江戸時代、大坂市中には幾筋もの河川や堀川が縦横に廻っており、これらを利用した川船による舟運によって、諸国から運び込まれた年貢米や諸産物の取引が盛んに行われていた。また、大坂湾に通じる安治川や木津川の河口付近は港となっており、諸国から大坂に入港した数多くの大船(数百~千五百石の船)が碇泊していた。当時の大坂は、諸国から物資が集まる「天下の台所」として発展し、堂島川や安治川・木津川といった河川と、人工的に開削された複数の堀川が市街地を廻る「水の都」であった。
大坂は、11月4日朝の安政東海地震によって、建物が破損・倒壊して物的・人的に被害を受けており、翌5日夕刻の安政南海地震では、震害(地震被害)だけではなく津波による被害も蒙っている。地震発生から約2時間後の酉中刻(午後6時前後)、大坂湾へと浸入した津波は、大坂湾に流入する安治川や木津川の河口から浸入し、大坂市中を縦横に廻る堀川に沿って遡上して、人口約32万人の大坂に多大な被害を与えた。
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このかわら版では、市街地の基準となる大坂城を上部左側に置き、黒色で描かれた大坂の市街図に、青色の文字と挿絵で地震や津波の被害状況が書き込まれている。市街図の随所には、戸板・障子・屏風などで作られた一時避難用の仮小屋や、傾いた家屋に支え柱を施している様子などが描き込まれている。また、水色で塗られた河川や堀川には、安治川や木津川の河口から浸入した津波に押し上げられて、河口付近から遡ってきた多数の大船と、大船の衝突で破壊された多数の橋が描かれている。なお、上段の詞書には大坂市中のほかに、畿内やその周辺での被害の概略が記されており、このかわら版は地震発生からしばらく後に、様々な被害情報を取りまとめて作成されたと考えられる。
これは扇の地紙(扇面)を模した枠内に、大坂での津波による被害の様相と、地震による被害の挿絵が描かれたかわら版である。大坂市中での被害の特徴は、地震の揺れそのものによる被害よりも、その直後に来襲した津波に押し上げられて、河川や堀川を遡上した大船群の衝突による被害の方が圧倒的に大きかった点である。そのため、このかわら版では南を上にして、木津川や安治川の河口から遡上して堀川に浸入した大船群と、それによって破壊された橋の様相が詳しく描かれている。
現代の津波防災に関する研究では、津波による浸水域の解明が大きなテーマとなっており、過去にどこまで津波が到達したのかが、将来発生する津波被害を想定する上で重要な関心事となっている。このような防災上の観点から見ると、このかわら版は、津波被害が沿岸部に限定されたものではなく、津波が河川を遡上して内陸部に浸入した場合には、思いも寄らぬ形で被害をもたらすことを、決して誇張ではない絵図でもって現代に伝えている。そのためこのかわら版からは、河川を遡上する津波によって、河口部に碇泊していた船舶が押し上げられて河川を遡行し、橋梁や川沿いの建造物に被害を及ぼす可能性を読み取ることができる。約150年前のかわら版が、現代の私たちに津波災害の恐ろしさを警告する役割を担っているとも言えよう。