13 新開地の賑わい、大学界隈


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 明治2年から大学南校に通い、その後寄宿舎に住まうことになった野崎左文の回想によると、九段俎板橋から筋違御門(今の万世橋)にかけて、飯田町、神保町、小川町は武家屋敷ばかりが続き、商店というものがなかった。それで、なにか買い物の用が生じると、神田橋御門外まで出かけなければならなかった、という。幕府以来の土地永代売買の禁は解けていなかったので、旗本屋敷の開発は遅れた。しかし明治5年以降、それぞれの土地に地券が交付され、地番が振られ、永代売買の禁が解かれると、とたんに武家地が大商人などによって購入され、宅地や商業地などに様変わりしてゆく。斎藤月岑の『武江年表』明治5年の項を見ると、「五月、筋違橋内、元おなり道より小川町・表裏神保小路、町屋となる。・・・猿楽町、牛込御門内も町屋となる(神保町より錦町二丁目、小川町、淡路町通りは殊に賑はえり)」とあるように、神田という江戸でもっとも活発な商業地に隣接するこの地域の武家地は、またたくうちに買い取られ、再開発されていった。これを新開地という。

 坪内逍遥が名古屋から上京して開成学校の生徒となるのが明治9年。その『当世書生気質』は、神田界隈の私塾の生徒のありさまを映したと謳っているが、高田早苗ら関係者の証言によって、明治10年代前半の東京大学の寄宿舎に暮らす学生たちをモデルにしていることが明らかである。『当世書生気質』によれば、彼らは実にしばしば、大学を出ると一橋通りから表神保町、小川町を経て万世橋の方面に出かけてゆくことが多い。この広場は、新開地の中でもとりわけ賑わった一角であり、飲食店ばかりでなく、揚弓場、見世物小屋などの娯楽施設も欠けていなかった。



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