知の職人たち−南葵文庫に見る江戸のモノづくり−
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個別資料解説

[5]ものを知る

41 爾雅紀聞* (じがきぶん)

  • 写本 1冊
  • 蘭山小野先生 口授
  • 年紀 欠
  • (印記)「森氏」(森立之旧蔵書)、「渡部文庫 珍蔵書印」(渡部信旧蔵書)
爾雅紀聞(画像)
  近世日本の本草学の皮切りは、李時珍(1518〜1593)の『本草綱目』(1596年)が早くも1607年には輸入されていたこと、あるいは林羅山 (1583〜1657)が『多識編』(1630年)を編纂することなどに求められるが、名実ともに学術的な飛躍を遂げた契機は18世紀後半に活躍をした小 野蘭山の出現にあったと言ってよいであろう。彼の主著、『本草綱目啓蒙』(1803年)が一つの画期を為している。また、彼が育てた門弟も数多く、その学 統からは著名人が輩出している。(資料・人物の関連見取図を参照[→]。)

 小野蘭山は、京都の人。松岡玄達の門弟。晩年、幕府に招聘され、採薬事業に従事する。

  本資料は、中国の古典『詩経』、「爾雅編」に現れる草木の名称を列挙し、解説した蘭山の講義録の写しである。中国の本草学を受容した日本の本草学者たちの 宿命として、草木や薬材の漢名を正確に和名に置き換える作業は必須のものであった。この同定作業無くして、日本の本草学、ひいては中国系の伝統医学の受容 はなかったのである。このたゆみない作業の蓄積の上に日本の伝統医学は築かれていたが、その一端をかいま見せるのがこの資料である。

 森立之の奥書によれば、本資料は小野蘭山の講義を実際に受けた狩谷棭斎の手沢本である。この森氏はやはり本草学者で狩谷の弟子。福山藩医を務める。その記述には信憑性があるだろう。本資料は森の手を経て、渡部に移り、ついで東京大学に寄贈されている。

小野蘭山の他の著作で、下記のものが総合図書館に所蔵されている。(抜粋)

[A00: 5997]本草綱目訳説/[T81:112]広参説/[T81:149]秘伝花鏡記聞/[T81:15]本草綱目啓蒙/[T81:208]耋筵小牘/ [T81:240]本草啓蒙名疏/[T81:64]蘭山先生十品考/[V11:2125]薬名考/[V11:848]飲膳摘要補遺/[V30:86]薬名 考/[V46:47]増補飲膳摘要
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42 怡顔斎蘭品* (いがんさいらんぴん)

  • 刊本 2冊
  • 松岡玄達成章 撰
  • 享保13年(1728)官許、明和9年(1772)発行
怡顔斎蘭品(画像)
 松岡玄達は、京都の人。伊藤仁齊(1627〜1705)に儒学を学ぶ。本草学は稲生若水(1655〜1715)の門人。松岡の門下からは小野蘭山が出ている。

 松岡は一時薬品鑑定のために幕命を受けて江戸に出たが、三ヶ月ほどで京都に戻ってしまう。(弟子の小野蘭山が長期にわたり江戸で活躍したのとは対照的である。)師の若水が中国の本草書のみを重視したのに対して、松岡は日本の古典なども参考にしたといわれている。

  松岡の著作は弟子たちによる死後出版も含めて多数あるが、梅、桜、菌類、貝や竹などのように特定の種類、分類を専門に扱った本草書、図説が特徴的である。 本資料は彼が編纂した数ある本草学書の中でも古今の文献に現れる蘭のみを採り上げて考証を加えたものである。下巻には佐伯博による挿図がまとめて掲載され ている。その精細さには思わず目を見張らされる。本書は玄達没後の出版。

松岡玄達の他の著作で、下記のものが総合図書館に所蔵されている。(抜粋)

[A90: 1233]怡顔斎日抄/[A90:19]結毦録/[J50:409]怡顔斎州府県誌/[T81:117]用薬須知後編/[T81:118]食療正要/ [T81:203]怡顔斎食品考/[T81:205]続諸州府県志摘抄/[T81:244]袖珍本本草雋/[T81:271]怡顔斎介品/[T81: 32]本草雋補正/[T81:32]袖珍本本草雋/[T81:51]広参品/[T81:85]本草一家言/[T81:90]怡顔斎苔品/[T83: 213]怡顔斎桜品/[T83:42]梅品/[T86:36]怡顔斎介品/[XA70:40]怡顔斎菓品
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43 採薬使記* (さいやくしき)

  • 写本 2冊
  • 後藤梨春 副鑑・高大醇 録
  • 宝暦8年(1758)序
採薬使記(画像)
  徳川吉宗が打ち出した施策の中に、一言で言えば、薬品の国産化という方針がある。その真意には、貿易赤字の解消(朝鮮・中国からの薬剤輸入は輸入超過状態 であった)、そして何よりも幕府(将軍)が民のために施薬を実施することで威光を徹底させるという意識があった。この施策を実践するために享保初期、幕府 は数名の本草学者(阿部将翁・松井重康・植村政勝)に命じて全国の薬物調査にあたらせた。(1722〜1729年)本書はその調査の際に遭遇した珍品、エ ピソードなどを後藤梨春(1696〜1771)らがまとめたものである。オットセイ、マンボウ、等々が述べられている。この採薬調査事業は、これまでの考 証中心で個人的研究によっていた本草学に、幕府主導の大規模なフィールドワーク的作業を本格的に取り入れる契機となったものである。

 吉宗が実施し たこのような政策はさらに多方面にわたっていく。丹羽正伯(1691〜1756)の提議により実施された諸国産物調査(1734年開始)もその一つであ る。日本の本草学がこのような政策に影響を受けたことはいうまでもない。薬材以外の有用性を持つ産物を積極的に発掘していく物産学の方面へも本草学は拡張 されていく。

 なお、この採薬事業の中心となった阿部将翁(1650〜1753)の生涯は謎に満ちている。一般に知られている生没年を計算 すると彼は104歳で亡くなっている。(80代で没したという異説もある。)南部盛岡藩の出身で、清国に滞在して彼の地で本草の実際に触れたというエピ ソードが伝えられている。1753年に江戸で没したことは確かである。田中芳男旧蔵書。

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44 和漢写真補遺 (わかんしゃしんほい)

  • 写本 1冊
  • 編著者・年紀 欠
  • (印記)「田安府芸堂印」、「献英楼図書記」(田安徳川家旧蔵書)
和漢写真補遺(画像)
  本草学はいわば自然物全般をその学の対象としているが、時代を追うごとに単なる薬材学から発展し、博物学、分類学へと展開していく。姿勢としても、純粋な 知的好奇心の発露から、殖産興業の一環として諸物の有用性を発掘・追究していく姿勢まで様々なものがあった。一方、博物学が進展すればするほど、正確な情 報を提示することは必須の要件となり、写実性を重視した図像が求められていった。近世後半の本草学書にはしばしば「写真」という語が冠されるが、これは現 代の「写実」という語感に近い。

 本資料は残念ながら南葵文庫に伝来するものとしては本編を欠く補遺だけのようで、しかも上卷しか伝来しない。編者 も画家の名も記されていない草木図譜(全25種を採録)であるが、その蔵書印が御三卿の一つ田安家のものであるということで紹介をした。この田安家の蔵書 印は、歴代藩主が使っていたようで特定の人物・時代を同定できないが、他にも数点、同じ印を持つ本草学書が南葵文庫に伝わっており、この方面に関心の高 かった人物が田安家内にいたのではないかと予想される。所蔵者の同定は今後の検討課題としたい。本書の南葵文庫へと至る伝来径路も未詳。

 なお、田安家旧蔵書は、一括して残っているわけではない。各地に分散している模様である。南葵文庫内にもさらに旧蔵書が流入している可能性もあるが、その追跡調査も今後の課題である。

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45 啓蒙蟲譜図 (けいもうちゅうふず)

  • 写本 1冊
  • 編著者・年紀 欠
  • (印記)「田安府芸堂印」、「献英楼図書記」(田安徳川家旧蔵書)
啓蒙蟲譜図(画像)
  本資料も田安家旧蔵書である。編著者名、年紀の記載はないが、その内容から判断して、前田利保(1800〜1859)編の昆虫図譜である。(現在の分類学 的観点からすれば必ずしも昆虫だけが収録されているわけではない。節足動物、軟体動物、両生類の類も収録されている。)非常に精細な図が特徴で、実際に採 集したものに基づいて描かれているものもある。(例えばチャバネゴキブリと覚しき虫の注記として、「天保八年五月越中于冨山城取之」と述べられている。殿 様が実際にこれを捕獲したのか、あるいは家臣が捕獲させられたのか。)小さな虫にまで知的好奇心を向けるまなざしが感じ取れる資料である。なお、前田利保 は本草学の同好会というべき「赭鞭会」を組織したことでも知られている。

 前田利保以外にも、本草学に興味関心を持った諸侯は数多い。肥後の細川重 賢(1720〜1785)、幕府の若年寄を務めた堀田正敦(1755〜18323)、薩摩の島津重豪(1745〜1833)、讃岐の松平頼恭 (1711〜1771)、などである。大名たちの間での情報交換も活発であり、彼らの庇護のもと、民間の本草学が発展をした一面もある。

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46 翻車考* (ほんしゃこう)

  • 写本 1冊
  • 編著者・年紀 欠
翻車考(画像)
  日本近海でもしばしば捕獲されるマンボウも、江戸時代の人々にとって不思議な生き物であった。本書は東西の諸書からこの魚についての記述を抜粋し、各地で 捕獲されたマンボウの図を掲げている。(一番の分量を占めているのは冒頭に掲げられている栗本丹州(1756〜1834)の記した「翻車考」(1825年)である。)記録されている内容としては、この魚の形状、名称の由来、方言・俗名、利用の仕方(調理法、薬効)などである。目を引くところでは、マンボ ウの解剖図、そしてヨンストンスの図鑑からも挿図が転写され、アルファベットでその名称(モラペレギリナmorapelegirim[ママ]、モラシツテ ルビスmorasitoetelbice)が記されていることである。

 和名マンボウの表記については「万宝」の漢字が宛てられている。資料の表題 にある「翻車」とは中国名で、海上で車のごとく翻っている(回転している)から付けられたともいうが、異説として、本来は「斑車」(表面に斑のある車)と 書くべきであるというものもある。マンボウの体表面の模様が顕著である事による。田中芳男旧蔵書。

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47・48 桃洞遺筆 (とうどういひつ)

  • 刊本 6冊(第一・二編、各3冊)
  • [紀伊]小原八三郎源良直 録
  • (初編)天保4年(1833)刊、(二編)嘉永3年(1850)刊
  • (印記)[47]「紀藩医学館蔵板之記」/[48]「紀藩綏壽館藏板之記」
桃洞遺筆(画像)
桃洞遺筆(画像)
 本資料は紀州藩医小原桃堂の遺稿を編纂したも の。小原は小野蘭山門下で、小野の採薬調査にも同行している。本資料の編集は小原の孫である良直による。

 小原の本草学に対する姿勢は、薬の薬効の真偽を見極めることを第一とし、小原の随筆である本資料でもその点を重視している。

 ここで同一書を二点提示しているのは、藏板印が二種類あったことによる。いずれも紀州藩医学校の印であるが、異なった印が押されているので紹介をした。

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49 山海異経 (さんがいいきょう)

  • 写本 1冊
  • 編著者・年紀 欠
  • (印記)「田安府芸堂印」、「献英楼図書記」(田安徳川家旧蔵書)
山海異経(画像)
  本資料も田安家旧蔵書。中国古典籍などに現れる想像上の鳥類を編集した図譜。(全26種)それぞれの絵詞として、生息地(?)、外観、どのような場面で出 現するのか、などを手短に述べている。(今でも有名なものとしては翼が雄と雌でつながっている「比翼」が紹介されている。)誰が何を目的としてこのような 図譜を編纂したのか、そしてそれを所蔵していた田安家の意図はどこにあったのか、いずれも不明。「鳥類」と外題に記載されていることから、「獣類」などの 冊子も編纂されたかと予想されるが、南葵文庫内には見あたらない。人面鳥、あるいは脚だけが人間となっている鳥など、摩訶不思議と言う他ないものを集めた 極彩色の鳥類図鑑である。南葵文庫屈指の珍本と言っても良いのではないだろうか。
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50 人参書* (にんじんしょ)

  • 写本 1冊
  • 編著者・年紀 欠
  • (印記)「森氏」(森立之旧蔵書 )、田中芳男旧蔵書
人参書(画像)
 朝鮮人参の全草図とともに、根茎の薬材となる部分を産地別、等級別に詳説した図譜。構成としては、前半に彩色が施され、後半部は前半の一部の無彩色部が収録されている。

  朝鮮人参はウコギ科に属し、現在でも常食する野菜としての人参(セリ科)とは全く異なった植物である。朝鮮人参は中国東北地方、朝鮮半島からシベリアにか けて自生していたが、現在ではほとんど取り尽くされてしまったようである。中国最古の本草書『神農本草経』(1〜2世紀に成立と推定)にも記述されている ように、古来より珍重されていた薬材である。

 近世の日本でもこの朝鮮人参は高価な薬材として出回っていた。吉宗が将軍職を継ぐ以前、疫病 の流行が頻発して人参がもてはやされ、投機の対象となるほどその人気が過熱した。その品不足に対処し、なおかつ対外貿易の支出を抑えるための措置として、 吉宗の意向で強力に進められたのが高麗人参の国産化事業であった。(資料[51→]を参照。)

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51 参製秘録* (さんせいひろく)

  • 写本 2冊
  • 田村元雄 撰
  • 明和4年(1767)跋
  • (印記)「福山文庫」(福山藩阿部家旧蔵)、「森氏開万冊府之記」(森立之旧蔵)、田中芳男旧蔵書
参製秘録(画像)
 著者田村元雄(藍水)は阿部将翁の弟子とされる。吉宗の人参国産化事業に動員され、その量産化への道を開いた一人。江戸での初めての物産会を発案した、平賀源内の師としても知られる。

 本資料は2冊に分かれているが、前編は人参に関する古典籍の記述の考証、ならびに国産化事業の推移についてまとめている。(漢文による。)後編は一転して、人参の栽培薬園(下野国今市)での収穫から江戸での製品化に至る過程を精細な図入りで紹介したものである。

  吉宗の人参国産化事業は次のような流れで実施された。1719年、宗対馬守に命じて人参に関する資料の提出、ついで1721年に生根を献上させる。(ただ し、この根は枯れてしまう。)1727年、再度宗家から生根と種子の献上あり。(宗家はこの命に従うため、朝鮮の国禁を犯してまで彼の地の人参の種を密輸 している。)清国商人からも献上あり。1728年、日光今市に播種して活着。1733年、初めて収穫に成功。1737年、種子を幕府より頂戴した田村藍水 が自宅で栽培を開始。(その栽培記録が『人参耕作記』(1748)となる。)1738年、結実した種子を全国に販売開始。以降、国内での栽培が軌道に乗 る。(天明期には清国に輸出をするほどになっている。)

 本資料には、国内でどのようにして人参が市場に出回るかまでの過程が克明に描か れ、末尾には各工程で用いられている道具類まで図示されている。(この加工技術も栽培と同様、当時は試行錯誤の連続であった。)当時の製薬事情を知る上で も貴重な記録である。なお、本資料の旧蔵者である森立之は福山藩医を務めていた。その縁で福山阿部家の旧蔵書が彼の手に渡ったものであろうか。

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52 二物考* (にぶつこう)

  • 刊本 1冊
  • 瑞皐高野先生 著、内田恭思敬 記
  • 天保7年(1836)刊
  • (印記)「紀伊小原八三郎源良直蔵書之記」
二物考(画像)
  度重なる飢饉に対処するため、非常用食物の研究に特化した本草学の分野に「救荒本草学」がある。近世期には何度かこの災厄が大規模に起こっているが、高野 長英が本書を執筆した天保期も天候不順からなる大飢饉の時代であった。高野が本書で紹介をしている二つの作物は、一年の間に三度収穫の出来る早そば(具体 的な品種の同定は不明)と、寒冷地でも生育する馬鈴薯である。この二つの作物の特徴、栽培法を詳述したのが本書である。

 本資料は、高野の人物関係 を凝縮したと言うべき構成になっている。彼には医学関係の門弟が多数いたほかに、異色の弟子として和算家の内田五観(弥太郎)・奥村増貤(喜三郎)がい る。内田はこの『二物考』に附言を寄せている。馬鈴薯の挿絵を描いているのは、先述した渡辺崋山である。さらに「尚歯会として知られる会合の主催者は本書に序文を寄せた紀伊藩儒、遠藤勝助である。そもそもこの尚歯会設立の趣意は飢饉対策を講ずることにあったらしいことからも、本書に遠藤が序文を寄せることは自然であろう。

 なお、今回の展示で紹介する『二物考』の一本は南葵文庫旧蔵書ではないが、蔵書印から『桃堂遺筆』の編者である小原良直のものであったことが判明した。偶然とはいえ、紀伊藩の人物の旧蔵書であったことになる。(総合図書館への伝来径路は不明。)

)従来の通説では、「尚歯会」は崋山、長英らが集った蘭学研究グループという位置付けが与えられていたが、実態は遠藤勝助が催した一般的な知識人サークルであったようである。崋山と長英の二人はこの会の常連であった。

高野長英の他の著作で、下記のものが総合図書館に所蔵されている。(抜粋)

[G27:832]書翰写/[G29:799]戊戌夢物語/[V11:2106]黴瘡或問/[V50:3]居家備用
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53 定府官録帳 (ていふかんろくちょう)

  • 写本 1冊(横帳)
  • 編著者・年紀 欠
定府官録帳(画像)
 本資料は高橋氏(未詳)より南葵文庫に明治45年5月7日に寄贈されたものである。紀州徳川家の江戸定府の官員録である。後表紙の識語に「天保八丁酉年(1837年)十一月 高橋」と記されていることから、この時期に作成され、高橋氏のもとにあったものと推定される。

  武家文書の中には藩士の分限帳、あるいは武鑑などのように役職を一覧できる資料があるが、この『定府官録帳』の特徴は、各人名と役職名が一枚一枚の札に記 され、台帳に差し込めるようになっていることである。つまり、役職の交代や、役職そのものが新設されることに対応して差し替えが出来るようになっている。

  この帳簿の筆頭は、「三万五千石ヨ 水野土佐守」である。これは新宮城主であった水野忠央のことであろう。(天保六年(1835)に家督を相続してい る。)「儒者」の項目を見ると、尚歯会の主催者、遠藤勝助の名が「御書院番格 弐拾石 五拾石高」として記されている。(他に儒者として一名、「榊原雄之 助」の名がある。これは資料[34]で紹介をした榊原霞洲の後裔であろうか。)

 本資料には、南葵文庫へ寄贈直後に記録されたものと思われる写し(徳川家の用箋に記されている)が備えられている。これによって、寄贈当時の資料の原態がどのようなものであったのかが伺える。


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