15 進化論の衝撃


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 自由民権運動のかたわらに進化論を置くのは唐突のように見えるが、それは、明治10年代の日本に紹介された進化論がいかに大きな関心をもって受け止められ、やがて社会進化論に発展して民権運動に対する弾圧の理論的支柱となった経緯が、今では忘れられているからである。

 ダーウィンの進化論(『種の起源』の刊行は、1859年)は、おおまかにいって、1)枝分かれ的進化の主張、2)自然選択説の提示、からなる。このうち1)についてダーウィンは、まだ遺伝ないし突然変異のメカニズムが知られていない時代にあって、変種ないし新種の発生の経緯については不明としながらも、さまざまな事例を検討しながら、同一の祖先からの分岐によって新しい種があらわれると主張。ついで、2)「自然淘汰」によって「適者」が「生存」して進化がおこなわれるのである。

 生物進化については、19世紀前半のフランス人ラマルクの説がすでに知られていた。これは、既存の種が獲得形質を遺伝させることによって進化するというものだが、聖書の記述に基づいて、神があらゆる種を創造し、それ以降種は不変であるとするキリスト教会から反発を受けた。ダーウィンの『種の起源』は、その種が枝分かれ的に分化することを主張するものであったから、それ以上の反発を受けた。しかし、前項で示したように、開化史( History of Civilization )がすでにヨーロッパでは受け入れられており、一般には進歩ないし進化という考え方が好んで迎え入れられた。ダーウィンの進化論は、その一般の傾向に科学的裏づけを与える役割をはたしたといえる。

 しかし、進化論は、動物学者以外の一般人には、むしろ2)の「自然淘汰」説がアピールしたようで、その考え方も「優勝劣敗」「生存競争」という矯激な標語となって広まった。さらに、ダーウィンがいっさい示唆しなかったにもかかわらず、これを人間社会に適用して、食うか食われるかの帝国主義時代の指導理念として利用する傾向が生じた。これを社会的ダーウィニズム、ないし社会進化論という。自然法的な自由権というものは一種のイデオロギーであり、非歴史的に、いわばアプリオリな形で提示されるのを常とする。一方、進化論は種の変化を論じるもので、時間の経過を踏まえた通時的な議論を含んでいる。この通時性が学問的と見なされ、民権論の非歴史性を妄想と見なす傾向が生じた。たとえば後に触れる加藤弘之のように、「弱肉強食の原始の時代に天賦の自由なるものはなかった」「自由権は、文明がある段階に至ってはじめて、強者から弱者に恩恵的に付与される」と論じる傾向である。これはとりわけドイツで著しく、国家が強力になるまで自由権は制限されるべきだ、国家が強大になってようやく人民も自由を享受できるとする国権主義が発展した。この社会進化論は明治10年代中葉以降、日本および東京大学にも入り込み、民権思想圧迫の理論的支柱として利用されることになった。



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