もじりであっても、見立であっても、それは、パロディー化される元が広く普及しているということが前提になっている。地震後の摺り物に見るもじりや見立は、歌舞伎狂言、流行の唄、商家の引札、往来物、読物、見世物口上などが元となっている。これらは我々にはなじみが薄く、それ故に我々にはもじりの面白さが通じにくいのであるが、当時の平均的な教養のある人にとっては、ごく普通に目にするもの、耳にするものばかりであった。
もじりや見立になっている地震関係の摺り物に共通しているのは、パロディー化される元は様々であるが、結局は、地震が起こった、家屋が崩れた、避難生活が続いているなど、同じようなことを記しているということである。つまり、摺り物の作者側としては、もじりによって何か特別な状況を伝えようとしているのではないように思われる。どちらかといえば、皆が現在置かれている状況を、誰もがよく知っている何かを元に、いかに面白可笑しく、うまくもじるかという遊びとして書いているのではなかろうか。
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ここに掲げた絵では裁断されてしまっているが、本来は、絵の上部枠外に、右から左へ「見立ちう身ぐら」の文字が横書きされている。絵の画面が18に区切られていて、一つ一つに絵と短い文が記されている。短い文は、歌舞伎狂言の『仮名手本忠臣蔵』からのせりふなどの引用になっている。忠臣蔵では、全く異なる状況で使われているせりふを、そのまま地震の際の人々の立派な行動や身勝手な振る舞い、あるいは心情などに見立てている。忠臣蔵の各場面のせりふや状況がわかっているからこそ、面白く読める摺り物である。
例えば、上段左から三つ目の「天川や義平はおとこでごんす」は、忠臣蔵十段目の「天川屋の義平は男でござるぞ」の見立で、本来は、子どもを人質に取られながらも義士たちの武具を隠す荷物の秘密をしゃべらない、男気のある商人、義平のせりふである。これが、地震で庶民が困る中、施しを求められて悩む金持ちの心情に見立てられている。また、下段右端の「釣とふろうのあかりをてらしよむながふミは」は、忠臣蔵七段目からの引用になっている。遊興に明け暮れる大星由良之助(大石内蔵助)が敵の動向を知らせる手紙を読んでいると、二階と縁の下から盗み読まれる場面があるが、地震後に読む長い手紙は火災について記した絵図である、としている。
薬の引札をまねた摺り物。薬屋の口上をもじって、近頃各地で地震が続いている様子を述べ、薬の効能書きや注意書き風に、地震後に景気のよくなった仕事と、逆に暇になった職業をあげる。看板にある「妙ゆり出し」という名は、薬の”妙振り出し”のもじりである。当時、振り出し薬といって、ティーバッグのように湯や水の中で振ってエキスを抽出させる薬があった。
料理屋の引札をもじった摺り物。むき身が「打身」、即席御料理が「即席御りやう治(御療治)」、仕出しが「火出し」、鰻飯が「市地うなんき(市中難儀)めし」、どじょう汁が「どうせう(どうしよう)汁」など、もじりづくしになっている。「御披露」として述べられている口上の内容は、地震について伝えるというよりは、料理屋の引札をいかにもじるか、ということに主眼が置かれているように思われる。看板の行灯に見られる「なまず大かばやき(鯰大家破焼)」は、他の安政地震関係の摺り物にも、よく見られるもじりである。
この摺り物は数多く摺られたらしく、石本巳四雄コレクションの中にも、ここ掲げたものの他に、墨摺りで版の異なるものと、色摺りのものの3種が確認できる。
当時、手紙の案文集(書き方ガイド)は庶民の必携書であった。案文集は、時候の挨拶、病気見舞い、ご機嫌伺い、慶弔時など、さまざまな場面で手紙を書くときに利用されていた。この「不用大変 勧進要文集」は、そんな案文集のもじりである。「地震見舞之文」とあるが、その内容は、もちろん真面目な地震見舞いではなく、地震で倒壊した建物の梁の下敷きになって人々が亡くなったことを手紙文のもじりで記し、いかにもじるか、という部分に主眼が置かれている。地震後に本当に必要とされるのは、真面目な地震見舞いの手紙案文であろうが、やはり、このような遊びの要素が強いものも喜ばれたことがわかる。
なお、「大道散人戯案」とあるが、三田村鳶魚の『瓦版のはやり唄』によれば、大道散人は魯文のことであるという。また、絵の横には「念魚画」と記されている。「念」と「魚」を組み合わせれば鯰になるが、鯰絵を描いたという玄魚(梅素亭玄魚)の名のもじりかとも思われる。さらに「念魚画」の下に見える凹凸の字を菱形に組み合わせた印も、玄魚が用いていたものと同じ形をしている。
江戸時代に教科書とされ、江戸町人に普及した往来物に『小野篁歌字尽(おののたかむらうたじづくし)』がある。これは、漢字の学習のため、偏や旁の共通する漢字を集め、それを覚えるための歌を記したものである。『小野篁歌字尽』のパロディーには、すでに曲亭馬琴の『无筆節用似字尽(むひつせつようにたじづくし)』や式亭三馬の『小野字尽(おののばかむらうそじづくし)』などがあり、面白可笑しい漢字が考案されている。この「地震節用難事盡」でも、難字ならぬ「難事」があげられ、24の文字が並んでいる。
一見、難しそうな字が記されているが、内容的には、例えば「はりをち(梁落ち)」という読みの漢字が「骨」偏に「折」という字になっている(家屋の倒壊で梁が落ち、下敷きとなって骨を折る)など、わかりやすい。
なお、この「地震節用難事盡」にも、8-4「不用大変 勧進要文集」と同じ「大道散人」の名が記されている。さらに、鯰の絵の横には、「鈍画」という文字と菱形に「文」の字の印が見えるが、菱形に「文」の字の印は、カタカナの「ロ」に「文」、つまり「ロ文=魯文」と解釈できる。地震当時、仮名垣魯文は鈍亭魯文と名乗っていたが、「鈍画」や菱形に「文」の字の印からも、この摺り物は、魯文の記したものと考えてよいだろう。
寺社の秘宝などを時期を限って公開することを開帳という。当時は、開帳をより楽しむことができるよう、その秘宝、秘仏の由来などについて、口上を述べる専門の案内人が配置されていた。この「由来記」は、そのような開帳の口上のもじりになっている。開帳されているのは「家根の瓦土蔵菩薩(賽の河原地蔵菩薩のもじり)」と「左官無二如来(釈迦牟尼、あるいは釈迦如来のもじり)」で、地震による復興景気の恩恵を受けた日雇い人足や左官について語っている。