「博覧会と国際建築交流−大工 山添喜三郎とフランク・ロイド・ライトの場合」

      講師:藤森照信 東京大学生産技術研究所教授
      日時:平成15年11月13日(木)16時〜17時30分

     「たんぽぽの家」で有名な建築史研究者の藤森照信教授は白板にヨーロッパ建築のポイントで
    ある「梁」の絵を板書され、またライトのエピソードを交えてライト設計の建物をスライドで紹
    介されての講演であった。

     万国博覧会での国際的建築交流を語る上で注目すべき人物が二人いる。一人は1873年のウイ
    ーン博覧会で日本館を造った「山添喜三郎」で、帰国後日本の洋館建築に影響を与えた。もう一
    人は1893年のシカゴ博覧会で日本館として建築中の鳳凰殿をつぶさに見ていた「フランク・ロ
    イド・ライト」で、来日していくつもの洋館を建築した後帰欧し、ヨーロッパにも影響を与えた。

    ○ 山添喜三郎(1843−1923)
     1843年新潟県に生まれ、31歳の時松尾伊兵衛とともにウイーン博覧会の日本館造営を命ぜら
    れ渡欧。檜などの材料は日本から運んでいる。日本館造営の鉋かけ作業中、見学にきたオースト
    リア皇帝らがうすくひいた鉋屑を持ち帰るなどのエピソードが残っている。山添は竣工後も現地
    にとどまり技術の伝習に努め、特に製糸工場を見学した。当時の日本の洋風建築は外観は洋館を
    模し構造は日本建築の「擬洋風」であったが、1879年に東京大学お雇い外国人コンドルの指導の
    下、第1回建築科の卒業生(辰野金吾、片山東熊ら)が出てそれまでの「擬洋風」時代は終わり、
    本格的な「洋風」建築の時代が始まった。山添は「擬洋風」の時代に渡欧し、帰国後は農商務省
    の役人となり建築の指導に当たっていたが、「洋風」建築の始まりで宮城県に移り、紡績工場、学
    校、警察署などを建てた。

    ○ フランク・ロイド・ライト(1867−1959)
     ライトは、1893年のシカゴ博覧会においてアドラー・サリバンの下で米国館の建築に携わるが、
    同時期に日本館として建築中の「鳳凰殿」を見学したものと想像される。「鳳凰殿」は、ウイーン
    博覧会の日本館同様材料はすべて日本からもっていき、久留正道(コンドルの弟子)が建てた、
    平安期・鎌倉期・足利期の様式をもつ、宇治の平等院を模した建物である。1905年に初来日し、
    帝国ホテルなど数々の洋館の設計にあたっている。ライトは自分では決して「日本」から影響を
    受けたとは言わない人であったが、弟子にも日本建築を学ばせるなどそのほとんどは日本建築か
    ら学んだことが知られている。例として「日光東照宮」と「ユニティー・テンプル」の平面図の
    相似が紹介された。

     質疑応答で、東京大学理学部附属植物園にある東京医学校の建物の様式は擬様式であること、
    学内の古い建物の柱の様式はカレッジ・ゴシック式(大学は中世の修道院がもとで発展したもの)
    で、安田講堂、工学部1号館、法文1号館、総合図書館は内田祥三(昭和18年総長)の設計で
    あること、の説明があった。



    • 能登路雅子 「1893年シカゴ博覧会と日本」
    • 藤森照信 「博覧会と国際建築交流−大工 山添喜三郎とフランク・ロイド・ライトの場合」
    • 吉見俊哉 「近代日本と万博幻想:植民地主義から開発主義へ」
    • 今橋映子 「使命と旅愁のはざまに―1900年パリ万博と 日本人留学生たち」
    • 木下直之 「湯島聖堂博覧会と内国勧業博覧会」


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