一方、明治7年の民撰議院設立運動に始まる政治演説ブームは、いささか色合いを異にした。たとえば明治10年に刊行された尾崎行雄訳述の『公会演説法』が、カルドウェルのエロキューショナリー・リーディングの教科書に依拠しているように、当初の自由民権運動家たちには、朗読法を演説法に取り違えた気配が見受けられる。『公会演説法』には原著から取られた身振りの図が載っているが、彼らは演説には大仰な身振りと思い入れたっぷりの発声がつきものであると勘違いしてしまったようである。この傾向は明治10年代半ばに陸続と刊行される各種の演説本に引き継がれ、多かれ少なかれ彼らの運動を特徴付けることになる。
開成学校もこの演説ブームに無縁ではなかった。明治8、9年頃の年報には、しきりと生徒の妄言を戒めるという表現が見られるが、あるいはこれは、学校当局が初期の自由民権運動の熱気が学校内に入り込むことを警戒していたからかも知れない。しかし明治9年10月、開成学校にも大講義室が完成する。これは、一橋通りから正門を入って右手すぐ、通りにそって立てられた大きな建築物で、長さ十間五尺余、幅七間二尺余、ほぼ80坪の空間を備え、収容人員は600名を数えた。この講義室では、大学教員および学生たちの演説会が催され、当初はたとえば大学総理加藤弘之が民撰議院時期尚早論を唱えると、文学部教授外山正一が反駁の論陣を張るといった具合に、政治的に見てかなりきわどい討論が戦わされていたようである。
この大学内での演説ブームにより、学生のあいだにいくつかの党派が生じた。高田早苗は明治9年に開成学校予科に入学、11年に東京大学文学部哲学政治学及理財学科に進んでいるが、彼の『半峰昔ばなし』によると、上級生のあいだに「茶話会」という演説グループがあり、やがて高田らの学年に、田中舘愛橘や市島謙吉らの「共話会」、有賀長雄らの「戊寅社」、高田と坪内逍遥や天野為之らの「晩成会」ができた。これらは演説の練習グループであり、(寄宿舎の綱紀粛正を訴える演説を好んだ有賀が体制的であるのを除いて)政治的な対立をともなうものではなかったらしいが、後年、明治15年の卒業に際しては、彼らのうちのかなりの数が官途に就くことを拒んで立憲改進党に身を投じることになった。外の世界の政治運動が、いやおうなく大学内に吹き始めていた。
アレクサンダー・ベルの朗読法を原著としている。
クワッケンボスの作文教科書(Quackenbos, Advanced course of composition and rhetoric)の第2章ポンクチュエーション、第3章レトリックを原著としている。なお黒岩大は、官立の大坂英語学校から慶応義塾に学んだ黒岩涙香のことである。
明治14、15年以降、演説本が次々と刊行された。しかし、その多くはエロキューショナリー・リーディングを演説と取り違える間違いを犯している。欧米の伝統的古典的な演説法に拠るのは、英国で正規の大学教育を受けた馬場辰猪の『雄弁法』ぐらいなものであろう。一般の日本人にとって、本場の演説がいかなるものかを知る機会は、きわめて少なかった。明治12年、モースによるダーウィンの紹介のあと、日本が進化論に染まりつつあるという話を聞いて、アメリカから宣教師ジョゼフ・クックが来日。進化論の誤りを指摘して、日本人の思想善導を図るという意図からの、多少ともおせっかいな来日であった。クックは大学の大講義室よりもさらに広い木挽町の厚生館で、「ダーウィンとは誰か、スペンサーとは誰か」と演説を始めたが、三宅雪嶺はその声の大きさに驚き、「廊下で聞くほうがよい位であった」と述べている。工部省工学寮(のち工部大学校、東京帝国大学工科大学)中退の尾崎行雄は、明治20年に保安条例に追われて渡欧、約2万人の聴衆の前でなされたグラッドストーンの演説を聞き、やはりその声量に驚いている。