「使命と旅愁のはざまに―1900年パリ万博と日本人留学生たち」
講師:今橋映子 東京大学大学院総合文化研究科助教授
日時:平成15年11月25日(火)16時〜17時30分
1900年パリ万国博覧会の周辺から、日本人(特に日本人留学生)にとってパリとは何であった
のかを見ていきたい、ということを基本テーマとして話された。
始めに、日本人にとってパリとは何であったのかについて。
- 『麗都』パリ誕生までの歴史的経緯
1852年から1870年までの第二帝政期にナポレオン三世とセーヌ県知事オスマンにより都市
改造事業が行われ、パリは『麗都』と呼ばれるまでに変貌する。日本人とパリとの初めての出
会いは1862年徳川幕府の竹内使節団であるが、この時には第一期の改造事業が終了していた。
- 日本人とフランスとの関係
1870年、フランスは普仏戦争に敗れ第二帝政が終了する。以後、明治政府はその範をプロシ
アとイギリスに求めることになる。ここで日本とフランスの関係は一時切れてしまうが、明治
の第二世代である黒田清輝・永井荷風等により、パリは芸術・文化の面で新たに見直されるこ
とになる。その頂点が1900年のパリ万国博覧会であったと考えられる。
- 1900年のパリ万博は日本人にとって何であったのか
日本の美術品が工芸品としてしか扱われなかったことへの不満から、1900年のパリ万国博覧
会に向けて『稿本日本帝国美術略史』が編纂され、1900年にはフランス語版が刊行された。パ
リ万国博覧会では、日本は純粋美術の分野で自国の区画を確保し多数出品したものの、準備の
割には振るわないという結果に終わった。特に西洋画はそうであり、1900年のパリ万博は浅井
忠等の洋画家にとってひとつの転機となる。
次に『パンテオン会雑誌』について、その内容を上映しながら説明があった。
『パンテオン会雑誌』は1900年初頭フランスに滞在した日本人美術家、文化人等が集まって
つくった「パンテオン会」の会員の回覧誌であり、現在パリ日本文化会館図書室に所蔵されてい
る。黒田清輝・土井晩翠・和田英作等について、会員同士でつけた「あだな」が披露されるなど、
当時の交友関係を窺わせる興味深い話もあった。『パンテオン会雑誌』翻刻・資料および論文集は、
2004年5月に刊行の予定である。
最後に、来場者から1900年のパリ万博を見た日本人留学生が万博について直接書き残した記
述はないのかとの質問が寄せられ、講師から残念ながら見つかっていないとの回答があった。
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