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1.植物

 我が国では早くから中国の本草研究の成果を取り入れ、本草学者により薬となる植物等の研究(本草学)が行われてきた。
 江戸時代には本草学の知識をもとに救荒植物の研究や園芸にまでその守備範囲を広め、幕末を迎える頃には近代植物学へと発展する基礎が築かれた。  本コーナーでは、江戸時代の本草研究から近代植物学や生薬学へと変化していく流れの中で特徴的な資料をとりあげ、紹介する。各資料の記載が、本草・園芸・救荒それぞれの視点の違いに基づいて書かれている点に注目していただきたい。

【本草研究】
 江戸時代の本草研究は、中国の本草研究、特に李時珍の『本草綱目』の影響を大きく受け、植物を薬効という観点からとらえ、研究するものであった。研究対象は植物にとどまらず鉱物等様々なものが含まれているため、植物そのものを研究するのではなく、『本草綱目』等に記載された植物と日本の植物を同定し、その薬効について研究することが中心となっていた。

【園芸】
 江戸時代に入り、社会の安定と繁栄を受け、17世紀後半より園芸は全盛期を迎え、独自の発展を遂げていく。植物を「見る」対象として観察し、その細かな相違から新しい品種を見出すことに心血が注がれた。水野元勝『花壇綱目』、染井の植木屋伊藤伊兵衛親子による『錦繍枕』(後に『長生花林抄』と改題)、『花壇地錦抄』『増補地錦抄』等の『地錦抄』類、松岡恕庵(怡顔斎)『梅品』『桜品』など多くの園芸書がこの時期に刊行され、朝顔や桜、梅、皐月、椿などの品種が紹介・栽培された。さらに18世紀後半より斑入り植物や矮小化された植物など異種・奇品と呼ばれる植物が珍重され、今回の展示で紹介した『草木奇品家雅見』のような奇品を集めた図譜等も刊行された。

【救荒】
 江戸時代、各地で冷害や獣害等により飢饉が度々起こり、庶民生活は危機に瀕した。特に享保・天明・天保の飢饉は江戸の三大飢饉と言われ、江戸時代の記録や日記に当時の過酷な状況が記録されている。各藩では庶民を飢饉から救うため救済策を施したが、民間でも飢饉時に利用できる植物の研究が行われ、多くの救荒書が刊行された。これは、「飢饉」に備えるためのサバイバル・マニュアルとも言えるもので野生植物の中から食用になる植物を見出し、その見分け方や調理法等を記載したものである。本草学で蓄積された知識をもとに植物に「救荒植物」という新たな視点が加えられた。


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クリックで拡大・江西本草綱目 1-1 江西本草綱目 52巻(こうせい ほんぞうこうもく) 李時珍著 明 刊本 30冊(欠巻 第1上 第3上 第4下至 第6 第12第13 第26 第50) 【書庫T81:9】[青洲文庫]

 明末の医師李時珍(1518-1593)はそれまでの本草書を集大成し、白井光太郎(1863-1932・東京帝国大学農科大学教授)によれば「本草学上空前絶後ノ大著ト称セラル」本書を著した。初版は1596年に刊行され、第二版は1603年に刊行された。出版地に因んで、この第二版を江西本という(展示資料には題簽に「江西」とあるが、附図の配置などから、江西本そのものではなく、江西本をベースにした石渠閣本系統のものと考えられる)。日本には早くも慶長12年(1607)に渡来し、林羅山によって徳川家康に献本された。その後多くの和刻本が刊行され、日本の本草学は本書の影響を大きく受けながら独自の発展を遂げることとなった(2-2参照)。

クリックで拡大・菩多尼訶経 1-2 菩多尼訶経(ぼたにかきょう) 宇田川榕菴著 昭和40[1965] 復刻版 1冊 【書庫T83:412】

 『本草綱目』の影響下にあった江戸の本草学は、やがて小野蘭山の『本草綱目啓蒙』によって大成され、その後の日本の植物学、博物学、民俗学等の下地を作った(2-8参照)。一方、江戸時代の後期に至ると、本草学の伝統と交錯しつつも、蘭学者の中から西洋の植物学を紹介する著作が現れ始める。日本で初めて西洋の植物学を概説した本書は、経本のスタイルをとった異色の書である。初版は文政5年(1822)に刊行された。「菩多尼訶」は植物学を意味するラテン語botanicaに由来している。著者宇田川榕菴(1798-1846)は蘭学者であり、25歳の若さで本書を刊行した。

クリックで拡大・植学啓原 1-3 植学啓原 3巻附図1巻(しょくがくけいげん) 宇田川榕菴著 天保8[1837] 刊本 標題紙に、「風雲堂藏 青藜閣」とある。1冊 【書庫T83:5】

 『菩多尼訶経』から十余年を経て、宇田川榕菴は本書において西洋の植物学をより体系的に紹介した。明治初年にあってなお、植物学の入門書として実用に耐えるものだったという。本書の初版(菩薩楼蔵版)は天保6年(1835)発行であるが、展示資料は、標題紙の記述から天保8年刊の再版の後刷り本と考えられる。

クリックで拡大・泰西本草名疏1 クリックで拡大・泰西本草名疏2 1-4 泰西本草名疏 2巻附録1巻(たいせいほんぞうめいそ) 伊藤圭介著 文政12[1829] 刊本 3冊 【書庫 T83:59】

 リンネの分類体系により植物を記載・解説した日本で初めての書である。著者の伊藤圭介は名古屋の蘭医の家に生まれた。シーボルトと親交を結び、シーボルトからチュンベリー(1775年に来日したスウェーデンの植物学者)著『フロラ・ヤポニカ(日本植物誌)』を贈られた(原本が国立国会図書館の伊藤文庫に伝わっている)。この本を訳述し、和名を付したのが『泰西本草名疏』である。本書にはシーボルトから贈られたチュンベリーの肖像画が載せられている。なお、シーボルト事件に対する配慮から、本文中にシーボルトの名は伏せられ、代わりに稚膽(わかい)八郎の偽名を載せ、念入りにも「稚膽八郎ハ伊豆ノ産今死スト云」と注記がされている。事件が落ち着いた後の版ではこの注記はなくなり、「稚膽八郎」は「西醫椎氏」と改められている。

クリックで拡大・新訂草木図説草部 1-5 新訂草木図説草部 20巻(しんていそうもくずせつそうぶ)飯沼慾斎著 明治7[1874] 刊本 20冊 【書庫T83:131】 [田中芳男文庫]

 日本で初めての、リンネ分類に依った近代的植物図鑑。著者の飯沼慾斎(1782-1865)は、もともと蘭医だったが、50歳にして引退し、大垣(岐阜県)近郊に別荘を建てて本書の作成に専念した。慾斎は各種洋書を参照しつつも、実証的態度で研究に従事し、時には名古屋の職人に特別に作らせたという顕微鏡を用いて植物の構造を観察した。「草部」の初版は1856年から1862年にかけて刊行されたが、刊行が終わったとき、慾斎は実に齢81に達していた。その後「木部」の刊行を予定していたが、慾斎没後長く未刊のままとなり、ようやく1977年に刊行されている。展示資料は、初版に田中芳男と小野職愨(もとよし)が校訂を加えたもので、各図に記された学名、和名のローマ字綴りはその際に加えられたものである。

クリックで拡大・経方真図 1-6 経方真図(けいほうしんず)服部雪斎画 明治14[1881]跋 1冊 【貴重書A00:6521】 [鶚軒文庫]

 服部雪斎(1807-?)自筆の薬用植物画集である。服部雪斎は、江戸時代後期から明治20年ごろにかけて、本草学、博物学に関する図譜の作成に携わり、明治に入ってからは、文部省博物局に出仕して博物画の作成に従事した。展示資料は、伊藤圭介の弟子で、明治の博物館行政に大きな役割を果たした田中芳男の依頼により作成されたもので、雪斎晩年の代表的な作品とされる。

クリックで拡大・御薬苑草木写占稿 1-7 御薬苑草木写占稿(おやくえんそうもくしゃせんこう) 坂本浩雪画 文政12-天保元[1829-1830] 1冊 【貴重書A00:4603】 [南葵文庫]

No Image 1-8 草木写占底稿(そうもくしゃせんていこう) 坂本浩雪画 文政12-天保元[1829-1830] 1冊 【貴重書 A00:4604】 [南葵文庫]

 坂本浩雪(1800-1853)は医師・本草家であり、また写生画をよくした。ほかに、菌類56種を収録して1835年に刊行した『菌譜』や、桜の写生画である『桜譜』(1842)等の作品が残されている。展示資料はともに浩雪自筆の写生図である。

クリックで拡大・本草図譜1

クリックで拡大・本草図譜2    クリックで拡大・本草図譜3

クリックで拡大・本草図譜4    クリックで拡大・本草図譜5

クリックで拡大・本草図譜6    クリックで拡大・本草図譜7
1-9 本草図譜(ほんぞうずふ) 岩崎灌園著 写本 80冊 【貴重書A00:5911】 [田中芳男文庫]

 岩崎灌園(1786-1842)が写生した2,000種もの植物図に解説を添えた書で、わが国で最初の本格的な植物図鑑と言われている。植物の配列の順は、李時珍の『本草綱目』と同じになっており、『本草綱目』の図化と言えるものである。
 『本草綱目』のうち日本の植物でないものは、ウェインマン(Johann W. Weinmann)の『花譜』(Phytanthoza iconographia)を模写している。ウェインマンが描かせた段階で、他の図版の転写であったり標本からであった図を、さらに自己流で省略化しているため、植物図としての正確さには欠ける部分がある。
 『本草図譜』は文政11年(1828)に完成した自筆本96巻を、自費予約出版という形で刊行。文政13年(1830)に巻5-10を木版手彩で出版したが、その後は画工に模写させて配本を続けた。天保13年(1842)に灌園が死去し、その後は息子信正と門人小山広孝が継続し、弘化元年(1844)に配本を終えた。
 所蔵本は80冊、蜂須賀家旧蔵から田中芳男の蔵書となったものが巻5-70、66冊ある。巻71より巻数が巻39-50に改まっており、この14冊は別の筆写と思われる。

クリックで拡大・草花絵前集 1-10 草花絵前集(くさばなえぜんしゅう) 伊藤伊兵衛三之丞画、伊藤伊兵衛政武注 江戸須原屋茂兵衛 元禄12[1699]刊本 3冊 印記:「田安府芸堂印」「旧和歌山徳川氏蔵」 【書庫T83:83】 [南葵文庫]

 染井の植木屋三代目伊藤伊兵衛(三之丞)が描いた図に四代目政武が注を加えた園芸書。園芸植物120品目をとりあげ、それぞれの植物の特徴をとらえた詳細な図に名前、花の形、色、開花時期等の説明が記述される。当初「後集」を刊行する予定で題名を「前集」としているが、刊行されていない。そのため後印本では題箋の書名に「前集」の文字は使われず「全集」となっている。福寿草が文献上に現れるのはこの資料が初出との研究がある。

No Image 1-11 地錦抄(じきんしょう)

 江戸染井(現在の豊島区駒込付近)の種樹家伊藤伊兵衛親子(三代、四代)によって書かれた園芸書。園芸植物の種類や栽培方法を記述する。総合園芸書として以降の園芸界に影響を与えた。伊藤家は代々伊兵衛を名乗り、江戸一番の植木屋と言われた。

No Image 1-11-1 花壇地錦抄(かだんじきんしょう) 伊藤伊兵衛(三代)三之丞著 出版事項不明刊本(小本) 6冊 印記:「平尾図書」 【書庫T83:62】

 花壇に植える草花・樹木の種類や栽培法、観賞法について解説したもの。最初に出版されたのは、元禄7年(1694)。

No Image 1-11-2 増補地錦抄(ぞうほじきんしょう) 伊藤伊兵衛(四代)政武著・画 江戸 須原屋茂兵衛 宝永7[1710] 刊本(小本) 8冊 【書庫XA70:226】 [鶚軒文庫]

 『花壇地錦抄』を増補したもの。伊藤政武自身による図がつく。

No Image 1-11-3 広益地錦抄(こうえきじきんしょう) 伊藤伊兵衛(四代)政武著・画 武江 須原屋茂兵衛 享保4[1719] 刊本(小本) 8冊 【書庫XA70:225】 [鶚軒文庫]



クリックで拡大・地錦抄附録 1-11-4 地錦抄附録(じきんしょうふろく) 伊藤伊兵衛(四代)政武著・画 出版事項不明刊本(小本) 4冊 最初に出版されたのは、享保18[1733]  【書庫XA70:117】 [田中芳男文庫]



クリックで拡大・草木奇品家雅見 1-12 草木奇品家雅見(そうもくきひんかがみ) 種樹家金太撰 文政10[1827] 刊本 3冊 【貴重書A00:4507】 [青洲文庫]

 斑入りや反り返った葉、枝垂れなど植物の奇品502品を集めた図録。取り上げられている奇品のうち、斑入りのものが最も多い。各奇品には名称と来歴、作出者の略歴を付す。図は、大岡雲峰、関根雲亭、石川碩峯らにより描かれる。撰者は、江戸青山の植木屋増田繁亭で、通称金太または金太郎という。同じく斑入り植物を集めた水野忠暁の『草木錦葉集』(文政12年(1829)刊)とともに奇品図録として有名。

クリックで拡大・民間備荒録 1-13 民間備荒録(みんかんびこうろく) 建部清庵 東都 申椒堂 明和8[1771]  刊本 2冊 【書庫XA20:1226】

 一関藩の藩医建部清庵(1712-1782)が奥羽地方を襲った宝暦の飢饉の惨状を目の当たりにし、飢饉への対策として宝暦5年(1755)に著した救荒書である。最初一関藩に献上され、藩では写本を作成し、村々に配ったと言われる。最初に著作が書かれてから16年後の明和8年になって刊行されたが、日本人の手になる本格的救荒書として以降の救荒書に大きな影響を与えた。内容は、食用とする植物の選別・解毒・調理方法や飢餓で倒れた人の救助方法などが具体的に記述されている。著者の建部清庵は、杉田玄白との間で交わされた往復書簡が後に『和蘭医事問答』として刊行されたことで知られている。杉田玄白との交流を通じ、大槻玄沢、杉田伯玄(清庵の五男で後に杉田玄白の養子となった。)など門下から蘭学者を輩出した。

クリックで拡大・備荒草木図 1-14 備荒草木図(びこうそうもくず) 建部清庵 天真楼蔵版 天保4[1833]  刊本 2冊 【書庫T81:66】 [田中芳男文庫]

 明和8年に『民間備荒録』と対になる書物として建部清庵によって草稿が書かれたが、果たせないまま世を去ったため清庵の死後、杉田玄白の次男杉田立卿により天保4年(1833)に刊行された。(明和8年刊行の『民間備荒録』の巻末には、「『備荒録草木図』一冊 未刻」と予告されている。)『民間備荒録』が理論的な書として書かれているのに対し、この書では実践の書として多くの人が読めるよう全体にわたって振り仮名がつけられている。内容は、104種の植物をとりあげ、実際の植物と見分けがつけられるよう詳細な図のもとに名称と可食部、調理方法を簡単に記述する。

クリックで拡大・周定王救荒本草和名撰 1-15 周定王救荒本草和名撰 14巻(しゅうていおうきゅうこうほんぞうわみょうせん) 曾涅(占春)著 嘉永4[1851]写 書写者森約之養眞 1冊 印記:「森氏」(森立之旧蔵書) 【貴重書A00:5921】 [田中芳男文庫]

 本写本のもとになった書の成立時期は、曽占春の「寛政丙辰之夏五月」序から寛政8年(1796)5月と考えられる。『救荒本草』にでてくる植物の和名を解説したもの。曾涅(1758-1834)は医師・本草家。田村藍水の塾で本草学を学んだ。
 『救荒本草』は、明の太祖朱元璋の第5子、周定王朱しゅく(「きへん」に「肅」)(1425没)撰で、1406年に刊行された。わが国では、松岡玄達が明の徐光啓が編集した『農政全書』の中にあるのを発見し、わが国でも役に立つものとして抜き出し、享保1年(1716)和刻した。その後様々な版が刊行され、わが国の救荒書に大きな影響を及ぼすこととなった。
 書写した森約之は、森立之の長男として江戸の福山藩邸に生まれた。医号は養眞。学問を父森立之に学び、躋寿館の聴聞にも列席し、後に『本草経』を講義した。父森立之の手写事業を手伝い、森約之の手になる写本が残る。最後に福山に移り、福山藩の藩校である誠之館の講師となった。

クリックで拡大・救荒本草紀聞 1-16 救荒本草紀聞 17巻(きゅうこうほんぞうきぶん) 田村元雄(藍水)述 嘉永7[1854]写 書写者は森約之の父(森立之) 1冊 印記:「森氏」(森立之旧蔵書) 【貴重書 A00:5915】 [田中芳男文庫]

 『救荒野譜紀聞』と合綴。田村藍水の講義録を写したものか。書写した森立之は、文化4年(1807)江戸に生まれる。号は枳園。福山藩の藩医で考証学者、伊澤蘭軒に医学を学ぶ。後に幕府医学館講師となり、『医心方』の校刻事業にも参加したが、その他の逸書の復元にも功績をなした。

クリックで拡大・救荒本草記聞 1-17 救荒本草記聞 14巻(きゅうこうほんぞうきぶん) 岩(岩永)澄元著 嘉永2[1849]写 書写者は森約之 1冊 印記:「森氏」(森立之旧蔵書)附救荒野譜 【貴重書A00:5916】 [田中芳男文庫]

 岩澄元(1721-1795)は、岩永玄浩の子で太田澄元といった。本草家で後に医学館・躋寿館で教えた。

参考文献(1.植物)

・大場秀章『江戸の植物学』 東京大学出版会 1997
・白井光太郎「頭註國譯本草綱目序」(『新註校定国訳本草綱目』 春陽堂書店 1979)
・岡西為人『本草概説』 創元社 1977
・渡邊幸三「李時珍の本草綱目とその版本」(『東洋史研究』 12(4) 1953)
・大賀一郎「我が国に於ける最初の植物学書なる宇田川榕菴著『菩多尼訶経』に就て」(『植物及動物』 4(5)、4(6)1936)
・矢部一郎「『菩多尼訶経』攷」 (『立正大学教養部紀要』 (11) 1977)
・高橋輝和『シーボルトと宇田川榕菴:江戸蘭学交遊記』 平凡社 2002
・大場秀章「伊藤圭介」(『学問のアルケオロジー第1部』 東京大学出版会 1997) ・土井康弘「日本初の理学博士伊藤圭介(杏雨書屋第二十回研究会講演録「伊藤圭介来簡集」の知友・門人たち)」 (『杏雨』 (11) 2008)
・吉川芳秋「五十才で発起し西説『草木図説』を出版した美濃大垣の医家飯沼慾斎翁(愛知県医資料)」 (『現代医学』21(1) 1973-07)
・吉川芳秋「日本ではじめて洋説によつて植物を図説した大垣の飯沼慾斎-1・2-」(『採集と飼育』 14(12) 1952)
・児島薫「服部雪斎 博物図譜の名手」(『文明開化のはざまに』 ぺりかん社 2008)
・磯野直秀「日本博物学史覚え書 Ⅸ」(『慶応義塾大学日吉紀要.自然科学』 (28) 2000)
・磯野直秀「日本博物学史覚え書 Ⅹ」(『慶應義塾大学日吉紀要.自然科学』 (29) 2001)
・磯野直秀「日本博物学史覚え書 ⅩⅢ」(『慶應義塾大学日吉紀要.自然科学』 (35) 2004)
・北村四郎、塚本洋太郎、木島正夫『本草図譜総合解説』全4巻 同朋舎出版 1986-1991
・ウエインマン画、木村陽二郎解説 『美花図譜:ウエインマン「植物図集選」』 八坂書房 1991
・白井光太郎『白井光太郎著作集 第3巻 園芸植物と有用植物』 科学書院 1986
・塚本洋太郎「日本の本草書と園芸書」 (『日本史研究』 (4) 1991)
・三之丞伊藤伊兵衛「花壇地錦抄・草花絵前集」 (『東洋文庫』 288 平凡社 1976)
・白幡洋三郎「本草学と植物園芸」 (『東アジアの本草と博物学の世界』下 思文閣出版 1995)
・塚本洋太郎「〈共同研究報告〉日本の本草書と園芸書」 (『日本研究』 (4) 1991)
・水谷泰弘「江戸の園芸書から」(『名古屋大学言語文化研究叢書』第2号 2003)
・「民間備荒録(解読編);備荒草木図(解読編)」 (『近世歴史資料集成』;第5期9巻 救荒;2 科学書院 2008)
・白杉悦雄「民間備荒録の世界:救荒植物の発見」 (『東北学』vol.8,2003)
・白杉悦雄「日本における救荒書の成立とその淵源:建部清庵『民間備荒録』を中心に」 (『東アジアの本草と博物学の世界』 上 思文閣出版 1995)
・白杉悦雄「救荒本草」考 (『中国思想史研究』 第19号 1996)
・菊池勇夫「山野河海と救荒」(『弘前大学國史研究』 93 1992)
・菊池勇夫「近世中期における救荒システムの転換:仙台藩の宝暦飢饉を事例に」(『キリスト教文化研究所研究年報』33 1999)
・佐々木隆美『名古屋叢書三編』19巻 解説 名古屋市教育委員会 1982
・白井光太郎「森立之」(『白井光太郎著作集』第5巻 植物採集紀行・雑 科学書院 1988)
・川瀬一馬「森立之・約之父子」(『日本書誌学之研究』 大日本雄弁会講談社 1943)
・川瀬一馬「森立之の「枳園漫録」」(『日本書誌学之研究』 大日本雄弁会講談社 1943)
・川瀬一馬「御目見医師講義聴聞「躋寿館出席留」」(『日本書誌学之研究』大日本雄弁会講談社 1943)
・大塚恭男「森立之」(『近世漢方医学書集成』53 名著出版 1981)
・上野益三『日本博物学史』 平凡社 1973
・磯野直秀『日本博物誌年表』 平凡社 2002
・大場秀章編『日本植物研究の歴史:小石川植物園300年の歩み』(東京大学コレクション4 東京大学総合研究博物館1996)
・『東アジアの本草と博物学の世界』 上・下 思文閣出版 1995
・磯野直秀「資料別・草木名初見リスト」 (『慶応義塾大学日吉紀要』自然科学 No.45 2009)
・白井光太郎『白井光太郎著作集 第1巻 本草学・本草史研究』 科学書院 1985
・高橋達明「小野蘭山本草講義本編年攷」(『東アジアの本草と博物学の世界』 下 思文閣出版 1995)
・北村四郎「〈共同研究報告〉中国植物に関する日本の研究」 (『日本研究』 3号 1990)

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