さらに見逃せないのは、いわゆる「開化史」( History of Civilization )である。ここでいう「文明」は、常に単数形で、当時の欧米諸国が到達した、いくぶんなりとも自由主義的な立憲政体の社会のことを指す。「開化史」ないし「文明史」とは(――明治初期の翻訳では、開化と文明は同義語である)、人間が未開の状態からいかに文明、すなわち立憲政体の状態に達したかを描く歴史であり、必然的に専制政治との抗争の物語を含むことになる。代表的なものにギゾーの『ヨーロッパ開化史』やバックルの『イギリス開化史』があるが、これらは、プロシア流の国権思想が勢いを増す明治14年以前には、しきりに洋書教科書として用いられた。自由民権思想を側面から支援した著作群であるといえるだろう。
中村正直は昌平黌の教官で、かたわら英学を学び、慶応3年、幕府留学生の監督として英国に渡る。しかし幕府は瓦解。いわば亡国の遺臣として帰国するに際して、スマイルズの『セルフ・ヘルプ』を友人から贈られた。これは産業革命期の英国の下層階級の若者たちに、政府など公的機関の助けを借りず、みずからの力で生活の資を得る道を切り開くことを勧める内容で、いわゆる立身出世、身の栄達に駆り立てる書物ではない。人生の目的は「福祉」( happiness )と「安寧」( well-being )に置かれている。維新によって拠り所を見失った士族に生きる手がかりを授け、また新たに品性と進取の気を求められた平民層に人生の指針を与えた書物である。やがて民権思想(人民の自由な活動によって、はじめて国力が充実する)と国権思想(国家が強大になって、はじめて人民の自由も保障される)の対立は顕在化して、激しい抗争が起こるが、公的な扶助に拠らずして個人の自立を重んずるこの書物は、あきらかに民権思想の側に立つものである。
「最大多数の最大幸福」というベンサムが幸福の質的側面を捨象していると指摘するジョン・スチュワート・ミルは、徹底して個人の自由を重んじ、男女平等の民主主義を主張した。さらに多数決でも、少数者の意思表示の自由の保障という問題を忘れなかった。本書は、ルソーの著作と並んで、自由民権思想の形成にもっとも大きな影響を与えた。
原著は、フランス王政復古期の自由派の歴史家ギゾーの、ソルボンヌ大学における1828年の講義である。時代的制約からフランス革命については論じられていないが、それでも随所に、社会の発展には個人の発達が深く関与していること、また、物理的強制力は政府の本質ではないこと、さらに、政府の正当性の条件とは被統治者の自由を尊重すること、など、個人主義および自由主義的主張が盛り込まれている。 この原著の英語訳本 General history of Civilization in Europe は、なんらの物議も醸すことなく開成学校などの教科書として用いられたが、明治15年になって東京大学文学部にドイツ人ラートゲンが政治学教授として招かれるに及び、国権主義の立場から反駁を加えられた。
同じ見解に立って、イギリス史を論じる。この書物も教科書としてよく用いられた。
慶應義塾で当初より教科書として用いられたウェーランドの『経済書』。福沢諭吉が、慶応4年7月4日(新暦では5月15日)、上野彰義隊戦争の当日にも砲声を聞きながら講義を続けた書物として有名だが、この中にも自然法思想の影響が見られるという。
中江兆民は、大学南校少助教の職を辞して岩倉使節団に従い渡欧、司法省留学生としてリヨンおよびパリに学んだ後、明治7年に帰国。麹町の自宅に「仏蘭西学舎」(のちに「仏学塾」)を開いて多くの学生を集めた。東京外国語学校長、元老院書記官を辞任後は、もっぱらその塾でフランス学の指導に当たったほか、各種の翻訳に従事した。明治9年から10年にかけてルソーの『社会契約論』の和訳を作り、これは写本の形で自由民権運動の活動家のあいだに流布した。兆民には強い漢学志向があり、帰国後も岡松甕谷の塾に通って文章を鍛えた。ルソーの達意の文章でさえ時に冗長であり、3分の2に縮められると嘯いた兆民は、仏学塾の塾生たちの協力で刊行した雑誌『政理叢談』に漢文体で『社会契約論』の翻訳と注解を掲載。よくルソーの意を体した名訳とされる。