東京大学という日本初の近代大学の起源は、明治期ばかりに求められるものではない。明治10年に大学組織としての骨格が固まる以前にもその前身機関があった。その幾つかは江戸幕府のものであった。医学部の前身である大学東校の起源は「医学所」、その他の学部の起源である大学南校は、西洋学問摂取の最前線を担った「開成所」であった。さらにこの開成所の幕府における最古の起源を辿ると、「天文方」という役職(幕府の暦製作局、天文台の長)にまでたどり着く。
ここで最後に挙げた幕府天文方と紀州徳川家の間の歴史的関係を見てみよう。
1685年以降、日本国内で毎年頒布される暦は、それを作るために必要な計算を幕府天文方が所管するようになる。それまで、暦に関する事柄はすべて、京都の朝廷(実質は土御門家)が実権を持っていたが、1685年の貞享の改暦事業を幕府主導で進めてから後、暦作成に必要な観測や計算は幕府天文方が預かることとなった。
しかし、この幕府天文方は直ちに形骸化する。そこに再び活力を注入し、西洋天文学の導入という新たな使命を与えたのが、享保の改革で知られる8代将軍徳川吉宗(1684〜1751)であった。
数多いその施策の中でも天文学の文脈で見逃せない事柄は、吉宗自らが改暦のイニシアティブをとり、そのために西洋天文学の利用を推進したことであった。幕府天文方には吉宗の要望を実現するに足るだけの人材が集められると同時に、西洋天文学がこの組織の中で盛んに研究された。いわば吉宗のお墨付きを得ることによって、天文方は幕府の中でも真っ先に西洋の知識を取り入れる窓口の役割を果たすこととなったのである。精密な日本地図を作ったことで有名な伊能忠敬(1745〜1818)も、この流れの中で登場する。幕府天文方が西洋の知識を導入する過程で求めていた天文・地理情報を実測によって提供するために、伊能は日本の地図作りに励んだのである。
幕府の中で最も西洋化が進んだこの天文方は、時代の趨勢に対応して、組織そのものがしばしば改編された。19世紀にもなると日本の鎖国体制は根本から動揺を見せ始め、幕府にとって海外情報の摂取は緊要となる。そこでとられた政策は、既成の組織を手直しして、海外情報の収集分析を任務とする部署を構築することであった。その母体となったのがやはり天文方である。天文方には以前にも増して優秀な人材が集められ、天文学ばかりではないオランダ語資料、後には他のヨーロッパ言語の翻訳、分析が進められた。次第にこの組織は肥大化し、名称もしばしば変更された。主要なものを挙げても、蕃書和解御用、蕃書調所、洋学所、開成所、等々である。
このように、吉宗が蒔いた天文方の「西洋化」という種は、幕府倒壊まで成長を続け、紆余曲折を経た後、明治政府の元で東京大学へと落着する。その東京大学は、関東大震災の直後、吉宗の実家であった紀州徳川家の蔵書を引き受けることとなったのである。