知の職人たち−南葵文庫に見る江戸のモノづくり−
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ご挨拶特別展示会附属図書館
個別資料解説

[2]地を知る

12 町見術 (ちょうけんず)

  • 写本 1冊
  • 編著者・年紀 欠
  • 表紙に「吉良氏ヨリ来」とあり。
町見術(画像)
 本書は「阿蘭陀流」といわれる測量術(町見術)の秘伝書である。オランダから伝来したといわれる技術であるが、道具としては磁石、製図用具としてのコンパス、そして見盤(見通し板)を用いることが特徴である。その測量の原理も単純で、相似三角形を用いて距離を算出し、磁石で方位を図ることの組み合わせで地形を測り取ることが主たるものであった。流派としては、元禄年間に活躍した清水貞徳という人物がまとめた清水流の町見術が最も隆盛を誇っていたが、他の流派の内容もほとんどは大同小異であった。近世前半期に幕府が諸国の大名に命じて国絵図を作製させたが、それは結果として全国各地に測量家の登用を促したのである。町見術もその気運に乗ってまとめられ、体系化された技術の一つであったといえる。

 本資料の途中には「伝来」とあり、「樋口権右衛門 金沢刑部右衛門 金沢清右衛門 金沢勘右衛門 来清元皈居士(清水貞徳のこと) 松村少馬 岡本十左衛門 山路久次郎」の人名を列挙している。なお、最後の人物「山路久次郎」は、山路之徽のことである。今のところこの系統を述べる資料はこの一点だけのようである。

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13 対馬国図 (つしまくにず)

  • 写 1鋪
  • 編著者・年紀 欠
  • 裏打ちした裏面に「対馬国図 篠原」の文字あり
対馬国図(画像)
 旧国名単位で作成された近世期の地図を「国絵図」と呼んでいる。幕府が諸国の大名に命じて作らせた国絵図は、広げると数メートル四方にもなる巨大な地図である。この国絵図を作るために用いられていた技術が先に見た阿蘭陀流の測量術[→12]である。この地図もまた国絵図の系統をひくもので、地形ばかりではなく、海路や番所の情報も記されている。伊能忠敬の測量が実施される以前の典型的な日本の測量地図の一例として紹介をするものである。
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14 紅毛天地二図贅説 (こうもうてんちにずぜいせつ)

  • 写本 1冊
  • 北島見信 著
  • 元文2〜3年(1737〜38)頃成立
紅毛天地二図贅説(画像)
 オランダ製の地球儀・天球儀に記された地名・星の名を翻訳し、それに注釈を加えたものである。翻訳の対象となった両球儀は、江戸中頃、長崎に舶載されたファルク父子G.& L.Valk作製(1700年)のもので、その実物が松浦史料博物館(長崎県平戸市)に現存している。おそらく当時は長崎奉行所に保管されていて、著者の北島見信(生没年不詳)はその翻訳を奉行から命ぜられたと思われる。

 当時の長崎における西洋天文・地理学研究の状況を窺い知ることができる貴重な資料であるが、原語のラテン語を正確に日本語に写すために、長音に「ー」記号を用い、拗音・促音のかなを小さく書くなど、翻訳技術史上からも注目すべき作品である。

 北島の経歴・事蹟はほとんど不明であるが、長崎唐通事・盧草拙(1675〜1729)の門人だったようで、享保4年(1719)将軍吉宗の需めにより、天文学についての質問に答えるため江戸へ赴いた草拙と西川如見(1648〜1724)に随行したという記録がある。

(平岡隆二)

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15 喎蘭新訳地球全図 (おらんだしんやくちきゅうぜんず)

  • 刊 1鋪 彩色
  • 橋本直政伯敏 製
  • 寛政8年(1796)刊
喎蘭新訳地球全図(画像)
 本資料の著者は、浪華出身の蘭学者・橋本宗吉(1763〜1836)。江戸に出て大槻玄沢の門を叩く。(なお、橋本の本地図作製への関与は小さいという見解もある。)

 本世界図は日本で初めて刊行された東西両半球図であるが、紙面の大半は地球説及び世界地誌の情報で占められている。しかし地図情報は当時としては古いもので、例えば、カリフォルニアが島として描かれている。(本文中には西欧の地図の出典を明らかにしていない。)確かに最先端の地理情報を示すものではなかったものの、これ以後模倣版をいくつか生む地図となっている。日本人の世界観もこのような地図に刺激を受けていくこととなる。

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16 各国旗図 (かっこくはたず)

  • 写本(折本) 1冊 板表紙
  • 編著者・年紀 欠
各国旗図(画像)
 国や地域、和蘭東インド会社などの船舶に掲げられる旗章、192図を一覧形式で掲げる資料である。各図には所属名の蘭語と日本語が併記されている。また、巻末には蘭文が記されているが、日常会話的な問いかけの文である。(漂着船などに対応するためのものであろうか。)

 各地に類似の資料が残されているが、平戸侯松浦静山(1760〜1841)の識語を有する『異国旗標』(国立科学博物館所蔵)では、その図を天明6年(1786)に入手した旨が述べられている。この頃には旗章の一覧図は出来上がっていたと考えられる。各地の沿岸に異国船が現れ、海防問題が国内で浮上してくる時期、その識別のためにもこのような旗章を集成した情報が必要となってきたのである。

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17 地勢提要 (ちせいていよう)

  • 写本 1冊
  • 観巣橘景保 編輯
  • 文政7年(1824)自跋
地勢提要(画像)
 幕府天文方、高橋景保が編輯した日本各地の地理情報の要録。自跋によると、伊能忠敬が実測したデータを参照しやすいようにまとめたものである。採り上げているデータは、各地の経緯度(経度は京都の改暦所を0度とする)と江戸からの里程、主な島嶼(本州、四国、対馬、など)の周回里数、湖沼の周回里数、国別島嶼数、郡・村・島嶼の異称、である。

 景保は父の至時が没したのち、伊能忠敬の測量事業を幕府側の要員として支援している。その完成後に本書はまとめられたものである。シーボルト事件の発端ともなった日本に関する地理情報は、まさにこの時に編纂された伊能図に基づいている。本書は「偶堂」なる人物(向山誠斎か?)が明時館(渋川家)の蔵書を借りて写し取ったと奥書に記されている。小中村清矩旧蔵書。

高橋景保の他の著作で、総合図書館には下記のものが所蔵されている。

[G24:852] 『遭厄日本記事及附録』
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18 蝦夷チャランケ并浄瑠璃言 享和辛酉唐太事状 蝦夷暦安政三丙辰年暦
  (えぞちゃらんけならびにじょうるりげん きょうわかのととりからふとじじょう えぞごよみあんせいさんひのえたつとしこよみ)

  • 写本 1冊(「蝦夷暦」部分を展示)
  • 編著者・年紀 欠
蝦夷チャランケ并浄瑠璃言 享和辛酉唐太事状 蝦夷暦安政三丙辰年暦(画像)
 『蝦夷暦 安政三丙辰年暦』と題された絵暦の写しは、『蝦夷チャランケ并浄瑠璃言』、『享和辛酉唐太事情』と合わせて一冊に綴じられている。この部分の表紙には「原本水戸家蔵」とあり、「蝦夷暦 安政丙辰暦 奥州にて出函館へ廻夫ヨリ蝦夷ヘ廻ルヨシ」と記されている。

 暦の部分は縦31?p、横42?pで、雲母引きした雁皮紙を用い、それをこの写本の大きさ(縦28.3?p、横20.5?p)に合わせて折畳んである。用紙の右半分に絵暦、左半分に晴雨考が絵文字によって精巧に写されている。

絵暦は当時「盲暦」と呼ばれたもので、枠内の大きさは縦26.7cm、横16.5cmで、当時発行されていた舞田屋版略暦、および絵暦とほぼ同じ寸法である。

 「盲暦」は奥州南部藩城下町の盛岡で、文化初年頃から毎年発行され、明治6年に太陽暦になってから10年余り中断した後、太陰太陽暦(旧暦)のままで復活して、今日まで継続されている。「盲暦」には絵文字と記号のみが用いられ、文字は一切使用されていない。文字の読めない人々にも利用できる特色を持っている。全体の構成は年によって多少異なるが、個々の暦註の絵柄はほぼ同じである。

 版元の舞田屋は藩の印判摺物の御用を務め、絵暦と同じく文化年間(1804〜1817)かな文字による略暦を発行している。絵暦も略暦も半紙一枚摺りであるが、絵暦では嘉永七年(1854)暦に作物の男種・女種を示す図表、嘉永八年暦に年齢早見表(絵文字のみによる)の附録を暦の左側に付けている。略暦では嘉永八年暦に同年一年間の毎日の晴雨考(天気予報)を付けたものを発行している。

 『蝦夷暦』と前年の略暦の晴雨考とを比較してみると、全く同じ様式で、文字で「晴」「雨」「雪」などとしたものを、太陽、斜線、雪の絵というように総て絵で現している。これによって、『蝦夷暦』の晴雨考は、前年の文字による晴雨考の考え方を絵にしたものということが分る。略暦の晴雨考も絵暦のものも、恐らく盛岡地方の気象によるものと思われる。いかにも北国らしく雪の日が多い。

 絵暦の次に絵解きが付いていて、版元の舞田屋を前田屋とする他は、正しく解読している。また、晴雨考の末尾に「臣富田知進写」と筆写者の識語があり、それには絵暦が函館辺で多く用いられていることと、晴雨考がこの地の気象によく合うことが記されている。南部絵暦が蝦夷地にまで普及したこと、安政三年暦に晴雨考が附録とされていたことの知れる新史料である。

(岡田芳朗)

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19 蝦夷風俗人情之沙汰 (えぞふうぞくじんじょうのさた)

  • 写本 3冊
  • 最上徳内 編
  • 寛政3年(1791)正月序
蝦夷風俗人情之沙汰(画像)
 天明5〜6年(1785〜86)の蝦夷地探検に派遣された一人、最上徳内の手記・報告文集。田沼意次(1720〜1788)政権の末期に企画、実行された蝦夷地探検は、幕府要人が主導した初の本格的な北方探検であった。初めての探検であっただけに装備・食料の不十分さは免れず、越冬隊の数名が病死している。最上徳内は本多利明の推挙でこの探検隊に加わり、蝦夷地東部方面から千島方面へと足を伸ばしている。この探検によって蝦夷地全島・唐太(一部)・千島の主要部の測量が行われ、それらの地図[→20]が作製された。田沼の失脚により探検事業は中途で打ち切られ、最上も一時失職する。寛政元年(1789)、アイヌの争乱が起こると再び最上は登用されて蝦夷地に渡るが、上司青島俊蔵の失策に連座して入獄。本資料はその出獄後に記されたものである。蝦夷地の自然、民俗が詳細に述べられている。本書執筆の意図として、「開業を爲さん人の一助にもなれかしと思ふ微意也」と最上は自序の末尾で述べている。

 なお、本資料には旧紀州徳川家が近世期に所蔵していたことを示す蔵書印「紀伊国徳川氏図書記」が確認される。紀州藩の何者かが本書をいち早く入手していたものと見える。

本多利明の他の著作として、総合図書館には下記の資料が所蔵されている。

[M90:256]『萬國經濟放言』/[J30:1006]『蝦夷道知邊』/[T20:1105]『八線眞數表』/[T20:1335]『標題起源巻之一』/[T20:954]・[T20:1197]『括要算法翦管術細艸』/[M90:85]『經世秘策』/[T20:1023]『鈎股三斜制造起原 下』/ [T20:660]『四絇術』/[J30:450]『利明上書』
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20 蝦夷風俗人情之沙汰附図 (えぞふうぞくじんじょうのさたふず)

  • 写 6鋪 彩色
  • 編著者・年紀 欠
蝦夷風俗人情之沙汰附図(画像)
 最上徳内等が探検をした折に作成した絵図と思われるものである。残念ながら、描図者・年紀の情報が全くない。それぞれの内容は以下のとおりである。「鼻緒嶌之図」(エトロフ島)、「唐太嶌之図」(カラフト島)、「猟虎嶋之図」(ウルップ島)、「蝦夷之図 松前所在」(北海道本島)、「全図」(日本〜カラフト・千島列島)、ロシア人二名の図(最上徳内著『蝦夷草紙』の挿図と同じもの)なお、それぞれの地図を見ると、不思議なことに経線と緯線を取り違えて記している。また、現在の北海道が非常に南北方向に扁平な形に描かれていることに違和感を覚えるが、緯線の間隔が経線の間隔よりもかなり狭めて描かれていることによるものである。今回展示をしたのはエトロフ島全図である。
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21 北夷考証 (ほくいこうしょう)

  • 写本 1冊 彩色
  • 高橋景保 著
  • 文化6年(1809)述
  • 浅野長践(頼芳閣)旧蔵書
北夷考証(画像)
 高橋景保が中国、西洋の地図によって樺太(唐太)周辺の地理情報(地形・地名)の考証をした一冊。当時最新の情報として、間宮林蔵が実測した地図・情報を用いている。このような北辺に対する研究活動が、のちのシーボルト事件の端緒となったのである。「唯地球図新製ノ 命ヲ奉シ屹々トシテ其地方ノ分度ヲ校シ方位ヲ察シコノ校訂ノ挙アル処以ナリ」と彼は本文中で述べている。また、下記の精細な図を五つほど掲げている。
第1図 高橋景保による諸図の校訂図
第2図 乾隆年製図(宮本模写図ヲ編ス)
第3図 西士「ピートルホンデ」書中ニ載スル所ノ図
第4図 諳厄里亜国((イギリス)新訂(我安永九年庚子)製図
第5図 間宮生実験図

これらの図の校訂にあたっては、景保は満州語の知識も駆使して地名の同定・考証にあたっている。

 本書後半には本多利明による北方問題に関する一文「赤人日本国へ漂着に擬へ近年繁々渡来するに謂ある事」(1791年)が合冊されている。本資料は幕臣で蔵書家として知られる浅野長践(漱芳閣、1816〜1880)の旧蔵書。

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22 洋学雑記 (ようがくざっき)

  • 写本 1冊
  • 加壽麻呂大人(宇田川榕庵) 著
  • 海保漁村旧蔵・島田雙桂楼(重礼)旧蔵
洋学雑記(画像)
 内題の『蘭学重宝記』として知られる資料である。ヨーロッパに関する情報を雑記風にまとめたもので、嘉永3年(1850)に刊行されている。著者は津山藩医の宇田川榕庵。

 和暦と西暦の対応に始まり、オランダの地理情報、ヨーロッパ主要国の国旗、都市の紋章、度量衡の単位、月の名、星座・惑星の名、地図記号、ギリシア文字・ドイツ文字、筆記用具、九九の表、算術の記号、図形、などが列挙されている。どのような意図と構成でこのような事項が撰ばれたものかは定かではないが、当時のヨーロッパに関する宇田川の広い関心を示して余りある。本資料の旧蔵者、海保漁村は下総国出身の漢学者。このような方面にも蔵書を有していたことは興味深い。後に島田重礼の蔵書となり南葵文庫に所蔵される。

 本書の後半は、「松代藩士上書」となっているが、これは佐久間象山が藩主に宛てた海防に関する建言書である。

宇田川榕庵の他の著作について、総合図書館では下記の資料を所蔵している。(抜粋)

[J40:46]『介賓紀行』/[A00:6468] Greve, Wilhelm著・宇田川榕庵譯『瘈狗説』/[T83:5]『植物啓原』/[T83:130]『植物學啓原及圖』/[T83:88]『(理学入門)植學啓原』
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