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私が選ぶ1/1000万冊

一千万分の一の奇跡?

小林 武彦

図書行政商議会委員
定量生命科学研究所附属生命動態研究センター 教授


 2015年に静岡県の三島市の研究所から東大に移り早8年が過ぎた。それまで東大とは縁もゆかりもない人生を送っていたが、運命とは不思議なものである。

 九州大学の大学院を修了して以来、基礎生物学研究所(岡崎市)、米国ロシュ分子生物学研究所(製薬企業、ニュージャージー州)、米国国立衛生研究所(メリーランド州)、国立遺伝学研究所(三島市)と20年あまり大学にすら所属したことがない。そして50歳を過ぎて縁あって日本の「ザ・大学」である東大に移動になった。久しぶりの大学で新鮮に感じたことがたくさんあった。中でも本郷キャンパスの総合図書館が私の大のお気に入りとなった。これまで所属した研究所には小さな書庫的な図書室はあったが、「図書館」という立派な建物は大学院を受験するときによく籠って勉強していた九大の図書館以来である。

 最初に足を踏み入れた時の感動は大きかった。中央階段に敷かれた赤い絨毯は眩しく、上から「新閣僚」が降りてきそうな雰囲気がある。無駄に広いという捉え方もできるが、知の可能性の象徴である図書館には、この余裕こそがふさわしい。そこに「無駄」を当てはめたら、ほとんどの本は滅多に開かれない図書館など成立し得ない。

 私の図書館内での生息地は正面玄関入って左奥の「記念室」である。自分のオフィス(実験室)の空気に疲れると、三四郎池を一周してから、記念室でよく論文を読んだり執筆をしたりした。机・床・壁の木の光沢と匂い、高い天井、そして何よりもあの「鹿の頭の剥製」がたまらなく好きだ。解説版には、「英国王ジョージ5世(在位 1910-1936)が、ウィンザーにある猟場の鹿を剥製にして、1913(大正2)年に本学に寄贈されたもの」とある。これは大切にしないと外交問題である。ちなみにジョージ5世は大英帝国末期から第一次世界大戦と動乱の世を乗り切った「公正な立憲君主」として人気があったそうである。私はこの鹿の正面に陣取り、時々目を合わせながら仕事をした。鹿は全く無視したようにいつも真正面を見ている。

 図書館の改装が始まってから少し足が遠のいた。ご無沙汰していたが、数週間前にかの鹿と再会した。綺麗になった図書館でなんとなく、居心地が悪そうにも見えた。まあそのうち彼も私も慣れるのだろう。私にとってはこの「ご無沙汰期間中」に1つの事件が起こっていた。それは私の著書が図書館の蔵書に加えられたことである(講談社現代新書「生物はなぜ死ぬのか」)。幸いにもいつもどなたかに読んでいただいているのであろう、書棚に置いてあるのを見たことはないが、管理記録上は駒場、柏、本郷と全ての図書館にある。折しも2023年東大図書館の蔵書数が1,000万冊を超えたとのこと。私の著書が1,000万冊目かどうかはわからないが、自分の本が置いてあると思うと、図書館がそれまでと違った「より身近なもの」に見えるから不思議である。かの鹿も、優しく微笑みかけてくれているように見えた。

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