よみがえる幕末明治の人々(常設展:2005年7月〜10月)

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森 鴎外(もり おうがい)1862-1922

 明治を代表する文豪。本名は林太郎。石見国津和野藩主亀井家の典医の家に生まれる。12歳で第一大学医学校(現在の東京大学医学部)に入学。20歳で卒業し,陸軍軍医となった。衛生学研究のため,官費でドイツに留学。陸軍軍医としては,最高位である陸軍軍医総監と医務局長の地位まで上り詰めた。
 ドイツから帰国後,留学時代の恋愛体験を下敷きにした小説『舞姫』を発表。文学・美学・医学評論,演劇改良運動,アンデルセンの『即興詩人』やゲーテの『ファウスト』の翻訳など,幅広い文学活動を行った。やがて,乃木希典の殉死を契機に『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』などの歴史小説を手がけ,晩年は資料に忠実な史伝『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』などの名作を遺した。
 明治25年(1892) , 30歳のとき,文京区千駄木に居を定める。2階の書斎から東京湾が遥かに見えたので,観潮楼と名づけ,同地で『青年』『雁』『高瀬舟』など数々の名作を著した。現在は文京区立鴎外記念本郷図書館となっている。
 晩年は,帝室博物館(現在の東京国立博物館)総長と宮内庁図書頭を兼任し,同職のまま,死去。60歳。なお,森鴎外の蔵書は,ご遺族より,東京大学附属図書館に寄贈され,今日に至っている。

傷寒論文字攷 傷寒論文字攷(巻末) <展示資料>
伊藤鳳山『傷寒論文字攷』(V11:105)
漢方医の聖典とされる古医書『傷寒論』の注釈書。急性の熱病の治療法を記す。伊藤鳳山(1806-1870)は,山形県出身の儒学者。冒頭に「森文庫」の印があり,巻末に「明治十年五月十二日贖之 東京大學醫學部 森林太郎」という書き込みがある。明治10年(1877)は,東京医学校と東京開成学校が合併して東京大学医学部が成立し,鴎外(15歳)が本科生になった年である。
經國美談 矢野龍渓著『經國美談』前編,第1-8回(E91:5)
明治初期の政治小説。古代ギリシアを舞台に民主国家セーベの独立を勝ち取ろうとする志士の活躍に仮託して,現実の日本における政治理想を訴えたもの。前編は明治16年(1883)3月,後編は翌17年(1884)2月,報知社刊。蔵書印は「医学士森林太郎図書之記」。鴎外は明治14年(1881)に東大医学部を卒業し,医学士の学位を得た。
Shakespeare Max Koch『Shakespeares Dramatische Werke』(シェークスピア作品集)第3巻「タイタス・アンドロニカス,ロミオとジュリエット,ベニスの商人」(E200:2877)
シェークスピア(1564-1616)作品集。刊年不明。鴎外は明治17年(1884)からドイツ留学に赴き,数千冊に及ぶドイツ語の図書を購入する。蔵書印は「Dr. med. RINTARO MORI, Tokyo」で「医学士森林太郎」の意。
ひとり寝 幸田露伴著『ひとり寝』(E25:70)
明治28年(1896)刊。幸田露伴(1867-1947)は,擬古典派に属する小説家。尾崎紅葉,坪内逍遥,森鴎外と並んで「紅露逍鴎」とも称される。蔵書印は,少年時代に使っていた「森文庫」の印を作り直したもの。
聴松堂語鏡 明・閔度『聴松堂語鏡』(A90:420)
寛文2年(1662)刊。右上方に正方形の蔵書印が2つあり,上が「鴎外漁史」,下が「源高湛」(みなもと たかしづ/たかやす=鴎外の別名)。欄外には「觀潮閣文庫」。千駄木の住居(観潮楼)は観潮閣とも呼ばれた。その下は「森氏蔵書」で,全て鴎外の蔵書印である。他に幕末の毒舌家「大谷木純堂(大八木醇堂,1938-1897)」の蔵書印も見られる。
綾瀬先生遺文 亀田鶯谷編『綾瀬先生遺文』(E44:350)
亀田綾瀬(かめだりょうらい,江戸後期の儒者)の遺文集。安政元年(1854)刊。「明治十二年一月購獲之,森林太郎」と墨書されている。綴じ目にほとんど隠れている蔵書印「参木之舎」は,"森"を三本の木になぞらえた,鴎外の戯号。
夏木立 山田美妙『夏木立』(E25:79)
明治21年(1888)刊。山田美妙は明治初期の小説家・詩人。「です・ます」調の言文一致体を創出した。逆向きに押された欧文の蔵書印は「RINTATO MORI, Dr.med. Tokyo」(医学博士森林太郎の意)。
戰時衛生軌典 石黒忠悳編『戰時衛生軌典』(W30:52)
石黒忠悳(ただのり)は,陸軍軍医総監,東京大学医学部総理心得を勤めた人物。軍医制度の創設に尽力し,陸軍軍医学校では,鴎外の上司でもあった。「医学士森林太郎図書之記」は,鴎外の大学卒業直後から使われている。
獨和兵語辭書 『獨和兵語辭書=Deutsch-Japanishes Militar-Worterbuch』(W200:46)
明治32年(1899)刊。明治21年にドイツから帰国した鴎外は,10年を経て,明治31年から,精力的な書籍の蒐集を開始する。縦長の「森氏蔵書」印は,この時期に作られたもので,鴎外文庫での押印例は最多の322例にのぼる。
大乗起信論義記 法蔵撰『大乗起信論義記』(C40:1077)
元禄12年(1699)刊。巻首のすぐ下の蔵書印は「鴎外漁史」。「鴎外漁史」の号は,ドイツ留学中から当人が用いていたとも,『舞姫』を発表するにあたり,友人斉藤勝寿の雅号「鴎外漁史」を借用して「鴎外」と名乗ったとも言われるが,この印は,明治32〜35年の小倉赴任中に作られたものと推定されている。
櫻老詩艸 加藤櫻老『櫻老詩艸』(写本)(E45:1865)
加藤桜老(おうろう)は,常陸笠間藩の儒学者。鴎外は自筆の扉を付け,「大正十年(1921)辛酉三月十三日閲於市獲之」と記す。晩年の鴎外は「森高湛」または「源高湛」「源湛」と署名することが多くなる。本書は鴎外文庫中,最も遅い日付を持つ署名である。印は「臣林太郎印」。大正4年,大正天皇の即位式に詩を献じたときに作らせたもの。



渋江 抽斎(しぶえ ちゅうさい)1805-1858

 医学者,考証学者。幼名は恒吉,江戸の神田弁慶橋生まれ。家は代々弘前藩の定府(江戸定住の)医官である。医学を伊沢蘭軒,儒学を狩谷 斎,市野迷庵に学び,弘化元年(1844),江戸幕府の医学校「躋寿館(せいじゅかん)」の講師,嘉永2年(1849)には公儀御目見の身分となったが,コレラに罹って没した。享年54歳。森鴎外は,武鑑(江戸幕府の職員録)を集めていくうちに,渋江の蔵書印が捺されていることが多いことに気づき,帝国図書館の『江戸鑑図目録』を見るに及んで,渋江抽斎なることを知った。晩年,彼の生涯とその周辺を克明に調べ上げ,史伝小説の傑作と言われる『渋江抽斎』を書いた。

李氏易傳 <展示資料>
『李氏易傳』第1秩(南葵文庫 A30:242)
「李氏易傳序」の下に,蔵書印「弘前醫官澁江氏蔵書記」がある。

<参考情報>
国立国会図書館の電子展示会蔵書印の世界


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