地震学者や地質学者など帝国大学理科大学の教師や学生が現地に派遣され、調査を行い、地表に現れた断層(根尾谷断層)などを写真に収めた。東京、横浜、名古屋などの民間の写真師も多く被害地に入り、新聞広告などを通じて災害写真を販売した。明治政府はこの地震をきっかけに地震に対する日本人学者による常設の調査研究機関(地震予防調査会)を設けた。また、日本赤十字や大学、あるいは民間の医師・看護婦も医療支援に現地に赴いた。新聞社は現地派遣記者の記事や写真にもとづく石版画などを掲載して、地震の破壊力を報道し、また、義捐金の募集なども率先して行った。
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ここに掲載される9点の石版画は、愛知県4点(愛知県枇杷島、清洲市中、一の宮市街、愛知県枇杷島橋)、岐阜県5点(岐阜県笠松出口、岐阜県岐阜市街焼跡、岐阜県鏡島村字港、岐阜県竹ヶ鼻入口焼跡、岐阜県大垣市街焼跡)で、いずれも被害が大きく、多くの写真師がこれらの災害シーンを撮影している。そうした写真にもとづいて制作された石版画である。当時は写真を新聞紙に印刷する技術が普及しておらず、また印刷も高価であったため、写真画というよばれる石版画が広く世に流通していた。
上欄には義捐金高と施主を一覧表とし、その最初に天皇・皇后の26,000円の下賜金、次いで各宮家、華族、大臣、県知事、尾張・美濃の旧藩主、各国領事などの顕官貴顕を配し、銀行、企業、新聞社、本願寺や日蓮宗、人力車夫組合、歌舞伎役者、吉原の芸妓などさまざまな立場、職種の義捐者の名が並ぶ。情報源は新聞である。興味深いのはほとんどが東京の人々で占められており、東京の人々に売り込むことを想定して制作されたのであろう。
三枚続きに登場する被害地は名古屋、枇杷島橋、笠松、竹ヶ鼻、鏡村などであり、都新聞付録の石版画が題材とする対象と重なる。実際にこれら各地が一枚の絵のなかに収まるような地理関係にはないことは明らかなことから、作者小国政は東京で販売された写真などを頼りに想像力で三枚続きの錦絵に纏め上げた錦絵と断じてよい。濃尾地震の際には写真が市場に流布し、それらにもとづく石版画も多く売り出されているが、依然としてこうした江戸時代以来の災害を語る錦絵などの災害メディアの書き手と市場が残されていたのである。