安政東海地震は、江戸時代末期の嘉永7年(安政元年)11月4日(太陽暦では1854年12月23日)の辰中刻過ぎ(午前8時頃)に、遠州灘沖を震源として発生した海溝型の巨大地震である。この地震の震害(地震被害)は、南関東~東海道~伊勢湾~紀伊半島や畿内で甚だしく、また、直後に発生した津波によって房総半島~東海道~紀伊半島の太平洋沿岸は特に大きな被害を蒙った。地震と津波を合わせた被害は、全体で少なくとも死者約2,000~3,000人、倒壊・焼失家屋約30,000軒であったとされる。
安政東海地震から約32時間後、翌11月5日(同12月24日)の申中刻(午後4時前後)には、紀伊半島沖を震源として、同じく海溝型の巨大地震である安政南海地震が発生した。震害は、紀伊半島~四国~九州の太平洋沿岸や畿内で甚大であり、前日の安政東海地震と同じく、直後に発生した津波で紀伊半島~四国~九州にかけての太平洋沿岸では特に大きな被害が生じた。震源近傍では地震と津波の被害の区別が付きにくく、双方を合わせた被害は、全体で少なくとも死者約1,900人、大破・倒壊・流失・焼失した家屋・土蔵など約63,300軒であったとされる。安政東海地震と安政南海地震はともにマグニチュード8.4と推定されている。
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このかわら版は、被災地である現在の東海地方~西日本を網羅する形で描かれており、詞書には当時の国ごとに被災地名と被害状況の概略が記されている。個々の被害記述は簡単であるが、広範囲にわたる被災地についての記述がまとめられており、11月中旬に板行されたかわら版とされる。また、各国の城下町での被害状況について、簡潔ではあるが数多く記されており、諸藩の被害情報を入手できた大坂で出されたかわら版と考えられている。
このかわら版には大坂での被害状況が記されておらず、下段末に他の地域での被害については大坂と同様であると記されていることから、大坂で板行されたかわら版と考える。また、文末には早飛脚で伝わってきた内容であると記されており、地震と津波で被災した直後の大坂において、他の地域での被害に関する速報性の高い情報が求められていた様子が窺える。
一方、表題には「国々」とあるものの、実際に記されているのは現在の三重県・和歌山県・兵庫県・大阪府堺市での被害状況のみであり、必ずしも被災地全域について記されているわけではない。その理由として、地震発生直後の時点では、地震と津波による被害のために東海道が寸断されており、被害情報の収集範囲が限られていた状況が挙げられる。なお、右欄外に「本しらべ」と記すことによって、記述内容の確証性を強調しており、他のかわら版との競争の中で出された商品としての意味合いも強いであろう。
このかわら版の表題にも「諸国」とあるが、実際には現在の大阪府大阪市・三重県・愛知県での被害状況が記されているのみである。上段の詞書冒頭では、「御公儀」の治世に感謝を表す言葉が述べられており、無許可でありながらも幕府の目を意識して板行されたかわら版と考える。
また、大坂での被害状況が詳細であることから、大坂で出された可能性が高い。但し、このかわら版に記された大坂での死者数については、町奉行所の調査結果などではなく、伝聞情報に基づいているためにその信憑性は低い。しかし、大坂における津波被害の甚大さを物語るためには、例え確証性に乏しくても必要な記事であったと言えよう。
一方、挿絵に描かれた地震で倒壊する家屋や津波に流される人々・家屋・船などは、必ずしも大坂での状況ではなく、この地震・津波の一般的な被害を表している。