廃藩置県ののち、大量の貢進生や藩の留学生などが学資を絶たれることとなったが、明治5年8月発布の『学制』は、この事態に対応するため、全国で1500人に限って年額120両の給貸費を支給することを定めた。南校はこの時点では専門科目を教える学校と認定されず、第一大学区の第一番中学と格付けられたが、9月には50人ほどの給貸費生のため、月額10円になる寄宿費の使用計画書を作成している。この計画書は、同じく給貸費生を抱える司法省法学校(のち、東京大学法学部と合併)に参考のため送付されたものらしく、司法省法学校関係の書類綴りに収録されている。この時期の物価を小木新造『東亰庶民生活史研究』によって示すと、米価は明治5年から10年まで1石4円から7円のあいだを乱高下し、ついで明治14年の11円までインフレが進んだ後、また6円前後で推移する。明治10年前後の大工や左官の平均的な日当が約30銭で、インフレが進んだ明治14年でも50銭程度。月に20日働いてようやく10円になるが、家族持ちである場合、その大半は米代に消えてしまう。また、下婢の給金が(住み込みで3食付きだが)月に1円程度。巡査の月棒が明治14年で6円から10円であった。
そうした時代に、1日の食費14銭で、昼に牛肉、夕に魚が出る生活は、恵まれていたというべきであろう。開成学校についても、洋食ではないがよく肉が出た、という回想がある。しかも朝の鶏卵2個、昼のスープ(いわゆるソップで、この時代のハイカラな滋養食品であり、すでに専門の業者が製造販売に当たっていた)には、虎の子の学生たちを病気(とりわけ結核)から保護しようとする意図が見て取れる。姉妹校である東校には、南校詰め医師という職制があったが、これも手厚い疾病対策であろう。開成学校時代の年報には、学生に元気がないとする外国人教師の申報が相次ぐことになるが、休日に散歩雑費として支給される1日25銭の小遣いには、運動の奨励という意味があるのかも知れない。この計画がどこまで実現されたのかは明らかでない。給費は年々減じられ、明治10年代には5〜6円になったが、それでも学生は寄宿舎にある限り痛痒を感じないですんだというから、給貸費生は国家から手厚く遇されたというべきであろう。
このうち貢進生出身の学生は、右から二人目の野村吉、三人目の穂積陳重、四人目の杉浦重剛。近江膳所藩の杉浦重剛は、貢進生に選ばれた時、母から何事を成すことなくしてけっして家に帰るなと言われた。杉浦は、貧しい学生たちの中でもとりわけ貧しいことで名高かった。それが皆と揃いの帽子をかぶり、揃いの洋服を着ているのは、給貸費生として学校から支給されたからであると考えられる。
明治6年4月、第一番中学は法学・理学の専門科目を教える専門学校と認定され、開成学校と改称。一橋通りをはさんだ反対側の、現在の学士会館の位置に新校舎を建設する。開業式には天皇が臨御した。写真は、天皇を迎えるに際して生徒たちが門前に堵列しているところであるが、黒っぽい揃いの冬服は、同じく給貸費によって支給されたものであろう。なお、この行幸の時、杉浦重剛は理化学の御前講演をおこなった。