
7.安政江戸地震(1855年)の出版の特徴
安政2年(1855)10月2日の大地震の直後から、江戸の町々に地震に関係する摺り物が大量に出回った。そのような摺り物には墨摺りの簡易なものも多く見られるが、色摺りの錦絵(浮世絵版画)風のものも、現在250を超える種類が確認されている。火災被害を受けた地域を示したものや、深刻な地震の被害について伝えているものもある一方、色摺りの錦絵風のものを中心に、もじりや皮肉、見立てなど、遊びの要素が強くみられるものも少なくない。地震後の江戸の人々の間で、このようなものの需要が高かったことがわかる。
当時は、江戸で出版される錦絵には、絵師名、版元名、そして検閲を受けた印である改印を画面上に示すというルールがあった。ところが、安政江戸地震後に大量に出版されたものについては、ほぼ全てにおいてそのルールが無視されていて、それが、安政江戸地震関係の摺り物出版の特徴の一つになっている。もちろん、このような出版法令を無視した出版に対しては、中止すべく何度も申達しがあった。しかし、逆に版元側からは、今禁止されると生活が立ち行かなくなるということで、許可願いが出され、ついに、12月の初め、版元の中から数名の逮捕者を出すまで、出版が続けられたのである。
このように、安政地震に関する摺り物は、大部分が地震直後から約2ヶ月の間に出版されたのであるが、類似品、焼き直し、といった類いのものが多く見られる。売れ筋の絵をまね、次から次へと制作していったからこそ、2ヶ月という短い期間に250種以上のものが出版されたと考えられる。似たような内容のものが多いというのも、安政江戸地震後の出版の特徴であるが、幕末には、政変や疫病流行がおこるたびに、同じような内容の絵が大量に出回るという現象が何度も見られた。





















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7-1 とてつるけんかへ哥
36.7×25.5cm (II-2-11)
弘化4年(1847)正月、『笑門俄七福(わらうかどにわかのしちふく)』の舞台で、6代目松本幸四郎、2代目市川九蔵、4代目中村歌右衛門の演じた舞踊、「とてつるけん」が大評判となった。「とてつるけん」は、「酒は拳酒、色品は、カエルひとひょこ三ひょこひょこ へびぬらぬら なめくで参りましょ ソレじゃんじゃかじゃかじゃかジャンケンな 婆様に和藤内がしかられた 虎がはうはうとてつるてん 狐でさあきなせ」という唄に合わせて、3人が狐拳(狐は狩人に負け、庄屋に勝つ、狩人は庄屋に負け、狐に勝つ、庄屋は狐に負け、狩人に勝つというジャンケンに似た遊び)を打つ、というものである。江戸で「とてつるけん」が大流行した際には、「とてつるけん」を演じた3名の役者が拳を打つ絵が多数出版された。
この「とてつるけんかへ哥」の文句は、「とてつるけん」の流行時に制作されており、文字通り「とてつるけん」の替え唄になっている。また、画中で狐拳をしている阿弥陀(庄屋)、旅の女性(狩人)、鯰(狐)も、それぞれ「とてつるけん」を演じた松本幸四郎、市川九蔵、中村歌右衛門の似顔になっている。「とてつるけんかへ哥」を描いた歌川国輝が信州地震を描いている絵は、他にも2‐3「かわりけん」と「さてハしんしうぜん光寺・・」の2種が知られているが、2種とも「とてつるけん」の替え歌を入れ、「とてつるけん」を演じた役者たちの似顔を描いている。これらの信州地震の絵は、鯰を描いてもじりを使っており、安政江戸地震の摺り物に先立つものとして興味深いが、同じく弘化4年に見られた、内藤新宿太宗寺の閻魔像の眼玉盗難事件や、浅草の見世物企画(朝比奈の大人形)についても、この「とてつるけん」の唄のもじりを使った摺り物が制作されている。そのため、信州地震関係の絵については、「とてつるけん」の絵の流行があったからこそ生まれた絵という見方も重要である。
7-2 老(おな)まづ
36.5×25.0cm (I-02-088)
絵の表題は、「老」の字に「おな」というルビが振られている。「おなまづ」と読むのであろう。大きな文字のみ読めば「老」「ま」「づ」となっていて、さらにその下に「常磐寿無事大夫直伝」とあり、常磐津の『老松』に関係するであろうことがわかる。実際、画面上部に記された文句は地震で家屋が崩れる様が語られているが、「そもそも松の・・・」ではじまる『老松』のもじりになっている。下部に列記されているのは、地震で焼けた吉原遊廓の仮宅(吉原が復興されるまで、臨時の遊女屋とされた所)場所である。さらに、座敷で三味線を弾く芸者と、鯰の身振りで一本杉の軽業を披露する太鼓持ちの絵が描かれている。
この絵には、絵師名、版元名、改印は見られない。しかし、戯作者
仮名垣魯文(地震当時は鈍亭魯文)の弟子の記した『仮名反古』によれば、この絵は地震の翌日に魯文が記して、浮世絵師の
河鍋暁斎(が絵を描いたといい、大評判となって数千枚が売れたという。このような摺り物は、まだ余震の続く中売り出され、人気を集めていた。とはいうものの、吉原の仮宅は、地震からひと月後、11月4日になって願い出されているので、仮宅場所まで記されているこの絵が翌日の出版であるという点については、疑問が残る。
7-3 しばらくのそとね
23.7×35.2cm (II-2-19)
江戸時代、11月の顔見世狂言では『暫(しばらく)』が上演されていたが、これは、善人方が悪人方に危難を加えられそうになる時、豪傑が「しばらく、しばらく」といいながら登場し、ツラネ(長いせりふ)を披露する、というものである。この「しばらくのそとね」は、”『暫』のツラネ”をもじり、地震で家が倒壊したため”しばらくは外で寝る”という意味にしている。舞台の『暫』には、半分敵で半分道化という役柄の鹿島入道(通称鯰坊主)が登場するが、「しばらくのそとね」の画中でも、鯰坊主は要石で押さえられている。
当時は、江戸庶民の誰もが、人気狂言のせりふ、名場面のかけ合いなどをよく知っていた。「しばらくのそとね」は『暫』のツラネの節回しで地震被害について伝えているが、『暫』のツラネをよく知っていた当時の人々は、そのもじりを十分に楽しむことができたはずである。
歌舞伎狂言の『暫』は、代々の市川団十郎が当たり芸として演じてきた。7代目市川団十郎が制定した歌舞伎十八番の一つにも数えられている(制定当時の名は、5代目市川海老蔵)。この絵も、団十郎による『暫』が想定されていて、画中に記された「市中三畳」という名は、市川団十郎の俳名が三升であるため、市川三升のもじりになっている。また、衣装などに見える三重の□は、市川家が使用していた紋である。
「しばらくのそとね」には、作者・絵師名、版元名、そして改印が見当たらない。しかし、これについても、絵は浮世絵師の3代目歌川豊国が描き、文は魯文が記したことがわかっている(戯作者仮名垣魯文の弟子の記した『仮名反古』による)。3代目の豊国は、役者絵を数多く残した人気絵師であった。
「しばらくのそとね」からも、著名な作者や絵師が関わったものが、地震後の混乱に乗じて、通常の錦絵出版までの手続きを踏まずに出版されていたことがわかる。
7-4 地震けん
37.0×25.5cm (I-02-094)
弘化4年(1847)正月、江戸で大流行した「とてつるけん」の唄をもじり、人々の避難の様子、地震後の大工の手間賃の高騰について記している。弘化4年から安政2年(1855)10月まで、約8年が経過しているが、安政地震時の絵で「とてつるけん」をもじった絵は他にも確認でき、根強い「とてつるけん」人気を伝えている。
ここには怖いものとして例えられる「地震、雷、火事、親父」が描かれている。地震を起こす大鯰と、雷、火事は狐拳を打ち、親父がそれを眺めている。傍らに徳利と猪口が描かれているが、狐拳はお座敷遊びで、勝負に負けると酒を飲まなければならなかった
7-5 地震けん
29.4×23.1cm (II-1-19)
右に掲げた「地震けん」の簡易版と見られる絵。「地震、雷、火事、親父」の配置も、「とてつるけん」のもじりも、ほぼ同じである。幕末には、風刺画として評判になり、需要の高まった絵に対して簡易版が制作されることがあったが、安政地震時にも同様の現象が見られたことがわかる。石本巳四雄コレクションの中には、他の絵の簡易版も見られる。
[参考文献]
- 北原糸子『地震の社会史 安政大地震と民衆』 講談社 2000年 (講談社学術文庫 1442)
(湯浅淑子)


