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二 東国からみた万葉集

万葉集巻14・3384“葛飾の真間の手児名を まことかも我に寄すとふ真間の手児名を”(巻14・3384 東歌 下総国・相聞)

7.万葉集

洛陽 [京都] 安田十兵衛 寛永20 [1643] 刊 【書庫E31:1002(南葵文庫)】

 巻14には遠江・信濃国以東の歌(東歌・あずまうた)230首を収め、当時の東国における方言や生活等をうかがう貴重な資料となっている。「真間の手児名」は、山部赤人(巻3・431-433)や高橋虫麻呂(巻9・1807-1808)も歌の題材とした伝承に登場する悲劇の美女。
展示本は江戸時代に流布本として用いられたもので、紀州徳川家の南葵文庫旧蔵書。


成田参詣記

8.成田参詣記(成田名所図絵)

安政 5 [1858] [刊] 新勝精舎蔵版 【書庫J30:686(南葵文庫)】

 万葉集に詠まれた場所の中には、後に「葛飾の真間」などのように歌枕・名所となった所もある。展示したのは、幕末の江戸〜成田山の名所案内に載せられた挿絵「手児奈 真間の入江に身を投る図」。図中、万葉集から高橋虫麻呂の長歌を引く(巻9・1807)。


雨月物語雨月物語








“いにしへの真間の手児名を かくばかり恋ひてしあらん真間のてごなを”

9.雨月物語 上田秋成編輯

  大坂 河内屋源七郎 [ほか] 明和5 [1768] 自序 刊本 文栄堂蔵板【貴重書A00:霞亭:294(霞亭文庫)】

 今年没後200年を迎えた上田秋成の怪異小説(読本)。秋成は国学を学び、万葉集などを研究していたこともあり、巻2「浅茅が宿」では「真間の手児名」伝承がモチーフのひとつとして使われている。


迩非麻那微(にひまなび)
“萬葉集の哥は凡丈夫(ますらを)の手ふり也...古今哥集の哥は専ら手弱女(たはやめ)のすかた也”

10.迩非麻那微(にひまなび)

坂陽 [大阪] 播磨屋嘉助 [ほか] 寛政12 [1800] 刊本 五十槻園蔵板【書庫E31:894(南葵文庫)】

 賀茂真淵の著した和歌中心の国学入門書で、万葉集のますらおぶりに対し、古今集はたおやめぶりとの評を載せる。鎌倉武士には「ますらおぶり」が好まれたものか、将軍家では万葉集が読まれ、関東では実証的な研究も行われていた。


新刊吾妻鏡
“京極侍従三位<定家卿>、相傳ノ私本萬葉集一部ヲ将軍家ニ献ゼラル。...御賞翫他無シ。重寶何物カ之ニ過ギン乎ノ由、仰セ有リト云々。”

11.新刊吾妻鏡

寛永3 [1626] 刊 菅聊卜刊正 【書庫G24:653(南葵文庫)】

 鎌倉幕府が自ら編纂した歴史書『吾妻鏡』の建暦3年(1213)11月23日条。歌の師でもあった藤原定家から万葉集を送られた3代将軍源実朝の感激ぶりを伝える。実朝が万葉集を学び、万葉調の歌を詠んだことはよく知られている。


探幽斎図百人一首(源実朝) 探幽斎図百人一首(藤原定家)









12.探幽斎図百人一首

写本 【書庫F30:553(南葵文庫)】

 書名に江戸幕府の御用絵師狩野探幽の名を冠する百人一首絵から源実朝と藤原定家の像。


“仰の如く近來和歌は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば萬葉以來實朝以來一向に振ひ不申候。”

13.子規全集 正岡子規著 第5巻

東京 アルス 1924 【書庫E22:5】

 後世、万葉集や源実朝に高い評価を与えた者に、江戸時代の賀茂真淵、明治時代の正岡子規等がいる。ここに展示したのは、短歌革新をめざしていた子規が明治31年(1898)2月12日の新聞『日本』に発表した「歌よみに与ふる書」。


万葉集奥書

14.万葉集

洛陽 [京都] 安田十兵衛 寛永20 [1643] 刊 【書庫E31:1002(南葵文庫)】

鎌倉〜南北朝時代の関東には、武蔵国比企郡で『万葉集註釈』を著した僧仙覚や『詞林采葉抄』などを著した相模国遊行寺の僧由阿等の万葉研究者がいた。中でも仙覚は4代将軍藤原頼経の命を受け、鎌倉で本文の校訂と全ての歌への訓の付与を行い、現在仙覚本・新点本と呼ばれるものの祖本を作成するなど、画期的な成果を残した。展示箇所は、巻1と巻20にある仙覚関連の奥書部分。


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