
5.安政江戸地震(1855年)と鯰絵
安政江戸地震後に出版された数百種類を超える摺り物のうち、錦絵(浮世絵版画)様式の作品を、現在「
鯰絵」と呼ぶ。江戸錦絵は、
地本問屋((学問書などの出版を手掛ける書物問屋に対して、娯楽本を手掛ける出版物の問屋)が製作販売していた。安政江戸地震後の大混乱下では、名所絵や役者絵・美人絵などの商品が売れるはずもない。地本問屋にとって業界存亡の危機である。そこで、幾つかの版元は「地下深くには鹿島大明神の『
要石(』の力で抑えられた地震鯰がいて、時に地震鯰が暴れると地震が起こる」という伝説を基に、地震で混乱する江戸の世相を巧みに風刺した錦絵=「鯰絵」を企画したのである。
当時、錦絵の出版には事前検閲の通過、絵師・版元名の明記、巷間の噂を取り上げないこと等、様々な約束事があった。しかし版元たちは、地震後の混乱に乗じて鯰絵を素早く売りぬいてしまうため、検閲を通さず違反出版を承知で鯰絵を出版した。このために鯰絵は、版元・絵師を記さない匿名出版物とならざるを得なかったのである。迅速に出版するため、版の彫刻や摺りも簡略化されていた。
鯰絵は大当たりし、現在160点以上が確認されている。絵柄を見ると、地震鯰が鹿島大明神に叱責され「もう地震は起こしません」と詫びているもの、地震で大被害を被った江戸庶民たちが大勢で地震鯰を打ちのめし、それを地震後に仕事の増えた建築三職(鳶・大工・左官)が止めているものが目を引く。安政江戸地震の発生後しばらくは余震が頻発したため、鹿島大明神が「悪者」に描かれた地震鯰を威圧している絵柄で、絵自体が「地震よけの守り」となっている鯰絵が好まれたのである。実際、地震よけのまじない文字の書かれた作品もある。
これらとは逆に、地震鯰が「よき者」として人々に歓迎されている絵柄の鯰絵も多い。なかには、地震鯰が神様の如く人々からあがめられているさまを描いた作品もある。版元たちは、余震が終息し江戸の復興が本格化し、にわか好景気となったのを見て、内容をがらりと変え、江戸庶民の「世直し」気分を後押しする鯰絵を制作したのである。
幕末江戸の雑多な情報を記載した『藤岡屋日記』によると、江戸幕府は、錦絵の版木彫職人・摺職人たちから「地震後、仕事が無いので違反出版を大目に見てほしい」と嘆願され、当初は鯰絵の出版を黙認していた。しかし安政2年12月になると、地本問屋の関係者数名を捕えたのち、鯰絵を含む約350点の摺り物の版木を破壊させた。

















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5-1 しんよし原大なまづゆらひ
大判錦絵二枚続
36.5×49.5cm (I-02-125)
新吉原の遊廓も、安政江戸地震では、大きな被害を受けた。とくに震動後に発生した火事は新吉原の街を焼き、なかには遊女に逃げられるのを阻止するため、抱主が遊女を店の地下室に閉じ込めておき、多くの遊女が生きながらにして蒸し焼きとなってしまった悲惨な例もあったという。
遊女やたいこもち・禿((上級の遊女が使う見習いの少女)たちが、口々に悪態をつきながら地震鯰を殴っているが、地震鯰は 「花魁(たちに乗られてうれしいよ、そんなに乗るとまた持ち上げるよ、揺すぶるよ」とうそぶく始末である。
画面左上からは、地震後の復興景気で思わぬ儲けにありついた建築三職(鳶・大工・左官)たちが「待ちねえ待ちねえ、俺が止めた止めた」「そんなにぶちなさるな」と、人々の乱暴を止めに駆けつけている。建築三職は地震で儲けた人々の象徴として、鯰絵にしばしば登場する。本作は安政江戸地震発生後間もない、遊廓が未だ復興していない時期の作品だと推定される。
5-2 恵比寿天申訳之記
大判錦絵二枚続
25.3×37.5cm (II-2-21)
鯰絵によると10月は「神無月(」と呼ばれ、日本の八百万の神々は、出雲大社にのぼってしまう。この間、鹿島大明神(武甕槌命()が地下の地震鯰を抑える「要石(」は、恵比寿天が代わりに守っているという。本作は、鹿島大明神の留守を預かる恵比須天が、良い鯛を釣り上げ一杯やっているうち、隙をみた地震鯰どもが暴れだしてしまい、恵比寿天は鯰どもを捕え鹿島様に地震を起こさぬことを誓わせた、という内容である。
この作品のように鹿島大明神が地震鯰を叱責する絵柄の鯰絵は、安政江戸地震で家を失った江戸庶民が、頻発する余震のなかで不安な日々を過ごした時期に消費されたと考えられる。詞書の終わりには「東西南北」を表す梵字を「地震よけのまじない」とし、東西南北に貼る・天井に貼る・懐中に入れておけば良い、と記している。
5-3 諸職吾沢銭
大判錦絵二枚続
37.0×50.5cm (I-04-020)
安政江戸地震後のにわか復興景気で儲けた屋根屋・材木商人・土方・かわら版屋・車夫などが、地震鯰を神様のようにあがめ、一層儲かるように願いを掛けている。かわら版屋は「わしらなんぞは、火事だの地震だの世間の騒ぎがないと餓鬼道の体相だ」などと述べている。江戸の余震も治まり、建築三職をはじめ建築資材を商う商人や職人たちが大いに潤い、彼らの儲けが消費されることで、にわか好景気の恩恵にありつく人々が増えていったのである。
戯画的に描かれた神様に庶民が願を掛けたり、願いが叶ったお礼を述べる図は、幕末の絵師・歌川国芳が、江戸で爆発的な信仰を集めた「流行神(」を描いた錦絵でしばしば用いている。本図も歌川国芳門下の浮世絵師による作品であろう。
画面上部には「地震から改めて代(世)が直り、家もゆったり、仁(人)もゆったり」と、地震後の「世直し」気分を盛り上げる讃が書かれる。「よなおし」という言葉は、江戸時代には地震避けのまじないとして使われていたが、本作では漠然と世の中が好転する「世直し」との掛け言葉になっている。
5-4 治る御代ひやかし鯰
大判錦絵二枚続
36.1×25.2cm (I-2-13)
安政2年11月4日には幕府は火事で焼け落ちた吉原に仮宅((仮の遊廓)の営業を認めた。本作は「瓢箪鯰」に題材を採ったもので、賑わう仮宅に地震鯰が現れたところ、禿(と花魁に見つかり、瓢箪に似た形の鹿島の徳利で押さえつけられてしまった、という内容である。「瓢箪鯰」とは大津絵の画題として有名で、丸い瓢 でぬらりくらりとした鯰を押さえるのは猿知恵に等しく、人の心はつかみ難いことであるという意味である。
10月2日の地震発生直後から、江戸には周辺地域から復興のための人手不足を予想し、ひと儲けを狙う人々が押し寄せた。また江戸の武家地では、国元などから職人を数倍の高賃金で呼び寄せ、屋敷の修理を行わせた。そうした地震の痛手とは無縁な、懐のあたたかい「おのぼりさん」達が、江戸の見物を兼ねて仮宅に遊んだこともあったのだろう。
本作では、前出の5-1「しんよし原大なまづゆらひ」とは対照的に、花魁が地震鯰を大歓迎していることから、仮宅復興期(11月4日以降)の作品だと推定される。
(富澤達三)


