以下の錦絵は、近世期の伝統的スタイルを踏襲した刷物で、明治中期の段階でもこのようなメディアに対する需要が確認できる。ただし、記述内容は現地取材などに基づくものではなく、三陸津波の話題を巷間に提供することを狙ったものであった。このようなメディアにより現地の惨状が伝えられると、恩賜金17,500円のほか、各地から3県合計63万円余りが集まり、衣類や食料といった義捐品も多く寄せられた。
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青森・岩手・宮城各県沿岸の地図と、沿岸各地の被害状況が記されており、近世以来のかわら版の様式を踏襲している。この摺り物は被災地でなく東京で出版され、死傷者、流失家屋などの数値は必ずしも正確ではない。
小国政(こくにまさ)の画によるもので、津波来襲の様子を鮮やかに描いている。解説文は的確であり、画像によって惨状を示し、義捐金などの救済を呼びかけるものである。
11-2の後に発行され、津波来襲後の様子を描いており、赤十字の腕章を付けた人々や警察官が対応にあたっている様子が見受けられる。救援を呼びかける内容である。
ルビ(よみがな)が付されているが、実際の漢字と読み方が異なる場合も多く、例えば「健康者」の読みは「たつしや(達者)なひと」である。販売の際に読み売りを行っていたと考えられ、漢文表記で理解しづらい新聞と比べて、このようなメディアの役割は、文字が読めない人にも画像と音声で情報を伝達できるところにあった。
3枚1組で、それぞれホーカイ(法界)節や一つとせ節などの俗謡にのせて三陸津波の概況を示しており、3枚ともに被災民憐れと政府や有志者の救援ありがたし、といった内容である。また、沖に出ていた漁師たちが助かったことや、被災人数など現地からの情報を取り入れている様子もある。但し、発行所は浅草や日本橋であり、タイトルに「北陸」と記され、被災地域について明らかな間違いをおかしているように、全てが正確な情報というわけではなかった。