bar02 石本コレクションについて
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石本コレクションと石本巳四雄

神奈川大学教授
北原 糸子

はじめに

 石本コレクションはそれほど多くの人に知られているわけではない。このコレクションは主に災害の際に出版されたかわら版や錦絵、新聞付録などであって、いわゆる伝世の名品絵画が集められているというものではないからである。このコレクションは、第2代地震研究所長石本巳四雄(在任期1933~1939)が在任中に病に倒れ、逝去後、遺族が研究上の遺品を勤務先の地震研究所と総合図書館に寄贈したことに由来する。すでに地震研究所のものはホームページ上に公開されているが、総合図書館所蔵のものは今回はじめてその全体、すなわち、石本コレクションI、およびIIとして紹介することになった。そこで、総合図書館が蔵する石本コレクションI、およびIIの全体についてまず簡単な紹介を行い、その上で、地震科学者石本巳四雄がなぜこうした類の反科学、あるいは非科学とも目されるかわら版類などを収集したのかについて考えることにしたい。

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石本コレクションの概要

口絵1:クリックで拡大 口絵1にあきらかなように石本コレクションI(資料名:地震火災版画張交帖、請求記号BS:11)は折本仕立て11冊、裏表に張り込まれた資料の総点数478点と、口絵には登場しないが、張交帖に張り込まれていない石本コレクションIIの104点(コレクションII内の一連番号と資料名登録)である(巻末目録参照)。コレクションIは当初から「地震火災版画張交帖」と名付けられていたわけではなく、図書館に収められた後に付けられた資料名とのことである。コレクションIIもIと同様な災害時に出版された摺り物類が多いが、資料の状態から推して張交帖貼付から除外されたと考えられる。また、コレクションIに納められているものと同種の摺り物が28点ある。以下では、このコレクションをコレクションI、IIとして扱うことにしたい。

 まず、コレクションIの全体の傾向を表1に示そう。ここでわかることは478点のうち、災害関係の占める割合が68%と7割近い。残りの大部分は温泉案内71点、名所案内59点で、この2つで27%を占める。コレクションIIについても104点のうち災害関係は85点、その占める割合が82%、名所案内11点であるから、ほとんどが災害関係で占められることになる。

 温泉・名所案内には年代の不明なものが多いが、実は災害かわら版や鯰絵も年代が刻印されているものは少ないのである。しかしながら、これらはその出版形態からして、災害発生後比較的早く出版されていることがわかっているから、災害発生年月日を摺物の出版年月と読み替えている。

 以上で、石本コレクションI、IIは災害かわら版類のコレクションとしての特徴を持つことが納得していただけたと思う。では、その中身はどんなものが集められているのだろうか、災害ものを中心におおまかに傾向をみておきたい。もう一度、表1、表2をみてみよう。コレクションIでは天明浅間噴火(1783)を記すものから大正12年(1923)の関東大震災までの間に起きた地震、津波、噴火などの自然突発災害のうちの大災害に関わるものが収集されているが、なかでも点数の突出しているのが嘉永7年(1854)と安政2年(1855)である。その数はコレクションIとIIを併せ、嘉永7年の場合は64点、安政2年では244点である。この2つの災害締めて308点は、コレクションIとIIの災害物の合計412点のうちの実に75%を占めることになる。嘉永7年の災害でもっともかわら版が集中するのは11月4、5日の安政東海・南海地震津波であり、安政2年はいうまでもなく10月2日の江戸地震である。実は災害かわら版は幕末のこの2つの大災害時に集中的に出版されたことが他のコレクションの分析からもわかっている。つまり、これは石本コレクション特有の傾向ではなく、むしろ、災害かわら版類の当時の出版傾向を物語るものとすることができるのである。

とはいえ、コレクターとしてのある種の選択が石本になかったわけではない。そのことをここで考えておきたい。

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コレクターとしての石本巳四雄

 石本巳四雄の地震学者としての代表的な仕事は、シリカ傾斜計と加速度地震計の発明だとされている。本来ならば専門領域での学術的位置付けがなければならないが、わたしは地震学、地震学史についての知識は零に近い。ここでは一般的にいって当時研究の最先端にいた地震学者が関心を持ちそうにもないかわら版や鯰絵を、石本巳四雄はなぜ収集したのかを探ろうというのだから、石本の専門領域の仕事は別の問題として脇に置くことにする。

 石本は、1893年小石川に生まれた。父親は第二次西園寺公望内閣の陸軍大臣を務めた石本新六(1854~1912)である。巳四雄は第一高等学校、東京帝国大学理科大学実験物理学科に入学、卒業後三菱造船研究所を経て、1921年から1924年までフランスへ留学、翌1925年帝国大学助教授として創設されたばかりの地震研究所所員となる。1939年5月脳溢血に倒れ、退職、翌1940年2月4日死去、48歳であった。

写真1:クリックで拡大 写真1は石本が地震研究所所長時代の1935年8月15日、浅間火山観測所の開所2周年を記念して撮影されたものであり、それぞれ自筆の署名が付けられている。寺田寅彦、その右隣の石本を囲む当時の地震研究所の錚々たる研究者たちである。

写真2:クリックで拡大 さて、石本がどのようにしてこうした類の収集をしていたのかを示す一つの手がかりがある。写真2は、石本が古書店から購入したかわら版類、その他の納品書である。昭和5年(1930)5月18日の日付がある。この頃、盛んに古本屋が持ってくるこうした類のかわら版類を購入していたのではないだろうか。因みに木内書店納品書の右から7番目「世界転覆噺」はケース1において展示しているものであり、この値段は3円50銭であった。当時の小学校教員の初任給が約50円、現在20万円とすると、4,000倍であるから、14,000円となる。鯰絵1枚10万円は下らない現在からすると、現在はこの換算額ではとても購入できないだろう。

 当時石本と張り合い、あるいは分け合って、資料を集めたと東京帝国大学新聞研究所小野秀雄が語っている。小野秀雄のコレクションは現在情報学環図書室で閲覧することができるが、その構成からすると、小野のものは報道性を重視した災害かわら版が多く、石本のものは圧倒的に鯰絵の類、あるいは災害かわら版でももじりや替歌などを織り込んだ狂歌本が多い。これらのことを考え合わせると、石本の収集歴はそれほど古くはなく、地震研究所に入所後の昭和の初期に集中していたのではないかと推測する。

* 写真1「浅間火山観測所において」は、東京大学地震研究所から提供を受けた。

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石本の地震の原体験

 地震研究所は、濃尾地震(1891年)後設立され関東大震災で解散した震災予防調査会の跡を受けて、1925年に設立された。この研究所はその成立の由来や設立時期からしても、当初関東大震災を経験した多くの学者から構成されていた。しかし、石本巳四雄は大震災の時、丁度留学中であって、この震災を体験していない。そのことが彼にどのような学問的影響を与えたのかを推測することはわたしにはできないが、かわら版や鯰絵の夥しい量のコレクションを前にすると、石本の直接の原体験ではないにしても、祖父や父親の地震体験を記していることの意味を考えざるを得ない。

 石本は、脳溢血で倒れて療養中の1939年の8月23日、「安政二年十月二日江戸地震石本家における災禍顛末」と題する文書を残している。これには1枚の欠落があるものの、父母の話の記憶や伯母の話を聞いて書いたものだとの断書きがある。つまり、親族の体験談の聞書きだと断っての話である。

 安政江戸地震の安政2年には、酒井藩士の曾祖父勝左衛門、祖父八十左衛門の一家は江戸城下辰口の酒井藩上屋敷の長屋に住まっていた。ここで震災に遭い、曾祖父、曾祖母、と祖父の娘2人(すなわち、巳四雄の伯母にあたる)の計4人が亡くなった。この時、わずか2歳であった石本新六(すなわち巳四雄の父)は兄従四郎、 鉞五郎(えつごろう)の2人とともに助かったという。焼死した人たちは顔もわからないほどで、焼残りの衣類から漸く判別できる程度であったとも記している。酒井藩上屋敷では安政江戸地震で邸内焼失のため37人が亡くなっているが、蛎殻町中屋敷では建物が倒壊して死者19人、巣鴨下屋敷でも1人がなくなるという大名屋敷のなかでも上位に属する大被害を受けた。

この話を記して半年を経た翌年2月石本は亡くなるのである。恐らくは、病床にあって石本家の災難を単なる思い出としてだけではなく、この災難を書かずにはいられないなんらかの動機に衝き動かされたのではないか。これはわたしの単なる推測にすぎない。

 地震研究所所蔵の鯰絵類を加えると、現在200点ほどの種類があると確認されている鯰絵のほとんどが集められていたことになる。自ら収集したこれらの摺り物を手にして、ここに託された当時の人々の災害に対する思いとはなんであったのか、この災害で亡くなった曾祖父母、あるいは命を落とした伯母たち、乳母に抱かれて助けられた当時2歳であった父、この父が生きながらえてこそ自分の存在があることに思いを馳せたのではないのだろうか。

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本展示に向けて

 さて、今回の展示では、石本コレクションI、IIの全容を示す空間がなく、止むを得ず災害ごとに3、4点を選択することにした。しかも、裏表に張り込まれた張交帖の資料では展示品の選択が大幅に限られた。そこで、止むを得ず、パネル展示としたものもある。原資料を展示するというのがこうした展示の基本ではあるが、この展示は名品を展示するものではなく、地震学者にして稀代のコレクター石本巳四雄の災害かわら版類を紹介するということに免じていただくほかはない。

 ここでは11のケースごとにそれぞれ1つの災害をまとめ、ケースの容量を勘案して3~4点程度を展示し、簡単な解説と判読しにくい文字がある場合には釈文をつけた。これはそれぞれの分野の研究者が担当した。

 ケース1は石本コレクションの大枠を示すものを選び、ケース2は善光寺地震(1847年)、ケース3、4は安政東海・南海地震(1854年)、ケース5、6、7、8は安政江戸地震(1855年)、ケース9は明治に入って最初の大災害であった磐梯山噴火(1888年)、ケース10は濃尾地震(1891年)、ケース11は明治三陸津波(1896年)である。安政江戸地震について4ケースを使って展示するのは、この災害について鯰絵のほか多様な摺り物が多く、江戸の災害かわら版の特徴をよく表していると考えたからである。

 なお、ここで取り上げた災害については、地震学者、火山学者による最新の研究成果の解説がなされる。

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参考文献

  • 小野秀雄『かわら版物語 江戸時代マス・コミの歴史』雄山閣出版 1967年
  • 木下直之・吉見俊哉編『ニュースの誕生 かわら版と新聞錦絵の情報世界』東京大学総合研究博物館 1999年 (東京大学コレクション 9)
  • 北原糸子・富沢達三「「地震火災版画張交帖」と石本巳四雄」(『東京大学社会情報研究所調査研究紀要』No.15 2001年)
  • 森永卓郎監修『物価の文化史事典』展望社 2008年

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