知の職人たち−南葵文庫に見る江戸のモノづくり−
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個別資料解説

[1]天を知る

02 軍気用法 (ぐんきようほう)

  • 写本 1冊(乾・坤)
  • 編著者・年紀 欠
軍気用法(画像)
気の概論、陽怪・陰怪・星官之部・風雨之論・妖怪之論よりなる。

 本書は戦国末期から近世初期にかけて成立したと思われる内容を含む軍学書である。全編にわたって「気」に関する事柄がまとめられている。戦場において陣地や城塞から立ち上る「気」を判断して勝敗を見極めること、太陽や月の見え方による吉凶の判断、あるいは彗星の出現位置による吉凶の判断の具体例が述べられている。望気と一括されるこの技術は、現代的な視点から見ると荒唐無稽のように思われるが、戦国時代には広く普及していたものである。天文学的現象を人事に相関するものとして認知する発想は、現代では矮小化されて個人占星術にのみ生き残っているが、近代以前の天文学の理論はこのような場面にも用いられていたことを本書は端的に示している。当時の軍学は様々な流派に分化していたが、本書には編著者名もなく、具体的な流派名が述べられていない。

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03 暦 (こよみ)

  • 刊本・折本 4冊(内、「天保十五甲辰暦」を展示
  • 伊勢内宮 佐藤伊織 刊
  • 天保14年(1843)刊
暦(画像)
 天保15年(弘化元年)暦から、それまで使用されていた寛政暦法(寛政10年(1798)〜天保14年(1843)施行)をやめ、新しい天保壬寅元暦が使われた。この暦法は明治5年暦まで使われた最後の太陰太陽暦法である。新暦であるので、巻頭に説明文が付いている。
「今まて頒ち行れし寛政暦ハ違へる事のあるをもて 更に改暦の命あり 遂に天保十三年新暦成に及ひ 詔して名を天保壬寅元暦と賜ふ 抑元文五年庚申 宝暦五年乙亥の暦にことわる如く 一昼夜を云ハ今暁九時(ここのつどき)を始とし 今夜九時を終とす 然れとも是まて頒ち行れし暦には 毎月節気・中気・土用・日月食の時刻をいふもの皆昼夜を平等して記すが故 其時刻時乃鐘とまま 遅速の違あり 今改る所ハ四時(しじ)日夜乃長短に随ひ 其時を量り記し世俗に違ふ事なからしむ 今より後此の例に従ふ」
(意訳)
それまで使われていた寛政暦に違いがあることがわかり、改暦の命令がくだり、天保暦として新暦が出来上がり、天保壬寅元暦と名付けられた。元文五年と宝暦五年の暦で断った1日の始まりとは違い、九時(ここのつどき、夜中の0時に当たる)から九時までとする。今まで暦掲載の節気、日月食などの値は定時法(現在と同じ時刻法)で表されていたが、民間で使われている不定時法(季節によって1時間の長さが異なる)で表すことにする。

 伊勢暦は折暦で、他の地方暦とは違う形態である。祈祷師で、伊勢の御師と呼ばれていた人たちが、全国にお祓いのおふだと共に配った賦暦(くばりごよみ)である。数も他の地方暦に比べ多く残されている。伊勢暦には多種類の形態があり、ここに示した献上暦とされる上等な暦は大きく、紙質も良く、表紙には金泥が塗られた絵が描かれていた。一般に配られていた暦は簡素である。

(伊藤節子)

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04 暦 (こよみ)

  • 刊本 7冊(内、「明和七庚寅暦」部分を展示)
  • 江戸暦開版所 吉田屋源八 刊
  • 明和6年(1769)刊
暦(画像)
 明和7年(1770)から安政3年(1856)までの江戸暦を、合本7冊に纏めている。合本の表紙は南葵という字と梅の花が組み合わされ、その模様が水色の地に浮き出ている。

 江戸暦は他の地方暦に比べて頒行されたのは遅く、江戸開府の頃に始まるとされているが、残されている暦で寛文4年(1664)に「新板コヨミ」とあることから、実際にはそれ以降と考えられる。売暦で、江戸から関東、奥州地域にまで広く売られていたようである。江戸暦の特色は他の地方暦と異なり、出版業者の集まりである暦問屋から売り出されており、元禄10年(1697)以降幕末まで、暦問屋の人数は11人と決められていた。暦の内容は全国で統一されていたので、体裁は違っていても内容は同じであった。

 江戸暦の体裁は一般的に綴り暦で、最初に「江戸暦開板所」とあり、次いで暦問屋の名前が書かれている。次の行から、「明和七年 かのえとらの宝暦甲戌元暦 参宿値歳 凡三百八十四日」と、暦の内容にはいる。この暦は太陰太陽暦法で、宝暦暦法によって計算され、この年の長さが384日であることを示している。

 太陰太陽暦法は(1朔望月約29.5日)×(12月)=(354日)と(1太陽年約365.25日)の組み合わせで出来ていて、1年約11日の差を19年で7回ほど、閏月を入れることによって、年々の季節に合わせた。1年の長さは短い年は354日、もっとも長い年はこの暦のように384日であった。この明和7年(1770)は閏月が6月にある。なお、ひとつきの長さは大の月が30日、小の月は29日である。

(伊藤節子)

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05 三島暦 (みしまごよみ)

  • 刊本・巻子 1軸
  • 御暦師 河合龍節藤原隆定 刊
  • 天保14年(1843)刊
三島暦(画像)
 ここに展示する三島暦も、伊勢暦[→03]と同じ天保15年の暦で巻頭に説明文が書かれている。

 この暦は巻子であるが、三島暦は一般には綴じ暦で、巻子は少ない。この巻子の最初の部分には金泥が施されている。「御暦師 河合龍節藤原隆定」とあるが、三島暦はこの河合家が代々頒行してきた。地方暦の中でももっとも古い暦の一つで、現存最古の三島暦としては、断簡であるが、永享9年(1437)の暦が残されている。「三島」とは書かれていないが、栃木県真岡市の荘厳寺で発見された康永4年(1345)の仮名版暦は三島暦の可能性が高く、年初から年末まで残されている仮名版暦としては、もっとも古い。康永4年の暦も永享9年の暦も宣明暦法(貞観4年(862)〜貞享元年(1684)施行)である。この宣明暦法は唐からもたらされた暦で、渋川春海(幕府初代天文方、1639〜1715)によって、日本の暦法が編纂されるまで、800年以上使われていた。この時代、地方暦によっては暦日(1年の日数)の違うことすらあった。

 この暦の冒頭には「天保十五年きのえたつ乃天保壬寅元暦 ・・・ 凡三百五十五日」とあるが、天保壬寅元暦法によって計算されたこの年の1年が355日であることを示す。次の行からこの年に対する暦注が書かれ、その後が、毎月の暦になっている。上段から日付、その日の干支、暦注の「十二直」、五行、中段に、「ひがん」などが書かれ、下段は暦注がいくつもかかれる。この形が、一般的な暦の内容であり、他に、日月食がある場合には1行の中にその現象が書かれる。

 この三島暦は南葵文庫へ石黒忠悳(1845〜1941)が寄贈したもので、箱書きに、明治42年10月の日付がある。また、書簡がつけられていて、三島本家河合龍節から、世古直道宛と、世古から、石黒家に宛てた手紙がつけられている。河合からの書簡で、この暦が献上暦の雛形として、河合家に残されていた暦であったらしいことがわかる。石黒忠悳は医者、佐久間象山(1811〜1864)から影響を受ける。維新後、軍医総監、子爵。

(伊藤節子)

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06 授時暦立成 (じゅじれきりっせい)

  • 写本 1冊
  • 編著者・年紀 欠
  • 奥書に「己亥十月初七日校完 霞洲源武卿」とあり。(「己亥」は1719年にあたる。)
授時暦立成(画像)
 毎年の暦を作製するために必要な公式やデータを集成したものが暦法である。その中でも、天文観測によって得られるデータをまとめた数表のことを「立成」と呼んでいる。本書は元朝の暦法である『授時暦』に基づいた立成であるが、そのデータは寛文・天和年間に江戸を基準として計算されたものである。

 近代以前の東アジアの天文学は、いわばこの暦法を整備することが最大の目的としてあったと言っても過言ではない。正確な暦を作ることが王朝の存亡にも関わる重大事と認識されていたのである。暦法の整備は不断の天文観測によって得られるデータの善し悪しで決定される。江戸幕府もまた貞享暦(1685年施行)を策定することで、独自の暦法採用に踏み切っている。歴代の将軍の中で、最も暦法整備に関心を持ったのは徳川吉宗であった。その意志は宝暦暦の策定として結実したが、そこに至る過程で数名のブレーンが集められている。和算家の建部賢弘、中根元圭、天文学者の西川正休などである。

 本書に奥書を記した「霞洲源武卿」とは榊原霞洲のことで、紀州藩儒。父の篁洲(1656〜1706)もやはり紀州藩儒で、明律の研究で著名。子の霞洲は、意外にも和算や天文に関する分野、しかも建部賢弘に由来すると覚しき写本群を筆写しており、それらが紀州藩に収蔵されている。ただし、榊原と建部の間に具体的にどのような交渉があったのかは未詳。

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07 周髀算経正解図 (しゅうひさんけいせいかいず)

  • 刊本・折本 1冊
  • 紀州 石井寛道 著
  • 文化10年(1813)自序
周髀算経正解図(画像)
 著者石井は紀州藩士の国学者。平田篤胤の門弟。

19世紀初頭の日本には、大きく分けて3つの宇宙論が混在して紹介されていた。一つは古代中国の宇宙論である「周髀説」。もう一つは、仏教的宇宙論である「須弥山説」。最後は西洋伝来の「地動説」である。著者の石井は国学者ながら、古代中国の『周髀算経』が述べている「周髀説」を採っている。本書は、図解を用いつつ、周髀説以外の二説が誤っていることを述べている。

 周髀説の要点は、天は球体で、地は平面であるということに尽きる。この原則に疑いを持たない立場で見れば、西洋の太陽系モデル、そして仏教的宇宙構造論は荒唐無稽のものと見える。確かに現代的見地からすれば、石井の採る周髀説の方がおかしいのであるが、ここでその正否を論っても生産的ではない。むしろ、当時の日本には宇宙論に関して少なくとも三つのモデルが提示されていて、それぞれが競合していたという歴史的事態を直視すべきであろう。

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08 新制天地二球用法記*(しんせいてんちにきゅうようほうき)

  • 写本 4冊
  • 本木良永 訳
  • 寛政5年(1794)成立
  • 印記「詳證館」
新制天地二球用法記(画像)
 本書は、いわゆる「地動説」(太陽中心説)について日本語ではじめて体系的に記述した翻訳書であり、現在使用されている「惑星」などの訳語も本書に始まっている。原本は、イギリス人George Adams (-1773)のA Treatise Describing and Explaining the Construction and Use of New Celestial and Terrestrial Globes, London, 1766の蘭訳本である。

 訳者の本木良永(1735〜1794)は、江戸中期に活躍した長崎阿蘭陀通詞・蘭学者で、通称は栄之進、のち仁太夫。字は士清。蘭皐と号した。幕命により天文・地理に関する蘭書を多く訳したが、長崎市大光寺に現存する墓碑銘には、「かつて命を奉じて書を訳した。時おりしも厳冬、自ら冷水を裸体に浴び、素足で諏訪神社に詣で、その業の成就を祈った」と刻まれている。

 本書に捺される印記「詳證館」から、これは関流の和算家で明治改暦に当った内田五観の旧蔵書であることが分かる。

(平岡隆二)

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09 天朝無窮暦附録 (てんちょうむきゅうれきふろく)

  • 写本 1冊
  • 平田篤胤
  • 天保2年(1831)8月付書翰(屋代弘賢宛)、9月付書 翰2通を収録
天朝無窮暦附録(画像)
 国学者平田篤胤には、暦学や年代学関連の少なからぬ著作がある。いくつか題名を列挙しただけでも、『春秋命歴序考』(1833年)、『三暦由来記』、『太吴古暦伝』、『弘仁暦運記考』、『天朝無窮暦』(1837年)などがある。平田は古今の文献を博捜し、古代日本に確固たる暦法が存在していたことを執拗なまでに証明しようとしていたのである。

 ここで紹介をする資料は、『天朝無窮暦』ではなくその附録である。本文の方は1837年に公表されたが、それ以前の1831年頃、平田は屋代弘賢(1758〜1841)を通じて天文方の山路氏などに『天朝無窮暦』に対する見解を問い尋ねていた模様である。その応答がこの附録の中に書翰として書き記されている。彼の博識ぶりが遺憾なく発揮され、中国の古典的天文学ばかりではなく、ヨーロッパの天文学についても踏み込んだ理解をしている様子が行間から読み取れるのだが、いかんせん、彼の結論は日本古代の暦法の存在証明へと収束していくのである。

本資料は小中村清矩旧蔵書。(後表紙には「阿波国片山東衛門」とあり。)

平田篤胤の他の著作で、総合図書館には下記の資料が所蔵されている。(抜粋)

[C20:189]『大道或問』/[G24:727]『大扶桑國考』/[C20:111]『童蒙入學門』/[D30:45]『疑字篇 日文傳附録』/[C20:176]『悟道編辨』/[C20:422]『牛頭天王暦神辯』/[E31:861]『伊布伎体廼屋家集』/[V10:64]『毉集仲景考』/[B30:101]『鬼神新論』/[G20:90]『古道大意』/[XB10:35]『皇國度制考』/[G24:725]『弘仁歴運気考』/[G24:96]『古史傳』/[C20:22]『再生紀聞』/[G10:260]『西籍概論』/[B60:1642]『春秋命歴序考』/[C20:284]『靈能真柱』/[A30:382]『天朝無窮暦』
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10 華術三才噺 (かじゅつさんさいばなし)

  • 刊本 1冊
  • 未生斎廣甫 上田周防法眼 著
  • 天保6年(1835)2月自序
華術三才噺(画像)
 今も残る華道の一流派、未生流の教科書の一冊。その冒頭には次のように述べられている。「抑当御流花道の大意を申さば挿花の姿に天地人三才の霊妙を備へまして取扱ひいたす故に此三才の道理を篤と御弁(わきま)へなさるが考要(かんよう)の処で御座ります。」本書で展開されている華道理論は、花を生けた姿に天地人の三才を表現するというものである。従って、その一つである「天」の姿が、当時の最先端の天文学理論によって概説されているのである。つまり、天地人の姿を象るにはその天がどのようになっているのかを知らなければならないという理念に基づいているのである。本書の前半部分は太陽系のモデル、そして世界全図が詳述されている。その説明の後に初めて生け花の実践例が挙げられている。

 天文学の知識がこのような全く異なった分脈の書物に記されている事例である。

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11 六彣違測集 (ろくぶんいそくしゅう)

  • 写本 1冊
  • 編著者・年紀 欠
  • 中扉題)天保元年寅歳春
  • <土生玄碩/高橋作左衛門>御仕置一件書
六彣違測集(画像)
 世に有名なシーボルト事件(1828年)の容疑者に対して仕置を申し渡した覚えである。事件の首謀者として最も重い刑に処せられたのが、幕府天文方と書物奉行を兼任する高橋景保であった。(申し渡しでは死罪相当とされていたが、この時既に高橋は入牢中に獄死していた。塩漬けとなって保存されていた彼の遺骸はこの判決を承けて取り捨てられた。)高橋はシーボルトに当時国禁であった日本地図を渡したわけだが、高橋はその見返りとしてロシアが作成した樺太周辺の地図を譲り受けている。ロシアの南下に対処すべく、この近辺の地理情報を高橋は切望していたのである。
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