ダーウィンの進化論(『種の起源』の刊行は、1859年)は、おおまかにいって、1)枝分かれ的進化の主張、2)自然選択説の提示、からなる。このうち1)についてダーウィンは、まだ遺伝ないし突然変異のメカニズムが知られていない時代にあって、変種ないし新種の発生の経緯については不明としながらも、さまざまな事例を検討しながら、同一の祖先からの分岐によって新しい種があらわれると主張。ついで、2)「自然淘汰」によって「適者」が「生存」して進化がおこなわれるのである。
生物進化については、19世紀前半のフランス人ラマルクの説がすでに知られていた。これは、既存の種が獲得形質を遺伝させることによって進化するというものだが、聖書の記述に基づいて、神があらゆる種を創造し、それ以降種は不変であるとするキリスト教会から反発を受けた。ダーウィンの『種の起源』は、その種が枝分かれ的に分化することを主張するものであったから、それ以上の反発を受けた。しかし、前項で示したように、開化史( History of Civilization )がすでにヨーロッパでは受け入れられており、一般には進歩ないし進化という考え方が好んで迎え入れられた。ダーウィンの進化論は、その一般の傾向に科学的裏づけを与える役割をはたしたといえる。
しかし、進化論は、動物学者以外の一般人には、むしろ2)の「自然淘汰」説がアピールしたようで、その考え方も「優勝劣敗」「生存競争」という矯激な標語となって広まった。さらに、ダーウィンがいっさい示唆しなかったにもかかわらず、これを人間社会に適用して、食うか食われるかの帝国主義時代の指導理念として利用する傾向が生じた。これを社会的ダーウィニズム、ないし社会進化論という。自然法的な自由権というものは一種のイデオロギーであり、非歴史的に、いわばアプリオリな形で提示されるのを常とする。一方、進化論は種の変化を論じるもので、時間の経過を踏まえた通時的な議論を含んでいる。この通時性が学問的と見なされ、民権論の非歴史性を妄想と見なす傾向が生じた。たとえば後に触れる加藤弘之のように、「弱肉強食の原始の時代に天賦の自由なるものはなかった」「自由権は、文明がある段階に至ってはじめて、強者から弱者に恩恵的に付与される」と論じる傾向である。これはとりわけドイツで著しく、国家が強力になるまで自由権は制限されるべきだ、国家が強大になってようやく人民も自由を享受できるとする国権主義が発展した。この社会進化論は明治10年代中葉以降、日本および東京大学にも入り込み、民権思想圧迫の理論的支柱として利用されることになった。
明治10年6月、若き動物学者エドワード・モースは腕足類の標本採取のため来日。行動の便宜を計って貰うため、文部省にお雇い外国人の学監モルレーを訪れたところ、さっそく東京大学教授を委嘱される。文学部教授外山正一は前年までシカゴ大学に留学し、同地で進化論についてのモースの講演を聞いて感銘を受けたことがあった。外山の慫慂によってモースは、10月初め、東京大学年報によれば600人入るとされた新築の講堂で進化論を講じる。日本で初めてダーウィンの学説が紹介されたこの講演会は、500人以上の聴衆を集める盛況であった。当時予備門学生であった軟派の学生、坪内逍遥も聴衆の一人である。
東京大学理学部生物学科における明治10〜11年のモースの講義を、石川千代松が学友と協力して筆記したもの。モースには、ダーウィン同様、進化論を人間社会に及ぼすつもりはなかった。なお石川は明治12年に正式に理学部生物学科に入学。明治15年卒業。翌16年に生物学科助教授となる。
この副題は、一般の人々がダーウィンから何を読みとったのかをよく示している。加藤弘之の序文があり、今日では「生存競争、自然淘汰の理を外にしては殆ど何事も解釈できぬ」と述べられている。
東京大学総理加藤弘之もまた、おそらくモースの講演の席に列し、衝撃をもって進化論を受け止めた一人であった。その読書ノート『疑堂備志』によれば、加藤は明治10年後半以降、ドイツから進化論の独訳、およびドイツで進展した社会進化論や国権思想の書物を取り寄せ、ノートを取りながら学習に励んでいる。展示書は、独訳『人類の起源』で、加藤弘之の手沢本。加藤の手になる書き込みや傍線等が残されている。
丸善の雑誌『学鐙』は、明治末期、世界の名著、19世紀の大著作などのテーマで、何度か繰り返して識者にアンケートをおこない、その結果を掲載している。これらによれば、『種の起源』が当時の日本に圧倒的な影響力を及ぼしたことが窺える。