bar02 資料解説

前へ次へ4.安政東海・南海地震津波(1854年)大坂

 江戸時代、大坂市中には幾筋もの河川や堀川が縦横に廻っており、これらを利用した川船による舟運によって、諸国から運び込まれた年貢米や諸産物の取引が盛んに行われていた。また、大坂湾に通じる安治川や木津川の河口付近は港となっており、諸国から大坂に入港した数多くの大船(数百~千五百石の船)が碇泊していた。当時の大坂は、諸国から物資が集まる「天下の台所」として発展し、堂島川や安治川・木津川といった河川と、人工的に開削された複数の堀川が市街地を廻る「水の都」であった。

 大坂は、11月4日朝の安政東海地震によって、建物が破損・倒壊して物的・人的に被害を受けており、翌5日夕刻の安政南海地震では、震害(地震被害)だけではなく津波による被害も蒙っている。地震発生から約2時間後の酉中刻(午後6時前後)、大坂湾へと浸入した津波は、大坂湾に流入する安治川や木津川の河口から浸入し、大坂市中を縦横に廻る堀川に沿って遡上して、人口約32万人の大坂に多大な被害を与えた。

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[参考文献]

  • 河田恵昭『都市大災害 阪神・淡路大震災に学ぶ』近未来社 1995年 (近未来科学ライブラリ 6)
(西山昭仁)

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