日本の大学は、日本語をそれで学問のできる〈国語〉にした。その〈国語〉で言語化された叡智が、日本語の図書という形で本学の図書館にもあまた集められている。自分が知っている以上のことを知ろうとする〈叡智を求める人〉は、ここに既に収められ、あるいはこれから加えられてゆく膨大な〈国語〉の図書の中に、はたしてこれまでと変わることなく〈読み継がれる〉言葉を見出して行くのだろうか。
『日本語が亡びるとき』の中で水村美苗が言うように、〈叡智を求める人〉が〈普遍語〉たる英語を読むことを優先して〈国語〉を読まなくなれば、〈叡智を求める人〉は、読んでほしい読者に届かない〈国語〉で書く意欲を失う。こうして読む側の期待の低下と、書く側の意欲の低下との間で負のスパイラルが生じ、この悪循環はついには〈読み継がれる言葉〉としての価値を〈国語〉から奪う。
図書館の蔵書が1000万冊に到達したことはご同慶の至りだが、言葉を読み継ぐ文化の行方が気がかりでならない。