善光寺が開帳中であったため、地元はもちろん、全国から参詣に訪れた多くの人々も地震の犠牲になった。このため、善光寺地震の情報を求める人々も多く、これを伝えるかわら版が遠国からも求められた。以下のかわら版はこうした傾向を伝えるものであるが、江戸地震に先立って、善光寺地震でも鯰絵が発行されている。
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このかわら版は被害地の上田藩稲荷山宿の宮大工、小林五藤が版行したものである。五藤はさらに詳しい情報を盛り込んだ改定版を発行しており、如何に多くの地震情報が求められていたかがわかる。
作者は不明だが、信松堂蔵版と印刻している。被害地情報も比較的正確であるから、2-1と同様に被害地の信濃国で発行された可能性が高い。被害の出た藩、広範な被害の情報を地図に描くことで災害の全体像を伝える工夫がなされている。被害情報のこうした伝え方は善光寺地震を皮切りに幕末まで続く大災害のかわら版情報のひとつの様式となった。
善光寺地震の際に出た地震鯰絵。現在3種類ほど絵柄が確認されているが、いずれも「拳」の見立てのスタイルを採っている。これは当時流行ったきつね拳(ジャンケンと同種の江戸時代のお座敷遊び)の唄をもじったものである。安政江戸地震の鯰絵は地震の留め役が鹿島大明神だが、ここでは善光寺本尊の阿弥陀如来が地震(鯰)を懲らしめている構図である。