「湯島聖堂博覧会と内国勧業博覧会」

      講師:木下直之 東京大学大学院人文社会系研究科助教授
      日時:平成15年11月26日(水)10時30分〜12時

     まずはじめに、日本の1870年代は文明開化の絶頂期であり、貪欲に日本のあり方を変えよう
    とした時代であったこと、その手段として明治政府が博覧会を積極的に利用したことなどが述べ
    られた。

     1777年、上野広小路で「飛んだ霊宝」という怪しげな見世物があり、ちょうどその100年後の
    1877(明治10)年に上野公園において第一回内国勧業博覧会が開催されたことから、「場所」とい
    うことに着目した話があった。 江戸幕府の聖地ともいえる上野山上(寛永寺周辺)は幕末に焼け野
    原となったが、明治政府はその地を公園にし、また第一回内国勧業博覧会の会場とすることで、
    徳川家の面影を払拭しようとしたことや、第二回内国勧業博覧会の後、博物館と動物園が常設の
    施設となっていったことなどが話された。また、江戸時代の盛り場をスライドで紹介し、明治時
    代初期は、人々が集い見る行為を行う場所が、仮設の見世物小屋から常設の博物館へと変わって
    いった時代であることが述べられた。

     次に、日本と万国博覧会との出会いについて話があり、諸外国の博覧会と関わった人々により、
    小規模ながら日本でも1871(明治4)年に博覧会が開催されたことが紹介された。この展示には
    石や鳥の剥製といった自然のもの(天造物)が多く、人の頭蓋骨なども出品されたとあった。そ
    の1年後の1872(明治5)年に、様々なものを陳列でき多くの人がそれらを鑑賞できる場所とし
    て湯島聖堂に目がつけられ、湯島聖堂博覧会が開催された。ここでの展示物は1年前とはまった
    く逆に人工物が多く、その背景には古器旧物を保存しようという機運が高まっていたことの説明
    があった。また、博覧会終了後も湯島聖堂は常設展示の場となるが、博物館として設計された建
    物ではないため使い勝手が悪く、その後山下門内の博物館へ移管され、そこでウィーン万国博覧
    会で出品したものなどを再展示するような催しが開かれた経緯が話された。そして、国内でも大
    規模な博覧会を開催しようという声が強まり、上野で第一回内国勧業博覧会が開催されたとあり、
    これら当時の博覧会の様子は写真や錦絵がスライドで紹介された。

     最後に、明治時代のはじめに「無用の長物」として撤去された名古屋城の金のしゃちほこが、
    国内外の博覧会を転々と展示されるうちに、今度は保存運動がおこり、結果的に元の名古屋城へ
    戻った話をされた。



    • 能登路雅子 「1893年シカゴ博覧会と日本」
    • 藤森照信 「博覧会と国際建築交流−大工 山添喜三郎とフランク・ロイド・ライトの場合」
    • 吉見俊哉 「近代日本と万博幻想:植民地主義から開発主義へ」
    • 今橋映子 「使命と旅愁のはざまに―1900年パリ万博と日本人留学生たち」
    • 木下直之 「湯島聖堂博覧会と内国勧業博覧会」


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