知の職人たち−南葵文庫に見る江戸のモノづくり−
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[3]地を作る

23〜26 群書類従 (ぐんしょるいじゅう)

  • 刊本 (展示分)4冊
群書類従(画像)
 塙保己一(1746〜1821)が精力を傾けて編纂した『群書類従』全670冊(1819年)。塙が主催した和学講談所は、松平定信の治世下に実現した古典文献の編纂所であった。その驚異的な編纂事業は、まさに知識の集大成を目指したものと評価してもよいであろうが、南葵文庫にもこの『群書類従』は収蔵されている。とりわけ、小中村清矩が蒐集した『群書類従』の中にはいくつかの旧蔵者の蔵書印が捺され、各冊それぞれが異なった由来を持っていたことが伺える。本書が当時の知識人に広く受容されていたことが容易に想像される。以下、蔵書印や書き込みから判明する旧蔵者を紹介したい。(各冊共通に「陽春盧記」の印があるが、これは小中村の蔵書印である。)

23 巻11・神祇部11

「曲亭文庫」:『南総里見八犬伝』の作者、滝沢馬琴(1767〜1848)の蔵書印である。

「梅陰書屋」:大黒梅陰(1797〜1851)の蔵書印である。大黒はロシアに漂流したのちに帰還した大黒屋光太夫の息子である。周囲の援助により、彼は国学を修め一家をなしている。

「日下部文庫」:日下部陽東旧蔵書。(渡辺守邦・後藤憲二編『新編蔵書印譜』(青裳堂書店、2001年)による。)

24 巻333・紀行部7

「正斎蔵」:近藤重蔵の蔵書印。近藤は幕府書物奉行を務めたほか、エトロフ島の探検でも歴史上知られている。死後、蔵書は散佚したと思われるがその一部が小中村氏の手に渡って南葵文庫にたどり着くこととなった。

「梅陰書屋」:前掲[→]

25 巻479・雑部34『枕草子』

 前田夏蔭手沢本。前田は幕臣で国学者。徳川斉昭(1800〜1860)の知遇を得て水戸藩邸内で講義をする。後に幕府勘定方にあげられ、蝦夷関連資料の編纂係を命ぜられる。これは『蝦夷史料』としてまとめられるものであるが、その完成を見る前に前田は没する。彼の旧蔵書の一点がこの『群書類従』巻479であるが、彼の得た異本(元亀本・狩谷棭斎が招来した本)に基づく校訂が朱字で書き加えられている。

26 巻504・雑部59

 「南畝文庫」:幕臣で狂歌作者の大田南畝の旧蔵書である。田沼政権期における戯作者としての振る舞い、直後の松平政権期には能吏として身を処した姿は見事としかいいようがない。
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23-26

近藤正斎の他の著作で、下記のものが総合図書館に収蔵されている。(抜粋)
[A10:170]『右文故事』/[A00:6268]『右文故事』/[A10:148]『御本日記続録』/[A10:243]『正斎書籍考』/[A10:271]『金澤文庫事蹟考』/[A10:299]『古刻書跋前集』/[A10:3]『慶長勅版考』/[A10:350]『右文故事』/[A10:392]『正斎書籍考』/[A10:405]『右文故事』/[A10:420]『右文故事』/[A10:560]『御代々文書表』/[A10:562]『御本日記附注』/[A10:572]『御写本譜』/[A10:564]『御本日記続録』/[A10:818]『(重訂)御書籍来歴志』/[C20:516]『神祇伯送葬図並記』/[E31:936]『富士之煙』/[E45:2027]『御代々御詩歌』/[G26:704]『牙籤考』/[G26:789]『室町殿職掌考』/[G27:291]『近藤守重上書』/[G29:66]『異国船渡来年表』/[J10:94]『甲寅漂民始末』/[J50:449]『亜媽港紀略稿』/[J60:29]『辺要分界図考』/[J60:58]『安南紀略稿』/[M50:225]『外蕃通書』/[N50:12]『金銀図録』
滝沢馬琴の他の著作で、下記のものが総合図書館に収蔵されている。(抜粋)
[E24:229]『膏油橋河原祭文』/[E24:235]『砥藤綱摸稜案上篇』/[E24:1]『朝夷巡嶋記』/[T86:151]『阿修羅考』/[A00:4613]『日記』/[E24:337]『皿皿ク談』/[A90:99]『著作堂一夕話』/[E24:1238]『代夜待白女辻占』/[E24:1122]『大使河原撫子話』/[E24:18]『畫本武王軍談』/[E24:470]『繪本漢楚軍談』/[E24:784]『驛路鈴與作春駒』/[A90:25]『燕石雜志』/[A90:638]『玄同放言』/[E24:183]『彦山權現誓助太刀』/[E24:995]『今戸土産女西行』/[E24:245]『伊波傳毛の記』/[A00:4295]『羈旅漫録』/[E26:521]『曲亭漫録』/[A90:1038]『曲亭雜記』/[E24:37]『南総里見八犬傳』/[A90:34]『烹雜の記 前集』/[E24:243]『ョ豪阿闍梨恠鼠傳』/[E24:69]『三七全傳占夢南柯後記』/[E24:342]『殺生石後日怪談』
大田南畝の他の著作で、下記のものが総合図書館に収蔵されている。(抜粋)
[J40:410]『あしの若葉』/[E31:874]『萬紫千紅』/[G25:266 ]『武江披抄』/[E31:911]『千とせの門』/[E31:188 ]『江都二色』/[G25:59]『沿海異聞』/[A90:1436]『風來先生説聞書』/[A90:624]『後水鳥記』/[A30:359]『白石爛』/[A90:1953]『半日閑話』/[F20:123]『一節切尺八考』/[A90:985]『一話一言』/[E26:59]『改元紀行』/[A90:1120]『假名世説』/[A00:4300]『崎鎮八絶』/[E45:1437]『杏園詩集』/[SE:203]『狂歌濱のきさご』/[E45:1692]『狂詩諺解』/[E45:361]『狂詩百々色染』/[A30:18]『南畝叢書 前集』/[A90:1405]『南畝莠言』/[E44:94]『寐惚先生文集』/[E45:372]『二大家風雅』/[A00:6251]『三十六歌撰』/[E31:1250]『千紅萬紫』/[J30:909]『瀬田問答』/[E31:714]『蜀山百首』/[A90:1174]『蜀山隨筆』/[E31:1640]『徳和歌後萬載集』/[E30:96]『浮世繪類考』/[E39:98]『よものあか』/[E22:206]『四方先生文集』/[A90:1261]『俗耳鼓吹』/[A90:1201]『隨見隨録』
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27 九條家車図 (くじょうけくるまず)

  • 刊本 『丹鶴叢書』の1冊
  • 水野忠央 輯刻
九條家車図(画像)
 本資料を含めた続く3点は『丹鶴叢書』(1847〜1853年刊)の一部である。この叢書は紀州徳川家の付家老であった新宮城主、水野忠央が古典籍の集大成を目指して私費を投じて編纂したものである。(「丹鶴」は新宮城の別名。)水野は幕末期紀州藩の実権を握り、将軍家茂(1846〜1866)擁立の立役者として知られる。

 大名が手がけた文化事業の典型例として知られる『丹鶴叢書』であるが、ここで紹介をする1冊は、水野忠央の子孫から南葵文庫に寄贈されたもので、朱字による校正を板木屋に指示している。ほぼ全丁にわたって、細かい字句の訂正、挿図の描き方の指示が記されている。このような校正本は、ほとんど資料としては残らないものである。近世期の刊本の製作過程、しかも『丹鶴叢書』のような著名な本の校正が分かるという点で、非常に貴重な資料であろう。

印刷術・製本もまた「モノづくり」の一つとしてみることができるが、当時の校正は、編著者から出された朱字の指示に基づいて、板木の一部を削り取り訂正した木を埋めるという作業で行われていた。(文面では「入木」という文字で示されている。)各丁表の匡郭外に捺された朱印(「飯田刻」、「篤尚堂」)は板木屋・彫刻師のものであろうと思われる。一冊の本の原稿が複数の彫り師のもとにわたっていたこともこれらの情報から予想される。

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28 和泉式部続集 (いずみしきぶぞくしゅう)

  • 刊本 『丹鶴叢書』の1冊
  • 水野忠央 輯
  • (印記)「紀伊國學所印」
和泉式部続集(画像)
 本資料も『丹鶴叢書』の一冊であるが、注目をしたいのは、その蔵書印「紀伊國學所印」である。

 紀州徳川藩にはいくつかの藩校が設置されたが、この国学所もその一つである。しかもこの藩校の設立者は、丹鶴叢書の編者である水野忠央その人である。水野は中央政界で立ち回ったばかりではなく、藩内の文化政策にも多大な貢献をしている。この国学所の設立の他にも、蘭学所の設立、さらには洋式軍艦の導入にも携わっている。しかし、時代の変転は急激で、さしもの権勢を誇った水野も晩年の桜田門外の変以後は失脚を余儀なくされ、『丹鶴叢書』の編纂も中途で頓挫せざるを得なくなる。

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29 後水尾院当時年中行事 (ごみずのおいんとうじねんじゅうぎょうじ)

  • 刊本 『丹鶴叢書』の内2冊(上・下)
  • 水野忠央 輯刻
  • (印記)「多豆舎蔵」
後水尾院当時年中行事(画像)
 本資料も『丹鶴叢書』からの1冊であるが、次に紹介する資料[30→]と同タイトルである。この資料についても注目したいのはその旧蔵者である。

 蔵書印「多豆舎蔵」から、この資料は村田春門のものであったことが分かる。村田は伊勢出身の国学者。大坂城代時代の水野忠邦に招かれてその国学の師となる。先に紹介した平田篤胤とは見解を異にしたらしく、かなり批判的であったらしい。

 本資料は後水尾院が自ら執筆した年中行事の記録。有職故実家・国学者にとってはまさに一級資料である。天和元年(1681)に後水尾院の外孫にあたる近衛基凞(1648〜1722)が筆写した旨が下冊の奥書に記されている。

 この南葵文庫に納められている『丹鶴叢書』を見ると、各冊の由来が様々であったことが分かる。個人蔵から、紀州徳川藩校の蔵書までもが一緒になっていたのである。

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30 後水尾院年中行事 (ごみずのおいんとうじねんじゅうぎょうじ)

  • 写本 1冊
  • (印記)「公事」、「日記」、「引馬文庫」
後水尾院年中行事(画像)
 展示資料[29→]と同タイトルであるが、本資料の旧蔵者は老中を務め、天保の改革を推進した水野忠邦である。(勾玉を模した独特の形状の蔵書印「公事」、ならびに浜松の古名「引馬」よりとった「引馬文庫」印が著名。)写本そのものは寛政元年(1789)に伊木氏が筆写した旨が奥書に記されているが、偶然にも国学の上での師弟関係にあった村田春門と水野忠邦の旧蔵書、しかも同一タイトルが南葵文庫に収蔵されることとなっていたのである。ここでは両書を並列して展示する。
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31 居行子* (きょこうし)

  • 刊本 5冊
  • 西村遠里 述
  • 安永4年(1775)刊
  • (印記)「平」、「笹新」、「丸喜」、「講馭館蔵」、「堀内」、「本石町三丁目/御用御箔所/梶川清左衛門」、「梶川」[以上墨消]、「明時館図書印」(渋川家旧蔵書)、「青洲文庫」(渡辺青洲旧蔵書)
居行子(画像)
 著者西村遠里(?〜1787)は京都の天文暦学者。彼は多数のエッセーを残しており、本書『居行子』の後に続編をも著している。天文・暦学に限らず、雑多な内容が納められているが、当時の知識人(特に暦学者)の日常的な思考を知る上で興味深い内容である。

 本資料には数多くの印記が残され、所有者の間を転々としたことが伺える。墨で消されておらず際だっているのは幕府天文方を務めた渋川家の印と、山梨の蔵書家であった渡辺青洲の蔵書印である。墨消された印の中で注目すべきは、梶川清左衛門のものである。この梶川は、幕府御用を務める箔商人で寛政年間の武鑑にも名を留める人物である。箔商人が読者としてこの『居行子』を所持していたというのも興味深い。何人もの人の手をわたったこのような書物は、まさに当時の人々の知の流通形態をそのまま反映しているようでもある。

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32 一角纂考* (いっかくさんこう)

  • 刊本 1冊
  • 木邨孔恭 著
  • 寛政7年(1795)刊
一角纂考(画像)
 著者は大坂の商人、博覧強記の知識人・趣味人・コレクターとして知られた木村蒹葭堂(1736〜1802)である。

 蒹葭堂の蔵書には多数の蘭書が含まれていたが、その中で彼の注目を引いたのは「一角」の正体であった。既に当時の日本人は西洋伝来の星図などに「ユニコーン」、つまり一角を有した四足獣が描かれていることを知っていた。しかし、蒹葭堂の得た最新の情報には海中からそのような生き物が捕獲されたというものであった。ある本にはまさに魚のように鱗のある一角、またあるものにはイルカのような姿の動物で一角を有するものが描かれている。その真偽を尋ねようにも彼にはオランダ語の正確な知識がない。そこでオランダ語翻訳の依頼をしたのが仙台藩医で後に芝蘭堂を主催する大槻玄沢(1757〜1827)であった。大槻による知見を基にしてまとめたのが本書であるが、蘭学草創期の知識人たちの知的好奇心がありとあらゆる方向に向かっていたことを窺わせる一冊である。この不思議な動物の存在を巡るだけで一冊の本を作ってしまう近世の文化に筆者は素直に敬意を表したい。好奇心だけではなく、知的探究心も併せ持った人々が近世後半期の蘭学を支えていたと言っても過言ではないだろう。ちなみに、大槻の芝蘭堂で毎年開かれていたオランダ正月の様子を描いた図の中に、一角を描いた掛け軸が記されている。

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33 物類品隲 (ぶつるいひんしつ)

  • 刊本 6冊
  • 田村藍水 監修、平賀源内 編輯
  • 宝暦13年(1763)刊
物類品隲(画像)
 『物類品隲』は、平賀源内編輯、田村藍水監修、校としては、田村善之・中川鱗・青山茂恂の名が挙げられている。全6巻6冊から成る。『物類品隲』には赤井館蔵板と松籟館蔵板があるが、本館所蔵本は赤井館蔵板で、刊行は宝暦13年である。

 平賀源内の発案によって、宝暦7年(1757)から薬品会(物産展)が開かれるようになり、宝暦12年(1762)までの5回にわたる出品数は2000種余に達した。それから抜粋した360種に解説を加えた物産解説書が本書である。本資料は、巻1から4までが本文で、巻5は産物図会、巻6には附録として「人参培養ノ法」と「甘蔗培養并ニ製造ノ法」が所収されている。

 「甘蔗培養并ニ製造ノ法」には、砂糖の国内生産の黎明期の模様が記されている。江戸時代の中期まで、我が国は砂糖を輸入に頼っており、8代将軍吉宗による殖産化政策によって、砂糖の原料であるサトウキビの栽培が試みられ、さらに砂糖を製造する試みもなされていた。宝暦年間にやっと砂糖生産が緒についたと考えられる状況であった。この時期には、源内の師である田村藍水が『甘蔗造製伝』(1761年以降)を、後藤梨春が『甘蔗記』(1764年題言)を著しており、本草学者による砂糖生産の研究が本格化した。この「甘蔗培養并ニ製造ノ法」には、『糖霜譜』・『南方草木状』・『本草綱目』・『農政全書』・『天工開物』・『閩書南山志』などの中国書からの引用箇所が多く、国内の生産状況として砂糖生産の実施の試みが早かった尾張については記述されているが、同じ宝暦年間に砂糖生産が行われていた長府については記述がない。

サトウキビからジュースを搾りとるために、茎をローラーの間に挿し込んでいる男性の横には、「鳩渓山人自画」と記されているので、この男性は「鳩渓」の号を持つ平賀源内の自画像と考えられ、作画は、讃岐の三木文柳によると考えられる。またこの図は、『天工開物』に描かれている構図と酷似しているが、子細なタッチであるので、国内で作成されたローラー式の圧搾機のスケッチを基にしているのかもしれない。

平賀源内の他の著作で、下記のものを総合図書館が所蔵する。

[A90:1962]『風来六部集』/[A90:874]『根奈志草』/[E22:220]『風来六々部集』/[E24:100]『風来六々部集、前編及後編』/[E24:1334]『風流志道軒伝』/[E24:1360]『根無草後編』/[E24:25]『風流志道軒伝』/[E24:27]『ねなし草及後編』/[E24:476]『(仏法奇瑞)菩提樹之弁』/[E24:48]『泉親衡物語』/[E24:60]『風流志道軒伝』/[E26:1183]『風来六々部集』/[E28:476]『神霊矢口渡』/[E28:85]『神霊矢口渡』/[E46:40]『笑府』/[H20:2365]『譏草』/[H20:2712]『闡幽編』/[XB30:52]『火浣布略説』/[XB30:55]『火浣布略説』
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