子供の頃みた図鑑のなかで、ムラサキイガイという貝に出会った。多くの美しい貝の間に置かれた黒くて地味な貝の名前は、なぜだかはっきり頭に残っていた。
30代になって、岩手県の海辺にあった研究所で、この貝を研究することになった。参考書を探したが、日本語の専門書はみつけられず、「The Mussel Mytilus: Ecology, Physiology, Genetics and Culture」という英語の本にたどりついた。洋書を簡単に入手できる状況ではなかったから、必要な章だけ国会図書館からコピーを取り寄せた。
第一章を読んだとたん、困ったことになった。この貝には外見上そっくりな近縁種がいて、北日本はその分布の境界、あるいは両種が雑種化している地域とされていた。種がわからなくては研究しにくい。しかし、その本を参考に研究を進めて、研究所の前の海から採った実験材料が正真正銘のムラサキイガイだと判定した。
数年後、私は海洋研究所(現・大気海洋研究所)の助手になった。かつて時間とお金をかけてコピーを取り寄せた本は、学内で簡単に手に取って読めるようになった。その本の所在が、理学系研究科の「地球惑星科学専攻図書室」だったことも驚きで、ムラサキイガイが「意外な」分野で研究されていることを、図書館を通じて知ることになった。
研究が進んで、ある遺伝子の配列の違いでムラサキイガイと近縁種が正確に見分けられることに気がついた。そして、その方法を使って、本州以南の防波堤に貼りついているのは、ほぼすべてムラサキイガイであることも検証できた。彼らは大正時代以降に日本に入ってきた外来種だ。そんな話を寄稿した『黒装束の侵入者』や『海の生き物100不思議』という日本語の本たちも、嬉しいことに、蔵書1000万冊の一員になっている。