東京大学初代総理加藤弘之は、但馬出石藩の出身。オランダ語、ついでドイツ語を学んで蕃書調所教官に任ぜられ、維新後は大学大丞、侍読、元老院議官を経て、明治10年、再び東京大学に戻り、以後、明治19年に帝国大学となるまで、総理として初期の東京大学の運営に携わった。 (上の肖像は,雑誌『太陽』増刊号(明治32年)より。)
加藤は、明治元年10月の『立憲政体略』で、啓蒙思想家として憲法の概念を紹介し、立憲政体がすぐれているゆえんを解説する。本書では、福沢諭吉を意識したに違いない卑近な文体を採用し、「天のもっとも愛したもうものゆえ、人に限りては、万福を与えたもう天意とみえて」「不羈自立を欲する情が第一に熾ん」であると、天賦人権論の立場を明らかにする。さらに欧州各国の事情を解説しながら、立憲政体のすぐれているゆえんを一層発展的に解説し、政治の本義は臣民の生命・権利・財産の保護であると述べている。
加藤の本書における立憲政体賛美の論調はさらに強く、「自由権は天賦にして、安寧幸福を求むるの最要具」とした上で、「国家の主眼は人民にして、人民のために君主あり、政府あるゆえんの理」が述べられる。さらに本書の狙いは国学者に対する駁論にあり、「天下国土をもって一君の私有とする」国学者の国体論を非難する言葉がそうとうに強い調子で展開されるため、後年、とりわけ海江田信義らの国学系国権論者たちから攻撃を浴びることになる。ただし、天賦の人権とはいいながら、「人民は君主政府の保護を受けて、その安全を得るがゆえに、あえてその保護を求むるの権利を有す」という表現からも明らかなように、加藤にはむしろ統治者の立場に立って論じる姿勢が顕著で、人民がたとえば代議制によって政治に参加するという論点は見当たらない。後年の「転向」の素地はすでに明らかに見てとれる。
明治7年の民撰議院設立運動以来、じょじょに保守化反動化する政府は、海江田信義、あるいは三条実美の背後にあった国学系の志士の圧力によって、加藤に『国体新論』の撤回を迫った。もともと自由民権論者としては限界のあった加藤は、すでに明治10年以降、社会的ダーウィニズムへの転向を始めており、明治14年11月、求められてもいないのに『立憲政体略』『真政大意』の二著も含め、『国体新論』を今後絶版にする旨を届け出る。この思想的「転向」宣言として出版されたのが本書で、冒頭、ドイツ語の社会進化論の書物を多数列挙し、その権威に依拠して天賦人権説には歴史的に見て根拠がない旨が述べられる。ついで後半では、社会進化のありさまが叙述され、強者たちが権力をめぐる競争を繰り広げ、その勝者がいわばみずからの地位の安全を図るために弱者にもある程度の自由を保障するのだが、それが自由権の起源であると論じられる。
本書は文学部教授外山正一旧蔵本で、反論を書くことを目的とした外山のノートが随所に見られる。また、おそらく印刷と思われるが、加藤の手になる「優勝劣敗是天理矣」という墨書が附されている。
博文館の雑誌『太陽』は創刊12周年を記念して、各界の名士の経歴談を集めた「明治十二傑」という増刊号を明治32年に刊行。政治の伊藤博文、法律の鳩山和夫、教育の福沢諭吉らと並んで、文学という名目で加藤弘之が選ばれている。明治14年の転向宣言について、「ダルヰンの進化主義と云ふ者を研究して見ると、益々人間の権利というものは漸漸に人間社会の開けるに従って発生して参ったものであるという道理も明らかになって来た」と述べられている。
『人権新説』に対し、民権派からの批判が相次いだ。この駁論集には、郵便報知、毎日新聞、朝野新聞に載った論説のほか、馬場辰猪の演説が収められている。
自由党の理論的指導者植木枝盛は、かつて明治8年に上京すると、開成学校からほど遠からぬ神田錦町の長屋に住まい、各種の演説会に出かけるほか、読書にふけって民権思想の摂取に努めた。明治8年にはギゾーの『欧羅巴文明史』、福沢諭吉の『文明論之概略』などのほか、加藤弘之の『真政大意』も含まれている。その加藤の新著に対する批判は、きわめて厳しい。