知の職人たち−南葵文庫に見る江戸のモノづくり−
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展示の趣旨

江戸時代の科学技術とモノづくり

 さて、今回の展示で紹介をする主たる内容は、近世日本の科学技術史に関わる資料である。

 近世期の日本ほど、伝統的な科学技術の進展が著しかった時期はない。古代・中世においても、その時代に応じた技術や科学的知識(医・暦・算などの分野)があったことは確かである。しかし、近世期の特徴はそれらの知識や技術が書籍、文書によって広範に普及したことが挙げられる。例えば、農業技術をまとめた農書、算術のみを主題とした書籍である和算書などは、江戸時代に出現し、それぞれの分野での実践に大きく寄与した。書籍、文書によって社会全般に新技術、新知識の普及、蓄積が可能になったという意味で、江戸時代はまさに「情報化」の扉が開かれたと言ってもよいであろう。例え近代的な教育・研究体制がなかったとしても、江戸期の日本には確固たる出版文化が育ち、私塾・家元制による知識・技能の継承体制が整えられていたことは注目に値する。(医学や砲術における塾での教育、算学における家元制での知識の伝授などは、その典型であろう。)知識・技能を開発する専門家が 「師範 」や 「家元 」という名のもとに(完全ではないとしても)職業として自立していったこと、そして彼らの技と知を継承して支えていく受け手の側にも、一定規模の人口が確保され、その訓練のためにかける時間的・経済的余裕のできたことが、当時の科学や技術の進展に大きく関わっていたのである。

 とりわけ、当時の科学や技術を考える上で見逃せないのは、どんなに学理的と思われる分野の事柄であっても、常に彼らの意識の根底には社会に対する有用性、実学的価値を追究する姿勢があったことである。和算などはその最たる例であろう。彼ら和算家たちはどんなに複雑な幾何学的問題を扱っていたとしても、それは社会にとって有用な術なのだという信念を持ち続けていた。地図や暦を作るための基礎を与えること、それが彼らの任務であり、問題を解くという通常の作業はそのための訓練なのであるというのが彼らの主張であった。

 このような文脈で浮かび上がってくるのが、江戸時代の科学技術が密接に当時の「モノづくり」と関わっていたという一事である。職人の技や学者の新知見が記録に書きとどめられ、次代の財産となっていく。その作業が江戸時代を通じて「モノづくり」のベースとなっていったことは言うまでもない。(ここで言う「モノ」とは、物質的な産物ばかりではない。知識であれ、人材であれ、はたまた社会システムであれ、新しくつくられたモノとして、広範な指示対象を持っているとご理解頂きたい。)知識や技がその場限りのものではなく、継承され、批判にさらされ、さらに多くのモノを生み出していく原動力となっていく。 このサイクルが動き出したことで、江戸時代の科学技術は様々な分野で多彩な成果を生み出していくことになるのである。

 もちろん、ここまで述べてきたことは、すべてが予定調和的に近世期科学技術の成功を約束したわけではない。江戸時代の情報化の進展は、迷信的言説や今から見ると荒唐無稽な学説をも巷間に普及させる事態をも生んでいる。多様な価値観がせめぎ合い、混沌とした状況が常にあったことは、近世期の科学技術が一本調子に、進歩史観的に発展を遂げていたわけでは決してないことをあらためて我々に知らせてくれる。この点は常に注意をしておかねばなるまい。

 また、科学技術というものは、平和が長く続けば自然に発展をしていくというものではない。皮肉なことに、戦争が多発した時代ほど軍事技術は展開し、それが他の技術にも波及してその成果を牽引していくというシナリオは、古今東西にわたって頻出した歴史的事象である。一方、平和な時代には為政者による政策的な誘導の有無が科学技術の進展に影響を与える場合もある。近世前半期に幕府が諸国の大名に命じて作製させた国絵図の調進事業は、結果として全国に測量術に携わる人々、測量家を生み出した。(多くの測量家たちが諸藩に登用されている。)それまで、砲術や鉱山開削などで用いられていた個々別々の測量術が体系化され、伝承されるようになったきっかけが、この国絵図作製事業にあったといってもよい。だがこれは、幕府がとりわけ測量家を養成するために推進した事業ではなく、大名統制政策の副産物として測量家が日本社会に定着したというべきものである。それでは、意識的に科学技術的な政策を推進した人物は江戸時代にはいなかったのであろうか。

 徳川幕府歴代の将軍の中で、今で言うところの「技術政策」に最もイニシアティブを発揮したのはやはりなんといっても徳川吉宗であろう。試みにその政策で科学技術に関わるものを列挙しただけでも、(1)朝鮮人参の国産化に着手、(2)諸国に採薬使を派遣した薬材調査、(3)薬園の整備、(4)西洋馬の輸入、(5)享保日本図の作製、(6)『暦算全書』その他、漢訳による西洋科学技術書の導入、(7)宝暦の改暦と、その準備としての西洋天文学の導入、などである。これだけの政策を次々と打ち出して実施する政治的手腕は、もちろん彼の将軍権力あったがゆえ、という自明さを差し引いたとしても、驚異的である。それを支えた側近、ブレーンが蝟集していたことも吉宗にとっては幸いであった。当時の資料にはしばしば「台命を奉じて……」(将軍の命令を受けて)という文言が記されているが、吉宗の元ではこの文言は決して空虚なものではなかったはずである。実質的な指示が出され、それを受けた者は勇躍して(あるいは命がけで)その任に当たったのであろう。彼らの奮起がその後の世代をも牽引する科学技術的成果を生み出したのではないかとさえ筆者には思われる。事実、先にも述べた幕府天文方は吉宗によってテコ入れされ、西洋天文学の導入という大胆な政策的・技術的課題を与えられ、それ以後は一貫してその方面に邁進している。採薬使派遣に伴う諸国物産調査の影響もまた、多方面に波及した。考証的な本草学が体系化されることに加えて、各地で有用性・珍奇性・古物趣味を目玉とした物産会(ぶっさんえ)が開催されていく。医学ばかりではない、博物学、天文学をも包含した「蘭学」が成立していく過程を見ても、その発端には吉宗による西洋の科学技術に関する情報解禁があったといってよい。

 このように見ていくと、吉宗の施策はまさに世界を動かす「神の一突き」にも等しいインパクトを近世後期の科学技術の展開に与えたかのようである。「江戸のモノづくり」を為政者の側から牽引したのはまさに吉宗であったといえようか。この吉宗から発した種々の影響をまとめていく形で、以下、本特別展の構成、そして展示資料の概観を与えていきたい。

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