『蝦夷暦 安政三丙辰年暦』と題された絵暦の写しは、『蝦夷チャランケ并浄瑠璃言』、『享和辛酉唐太事情』と合わせて一冊に綴じられている。この部分の表紙には「原本水戸家蔵」とあり、「蝦夷暦 安政丙辰暦 奥州にて出函館へ廻夫ヨリ蝦夷ヘ廻ルヨシ」と記されている。
暦の部分は縦31?p、横42?pで、雲母引きした雁皮紙を用い、それをこの写本の大きさ(縦28.3?p、横20.5?p)に合わせて折畳んである。用紙の右半分に絵暦、左半分に晴雨考が絵文字によって精巧に写されている。
絵暦は当時「盲暦」と呼ばれたもので、枠内の大きさは縦26.7cm、横16.5cmで、当時発行されていた舞田屋版略暦、および絵暦とほぼ同じ寸法である。
「盲暦」は奥州南部藩城下町の盛岡で、文化初年頃から毎年発行され、明治6年に太陽暦になってから10年余り中断した後、太陰太陽暦(旧暦)のままで復活して、今日まで継続されている。「盲暦」には絵文字と記号のみが用いられ、文字は一切使用されていない。文字の読めない人々にも利用できる特色を持っている。全体の構成は年によって多少異なるが、個々の暦註の絵柄はほぼ同じである。
版元の舞田屋は藩の印判摺物の御用を務め、絵暦と同じく文化年間(1804〜1817)かな文字による略暦を発行している。絵暦も略暦も半紙一枚摺りであるが、絵暦では嘉永七年(1854)暦に作物の男種・女種を示す図表、嘉永八年暦に年齢早見表(絵文字のみによる)の附録を暦の左側に付けている。略暦では嘉永八年暦に同年一年間の毎日の晴雨考(天気予報)を付けたものを発行している。
『蝦夷暦』と前年の略暦の晴雨考とを比較してみると、全く同じ様式で、文字で「晴」「雨」「雪」などとしたものを、太陽、斜線、雪の絵というように総て絵で現している。これによって、『蝦夷暦』の晴雨考は、前年の文字による晴雨考の考え方を絵にしたものということが分る。略暦の晴雨考も絵暦のものも、恐らく盛岡地方の気象によるものと思われる。いかにも北国らしく雪の日が多い。
絵暦の次に絵解きが付いていて、版元の舞田屋を前田屋とする他は、正しく解読している。また、晴雨考の末尾に「臣富田知進写」と筆写者の識語があり、それには絵暦が函館辺で多く用いられていることと、晴雨考がこの地の気象によく合うことが記されている。南部絵暦が蝦夷地にまで普及したこと、安政三年暦に晴雨考が附録とされていたことの知れる新史料である。
(岡田芳朗)