田中芳男略年譜


   
     
             >   
   
 
       
年号(和暦) 事柄
1838年(天保9)8月9日、飯田(現在の飯田市)の久々利陣屋に父田中如水、母津眞子の三男として生まれる。
1856年(安政3)尾張の名古屋に出て、伊藤圭介の門に入る。本草学の勉強に打ち込む。18才。
1861年(文久1)伊藤圭介に従って江戸に出る。
1862年(文久2)幕府の蕃書調所*に出仕。また、伊藤圭介の伴をして、横浜にシーボルトを訪ねる。
1865年(慶応1)物産所(開成所*に設置されたもの)にて舶来植物の調査栽培を行う。リンゴの接木、白菜の栽培を行う。
1866年(慶応2)パリ万国博覧会へ出張を命ぜられる。11月、パリに向けて横浜を出港。
1868年(慶応4/明治1)維新政府より、開成所御用掛を命ぜられる。「明治月刊」を発行する。
1869年(明治2)昌平校*は大学校*、開成学校*は大学南校*と改められる。
1870年(明治3)大学出仕を命ぜられ、太政官委任。物産局を起こすべく命を受け、設計を行い、新築する。殖産興業の発展を計るため、博覧会開設の必要性を主唱。
1871年(明治4)富士山へ植物採取のため登山。文部省設置される。
1872年(明治5)オーストリヤのウィーンで開催される博覧会の御用掛を命ぜられる。
『泰西訓蒙図解』(英仏独和4ケ国語)を編纂、文部省より出版。
1873年(明治6)ウィーン万国博覧会へ一級事務官として派遣される。金鯱等展示する。
1874年(明治7)農事修学場・駒場農学校(東大農学部の前身)設置案を起草。
ドイツ人ブロムメ氏の原著の哺乳動物部を邦訳して、『動物学』二冊を出版。
1875年(明治8)上野を整備し、動物園及び博物館を建設するため、佐野常民等と調査する。
1877年(明治10)第一回内国勧業博覧会開催。内国勧業博覧会審査官を命ぜられる。
1880年(明治13)第二回内国勧業博覧会事務官に命ぜられる。
1881年(明治14)第二回内国勧業博覧会開催。大日本農会創立、幹事となる。この年に農商務省が新設、田中は農商務省大書記官・農務局長兼博物局事務取扱を命ぜられる。
1882年(明治15)大日本山林会創立、幹事となる。上野公園に博物館竣工。博物館長となる。
1883年(明治16)農商務省を退職。
1885年(明治18)大日本農会幹事長に就任。東京学士院会員に選ばれる。
1889年(明治22)第三回内国勧業博覧会審査官に任ぜられる。
1890年(明治23)帝国議会発布に依り、貴族院議員に勅撰せられる。神宮外苑会頭より伊勢神宮外苑に農業博物館建設を委任される。
1893年(明治26)孫美津男生まれる。
1894年(明治27)大日本山林会幹事長に就任。
1896年(明治29)大日本水産会幹事長に就任。
1897年(明治30)従三位を賜る。
1906年(明治39)勲一等瑞宝章を賜る。帝国学士院会員となる。
1912年(明治45)田中芳男七六展(5月4日〜5月8日まで)。
1914年(大正3)爵位男爵を授かる
1916年(大正5)6月22日、東京本郷区金助町にて死亡。東京谷中の墓地(谷中霊園乙八号10側)に眠る。
1931年(昭和6)田中芳男旧蔵資料約6千冊、東大へ寄贈。
1981年(昭和56)故郷飯田に顕彰碑建立される。

展示会入口へ戻る