクション中のコレクションといった趣を呈している。

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61 結方図 (ゆいかたず)

  • 写本 1冊
  • 編著者・年紀 欠
結方図
 文化が儀礼を生むのか、はたまた儀礼が即ち文化となるのか。無味乾燥な表現をしてしまえば、一次元でしかない紐を絡めて結び目を作る行為、そしてその結び目に意味を見いだすこと、古代以来日本にはそのような文化・儀礼があり継承されてきた。結び目ばかりではなく、花弁の如く展開する紐のひろがりに当時の人々は現代人と同じように「美」を見いだすこともあったかもしれないが、しかしそれ以上に、組紐の技法が「流儀」として受け継がれ、生活の様々な場面で格式や儀礼を示す「記号」として用いられていたことは、日本文化の本質を考えるための重要な要素の一つであると思われる。

 本資料を南葵文庫は明治36年に坂田文庫(国学者坂田諸遠(1810〜1897)旧蔵書)の一冊として購入している。坂田以前の来歴は不明。本文中、朱字で「伊勢氏之説」などと記されていることから、有職故実家の伊勢氏に由来する情報を知り得た者の手になる筆録と思われる。一つ一つの組紐の完成図とともに、途中の紐の配り方を、重ね合わせの様子が分かるように描く手法は非常にわかりやすい。

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62 番外折形 (ばんがいおりかた)

  • 写本 1冊
  • 編著者・年紀 欠
番外折形(画像)
 本資料も坂田文庫として南葵文庫が購入した一冊である。

 資料[61→]で紹介をした紐の結びは現在でも役割を代えて趣味として親しまれているが、本資料で紹介されている「折形」は今ではあまり見かけないものであろう。ただしこれは、一枚の紙を折って種々の造形をする「折紙」ではない。贈答品の包紙の上に、熨斗でくくられている紙片、これが折形である。熨斗ですら今や印刷で簡略化されている昨今、折形から自ら作成して熨斗で括るという人はほとんど皆無であろう。ましてや、その折形にも多種多様なバリエーションがあったとなるとこれは既に現代社会では絶えてしまった文化であるという思いを強くさせられる。しかし近世の人々にとってはこの折形の多様さは、小笠原礼法の一部としてごく普通のものとして認知されていた。(当時の啓蒙書である「重宝記」の類には、折形の一覧図が描かれているものがある。)

 本資料の標題には「番外」という文字があることから、本編に相当する別書があった可能性もあるが、今後の検討課題としたい。

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63 古今金工便覧 (ここんきんこうびんらん)

  • 刊本 2冊
  • 編著者・年紀 欠
古今金工便覧(画像)
 本資料は古今の著名な金工師の略歴などを述べた一覧。目貫、笄、小柄などに代表される細工物を鑑定するための便覧と位置付けられる。18世紀末頃に活躍していた人物をも収録しているのでこの時期の刊行と思われる。職人名一覧の他に際立っている内容は、下巻に収録されている「後藤家代々銘判図譜」である。ここでは、初代・後藤祐乗(1440〜1512)から14代・桂乗(1751〜1804)にいたる歴代の銘・花押・紋様を列挙している。「目貫笄小刀柄等ノ彫物ヲ鑑定スルノ捷法ハマツ後藤家代々ノ正作ヲ視テ其鏨ノ趣熟得スルコト第一ノ修行ナリ」と述べられているように、後藤家の彫物は特別視されていたのである。この金工で著名な後藤家は数多くの分家に分かれ加賀前田家に召し抱えられた宗家の他に、幕府の金座において貨幣鋳造に預かっていた一族もいる。

 このような職人の技を識別するための「便覧」が近世社会において刊行されていたことは、当時の出版文化の広がりを端的に示しているであろう。

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64 狩野氏画工道統 (かのうしがこうどうとう)

  • 刊 1鋪
  • 西村屋与八 梓
  • 文政9年(1826)改正再板
  • (識語)「宝生氏 八月吉日」[墨書]
狩野氏画工道統(画像)
 本資料の大部分のスペースを占めるのは狩野派その他の画家の系図・子弟関係図である。これもまた資料[63]と同様に、落款などを識別するための簡便な便覧として利用されていたものか。「狩野派」という一大画工集団の名は周知であるものの、このように系図として掲げられると圧巻である。

 この1枚の両面に、「狩野氏画工道統并印譜」、「狩野免許門人」、「浮世絵略系」、「本朝画家系同印譜」、「後藤家系譜」、「千家系并花押」を収録している。

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65 縄張之図式 (なわばりのずしき)

  • 写本 1冊
  • 伊藤彦兵衛祐之[筆]
  • 弘化4年(1847)頃
縄張之図式(画像)
 南葵文庫が筆写した資料であるが、その筆写年代ならびに原本の所在は不明。

 外題に「中院御流」を冠する作庭術(造園術)の秘伝書、免許目録であるが、全文にわたって朱註が細字で記されている。「此正扣ハ実之懐刀と云ふ物ニテ譬弟子へ伝授いたし巻物を渡し講釈いたすにも机か膝の上ニ扣へ置く也必為見申間鋪候」と冒頭に述べていることから、これらの朱字は講釈用の注釈で、弟子には見せなかった文言であることが分かる。

 本分の内容は「縄張」の語に代表されるように、最初に庭園を造成するときの木石の配置、特に方位の吉凶を加味したプランニングが説かれている。(その模式図はあるものの、具体的な説明はなされていない。)

 この免許の末尾には「中院御流御傳/曽我十郎祐成後胤/伊藤彦右衛門祐保九代/伊藤彦兵衛祐之/弘化四丁未年/正月吉辰」とあり、系統が略記されている。また、文中には「慶長十乙巳暦春二月」、「伊藤園綾亭」の記載が認められ、慶長年間の伊藤園綾(祐保)の作庭術が弘化年間の祐之の代まで継承されたことが伺える。ただし、「中院」が公卿の大臣家の一つである中院家を指すのか、あるいはいずれかの僧坊を指すのか、流派の由緒を本資料では記していないので判然としない。今後の検討課題としたい。

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66 御堂再建* (みどうさいけん)

  • 刊本 1冊
  • 編著者不詳
  • 寛政4年(1792)刊
御堂再建(画像)
 寛政4年に築地の本願寺阿弥陀堂を再建したときの記録である。このとき、本山から命を受けてその建設に派遣されたのは足代(足場)を組まずに不思議な工法で堂塔を建立する紀州の里人たちであった。(具体的な地名は述べられていない。)

 工事現場で足場を組むのは当時でも普通であったが、この紀州の里人たちは滑車やろくろを固定するための最低限の足場だけで柱を立てたり、梁を設置する工法で人目をひいたのである。寛政4年から数えて30年以前の工事でもこの工法が行われていたと本文に述べられているので、1760年代にはこのような滑車を多用した建築工法が紀州では行われていたということになるのであろうか。わざわざ紀州から江戸に呼ばれて堂塔を建設した集団の物珍しさが、このような冊子を作らせた動機となっているのである。東大教授、井口在屋旧蔵書。

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67 染色法 (せんしょくほう)

  • 写本 1冊
  • 浦上直方[記録]
  • 安永6年(1777)奥書
染色法(画像)
 浦上直方(1698〜1757、小納戸・300俵)が将軍の命によって染色を実践したときの記録であると、奥書に述べられている。本文中の記載によれば、享保20年(1735)頃に染色が実施された模様である。藍染め、茜染め、蘇芳染めなどの実践例が、布地の質と大きさ、染料の分量を交えて記されている。吉宗がこの方面にも関心を持っていたことは従来指摘されなかったことである。吉宗のもとで各方面のブレーンが活躍をしていたが、染色の場面ではこの浦上が責任者として抜擢されたということになるのであろうか。

 この記録が述べる染色作業において、実験的な精神が発露されていたと思えるのは、古代の記録に基づく染色法再現の試みである。「内匠式車簾ヲ染条下之文」という古記録に「箆廿株染料」が記されているが、これに必要な茜・酢・灰などの分量はあまりにも多すぎるので「百分一割」にして再現され、その染色の程度が試験されている。(酢と灰は染色液のpHを調整して発色を制限するために用いられている。)

 残念ながら、この染色作業が何を目的として実施されたのかについては記載がないので、吉宗の意図がどこに向かっていたのかは分からない。

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68 柔皮染法 (じゅうひせんぽう)

  • 写本 1冊
  • 編著者不明
  • 永和3年(1377)2月[記]・享保8年(1723)奥書
柔皮染法(画像)
 享保7年(1722)に吉宗の命で西国の広範な階層にわたる古武器調査が行われ、その際に大和高市郡の民家から見いだされたのがこの文書の原本であった、と奥書(1723年、春田故明による)は述べている。しかし原本は腐食が激しく、判読できない部分の文字や絵図については城州・肥州の職人に問いただして補ったともある。

 本資料は皮の染め方、押型の方法を述べたもので、原本の「永和三年」という年紀は南北朝時代に遡るものである。鹿の皮などに模様を染め抜いたり、型を当てて文様を浮き出させたりする技法は古代から継承されている。甲冑などの皮革製品にその技法は多用されている。しかし、その技法自体を説明した古記録というものはほとんど無く、近世でも古いところでは喜多院所蔵の職人尽絵屏風にその様子が描かれている程度である。その屏風を見ると、本資料に記されている輪軸様の道具がやはり工房に吊されている様子が分かる。この柱に押し型と共に皮革を巻き付けて、蒸気で蒸すのが「ふすべ法」である。この技法をはじめとしていくつかの技法が本資料では述べられている。この文書の出現は、吉宗の施策の意外な副産物というべきか。

 本資料の伝来について奥書をたどると、1723年に第一の奥書が記された後、春田の子孫である永年が1790年に補写し、さらに1807年に田口朋良が写している。最終的には坂田諸遠の旧蔵書となっている。

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69 製葛録* (せいかつろく)

  • 刊本 1冊
  • 大蔵永常 著
  • 文政13年(1830)刊
製葛録(画像)
 著者の大蔵永常は、明和5(1768)年に豊後国日田郡の農家に生まれた。永常は各地に赴き、農学者として多くの著作を残した。代表的なものに、『農家益』『農具便利論』『除蝗録』『綿圃要務』『製油録』『広益国産考』『甘蔗大成』などがあり、生前に約30部、70冊の書物を公刊した。

 天保4(1833)年には駿河国田中藩で製糖、櫨の栽培などの産業開発を行い、翌5年には三河国田原藩の江戸家老、渡辺華山の推薦によって同藩の興産方に任命された。しかし天保10(1839)年の蛮社の獄によって渡辺華山が国許蟄居を命ぜられると、すぐに永常も田原藩から追放された。その後天保13(1842)年に浜松藩の興産方に採用されたが、生涯の多くをフリーランサーとして生きた。1860年死没説もあるが、明確ではない。

 本書には、幕臣であり儒者でもある羽倉簡堂が文政11年(1828)7月に序文を寄せている。本書の刊行は、文政11年を初めとして、同12年、同13年、天保11年、弘化3年と多くの版を重ねている。本館所蔵本は、文政13年版である。

 本書は、葛粉と遠州掛川で実見した葛布の作り方を詳述している技術書である。葛の蔓はその繊維から葛布を、葉は牛馬のえさに、根は乾燥させて薬用になり、また葛粉もとることができるので、少しも無用なところがないと説いている。

 葛根の利用は、『出雲風土記』や、奈良県橿原市の藤原京から出土した木簡によって、8世紀初頭まで遡ることができる。一方、葛粉がいつ頃から製作されるようになったかは、『延喜式』に「黒葛」の名称がみられ、これを葛粉とする説もあるがはっきりしていない。

本書にも言及されている葛粉の産地として名高い吉野葛の名称は、永享2(1430)年『鈴鹿家記』にみられる。

(荒尾美代)

大蔵永常の他の著作で、下記のものが総合図書館に所蔵されている。(抜粋)

[B40:1093]田家茶話/[B40:584]勧善夜話後編/[B40:598]奇説著聞集/[B40:920]民家育草/[D30:36]文章仮字用格/[D30:395]文章かなつかひ/[XB10:167]国産考/[XA10:20]除蝗録/[XA10:252]農家益初篇/[XA10:253]農家益後篇/[XA10:254]農家益続篇/[XA10:266]農家心得草/[XA10:269]綿圃要務/[XA10:282]豊稼録/[XA10:300]農稼業事後編/[XA10:314]耕作便覧/[XA10:399]農稼肥培論/[XA10:904](勧農叢書)老農茶話/[XA35:4]農具便利論/[XB30:58]製油録/[XB30:61]油菜録/[YA:109]徳用食鑑
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70 唐方渡俵物諸色大略絵図* (からかたわたりたわらものしょしきたいりゃくえず)

  • 写本 1冊
  • 編著者・年紀 欠
唐方渡俵物諸色大略絵図(画像)
 近世後半期には海外貿易の制限が政策的課題となり、「俵物」と称する海産物が対中貿易の主力商品となったことは周知の事実である。しかし、それではこの「俵物」とはいかなるもので、どのような姿形をしていたのであろうか。歴史の教科書には「干ナマコ」や「干鮑」という名称は記されているが、さてどのようなものであったのか。本資料はそのような俵物を図入りで示し、その等級を明示したものである。対外貿易の打開策として盛んに輸出された海産物の姿が精細に描かれている。

 本資料は田中芳男が明治26年に伊藤圭介から借り出して写させたもの。原資料は品川忠道(長崎の人で清国領事を務める)の旧蔵書であった旨が田中自身の識語に述べられている。

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71 ひとよ川* (ひとよがわ)

  • 写本 2冊
  • 綿貫清足 編
  • 安政6年(1859)自序
ひとよ川(画像)
 編者の綿貫清足(1814〜?)は跋文によれば、筑後国柳川の人。立花家藩士で弓術に秀でていた。本書は綿貫が病床にあったときの作で、世に残すことを意図していなかったとのことである。しばらくその行方が知られていなかったが明治31年に立花家関係者によって再発見されたものである。(綿貫の甥、志賀春湖の跋文による。)

 本書は、柳川近辺の魚釣、漁法などを図入りで紹介したものである。また、魚介類の形態図もいくつか収録されている。このように、庶民の娯楽としての魚釣までも詳細に描いた図譜は珍しい。

 田中芳男によって本資料は筆写されている。彼の識語によれば原本は紙面の中央部が湿気のために腐っていて判読できなかったとのこと。

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72 勇魚取絵詞* (いさなとりえことば)

  • 刊本(折本) 2冊
  • 編著者 欠
  • 文政12年(1829)跋(小山田与清)
勇魚取絵詞(画像)
 本書は平戸領生月島の捕鯨業全般を紹介した図譜である。近世日本の産業を振り返ると、山の鉱山業が文字通り金銀を生み出していたのと同様、海においては捕鯨が一大産業として確立されていた。この生月島だけでも全盛時で従業員3000人がこの業種に関わり、享保10年から明治6年までの間の年平均捕獲頭数は147頭、平均利益は22400両ほどあったとのことである。近代以前、これだけの規模の捕鯨を組織的に運営することに成功していたのは驚異的である。また、鯨はその全体が資源として利用されていた。食料としての鯨肉はもとより、その骨や歯(通称「鯨のひげ」)も細工に加工され、鯨油は除虫剤として水田地域で燃やされていた。当時から既に鯨という巨大な海生生物、そしてそれを捕獲する捕鯨には高い関心が向けられていた。多くの知識人がこの生月の地を訪れ、捕鯨に関する記録を残している。

 その中でも本資料は、鯨の捕獲法、解体加工の様子、さらには鯨の解剖図、漁船・道具類の解説にまで及んでおり、最も総合的に描かれた近世の刊行物である。国学者小山田与清(村田春海門下、1783〜1847)の跋文が寄せられているが、彼が本書を編輯したかどうかについては議論が残されている。21世紀にはほとんど姿を消してしまった日本の捕鯨であるが、近世期には産業としても文化としても決して小さな存在ではなかったことを本資料は如実に示している。

資料撮影: 国際マイクロ写真工業社

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