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「奇妙な仕事」の奇妙な地図

苅部 直

附属図書館副館長
大学院法学政治学研究科 教授


 大江健三郎による初期の短篇小説「奇妙な仕事」(『東京大学新聞』1957年5月27日、五月祭記念号)を読んだのは、たしか法学部の学生だったころである。この作家が大学4年生のときに発表した作品だから、ちょうど同じくらいの年齢のときに読んだことになるだろう。

 総合図書館には、この小説を冒頭に収めた『大江健三郎全作品』(第Ⅰ期)の第1巻(新潮社、1966年)がある。ただし刊行時に図書館が購入したものではなく、蔵書になっているのは1979(昭和54)年の第18刷。学生からのリクエストで配架されたのかもしれない。裏見返しに貼ってある返却期限の記録を見ると、1983(昭和58)年から2011(平成23)年まで、19人が借りだしている。現代日本文学の本の借り出しの回数として、どれほど多い方なのかはわからないが、そのうちの一人は自分であるような気がする。

 男性の大学生である語り手が、通っている大学の「附属病院」で飼われていた150匹の犬を殺処分するというアルバイトに従事する話である。戦後民主主義からの「逆コース」が進みつつある社会の閉塞した空気。「友人たちの学生運動」に進んで乗ることのできない、若者の屈託。近代的な建物が増えつつある大学キャンパスの片隅に潜む、旧来の暗く湿った世界。一篇の最後で、夕暮れる空に向かい、多数の犬がいっせいに吠えはじめる場面の鮮烈さ。読んだあと強い印象がのこる諸点である。

 作品のなかに「時計台」が登場することからわかるように、また作者自身も随筆「徒弟修業中の作家」(『朝日新聞』1958年2月2日初出、『厳粛な綱渡り』に再録)で明らかにしているように、舞台の原型になっているのは、大江自身が通学した本郷キャンパスである。作品はこう始まっていた。「附属病院の前の広い舗道を時計台へ向って歩いて行くと急に視界の展ける十字路で、若い街路樹のしなやかな梢の連りの向うに建築中の建物の鉄骨がぎしぎし空に突きたっているあたりから数知れない犬の吠え声が聞えて来た」(上記『全作品』第1巻、7頁)。

 初めて読んだとき、実はこの記述にとまどったことを憶えている。「附属病院の前の広い舗道」は、たしかにいまもバスが通っている広い道のことだろう。「舗道」と言っても、現在では第二食堂から池の端門へむかう坂道にしか残っていない戦前以来の石畳が、おそらく当時はこの通りにも敷かれていたのではないだろうか。だがこのバス通りを、語り手がどういう風に歩いているのか見当がつかず、自分が方向を見失ったような気分になっていた。

 考えてみればこれは、多くの東大生が正門か赤門を通って入構するという思い込みによるもので、語り手は龍岡門から構内に入って大講堂方面へ向かっているのである。「建築中の建物」は、附属病院のいまの中央診療棟のあたりで工事を行っていたものだろう。「犬置場」は、「附属病院」の「アーケード」の奧にあるという設定になっている。いまでは文学部の学生が龍岡門をふだん使う例は、少ないように思われる。だが1957年の当時、大江健三郎は春日通りを走る路面電車に乗って通学していたか、あるいは近くの下宿に住んでいたために、龍岡門から入構していたのではないだろうか。

 殺処分のアルバイトは、原型となった事実があったわけではなく、附属病院で実験用に飼われていた犬たちの吠え声を聞いた経験をもとにして、大江が創りあげたフィクションである。だが「奇妙な仕事」に盛りこまれた大学の描写は、1957年当時のキャンパスの風景と、そこに漂う空気を鮮やかに伝えている。作品が書かれてから70年近くたったいま、これを読み返すと、大学のキャンパスと建物、そして図書館の蔵書がその奥底にたたえている、歴史の重層的な厚みが身に迫ってくるように感じられるのである。

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