規則第三条には「幼年ノ間ハ和漢ノ学肝要ナルヲ以テ十六歳以上ニ非サレハ入学ヲ許サス」とある。これは、旧幕時代に、まず父兄や近くの学塾の師匠から四書五経の素読を受け、15、6歳になってはじめて藩校に入学して本格的な学習を始める慣行を引き継いでいるように思われる。しかし、外国人教師が英語・フランス語(後にドイツ語が加わる)で初・中等教育カリキュラムを直接教える正則コースでは、場合によっては左氏春秋や漢書まで仕上げた学生に、クワッケンボスのごときアメリカの少年向きの文法書を教えるのであるから、年のいった学生の不満はかなり強かった。そのため、教授内容にあきたらず学校を去る例が多かった。大学南校規則にはあえて「普通科ヲ学フノ間ハ専ラ教師教官ノ指示ニ従ヒ妄ニ私見ヲ立ツベカラス」という条項が設けられている。実際、それぞれ半年の課程である初等(スペル・加減乗除)、八等(クワッケンボス小文典・分数比例)、七等(大文典・平方根と立方根)、六等(ウィルソン氏万国史・代数)、五等(クワッケンボス氏物理学・幾何)をすべて英語なりフランス語なりで理解してはじめて、その上の専門科のカリキュラムについてゆけるのであり、開成学校や東京大学まで残った学生はすべてこの難行に耐えた者たちであった。
貢進生は原則として寄宿舎に入った。これは、やはり旧幕時代の各地の藩校で秀才が選ばれて入舎生となり、藩校内に寝泊りして勉学に励んだ例に基づくものであろう。舎則には、貢進生に対する期待が大きく、「別段ノ御旨意ヲ以テ徴セラレ候條、一層宸意ヲ体シ力学致ス可キ事」と述べられている。
明治5年の南校一覧の末尾には、おそらく成績順の学生名簿が載っている。英語は9クラス、フランス語は6クラス、ドイツ語は4クラスに分けられ、総学生数は447名である。
英一之部の名簿 英八之部の名簿 大学南校時代に集まった貢進生約300名のうち、南校に残ることができたのは約130名であった。さすがにその多くは、英仏独の学力によるクラス分けでも上級に属し、英一之部には伊沢修二、小村寿太郎、三浦(鳩山)和夫、英二組には杉浦重剛がいる。開成学校の時代になると独仏のコースが廃されるため、他の学校に転じる者が相次ぐことになるが、仏一之部には古市公威、仏二之部には石本新六(後、陸軍へ)、木下小吉郎(広次)、加太邦憲(ともに後、司法省明法寮へ)がいる。また、英七之部には一般の学生として、後に『日本開化小史』を著す田口卯吉の名前が見られる。田口は外国人教師の教え方が無礼であるといってすぐに退学したという。さらに、英八之部には一般の学生として、夏目漱石の長兄である夏目大一の名前が見られる。英語嫌いの漱石に意見したのは、この長兄である。