明治維新後、旧幕府の高等教育機関であった昌平黌、医学所、開成所は、昌平学校、医学校、開成学校として復興され、さらに明治2年12月には昌平学校が大学(本校)に、および湯島聖堂の大学(本校)との位置関係により神田和泉橋にあった医学校が大学東校に、また一橋御門外にあった開成学校が大学南校に、それぞれ改称された。このうち英仏学(後に独学)の教育機関である大学南校では、明治2年3月に長崎の致遠館校長フルベッキを招いて教頭職を委嘱、教育内容を充実させた。
授業は、語学と初・中等教育カリキュラムを日本人助教が訳読方式で教える変則コースと、外国人教師が直接原語で語学の初歩から教える正則コースに分かれていた。たとえば中江兆民は明治3年5月から大得業生としてフランス語を教え、後にその仇敵となるプロシア派の井上毅は学生として入学したのち、明治3年9月少舎長に抜擢されている。しかし、他の洋学校と比較した場合、大学南校の特徴は、じょじょに増員される外国人教師が担当する正則コースにあった。その数は明治3年末で12名、明治4年3月で17名に増加した。フルベッキの書簡によると、この時期、学生数は正則・変則を合わせて千人に及んだらしい。
さらに大学南校の声価を高めたのが、明治3年7月に政府が布告した貢進生の制度であった。これは、各藩からその石高に応じて1〜3人の秀才を学生として差し出させるもので、10月には300人強の学生が新たに大学南校に加わることになった。玉石混淆という評もあるが、彼らは藩から月10両の学費と年50両の書籍代を支給され、寄宿舎に入って全員が正則コースを学ぶように義務付けられた。
しかし、明治4年7月の廃藩置県ののち、大学(本校)が廃止されて文部省が設置される。大学東校と大学南校はそれぞれ東校、南校と改称し、さらに機構の整備のため一時閉鎖された。すなわち藩財政に基盤をおく貢進生制度が成立しなくなったのを期に、貢進生および一般学生の精選淘汰を計って学生数を500人規模に縮小し、かつ変則コースを廃し正則コースのみの学校となって秋に再出発した。
展示の写真は「南校全職員生徒写真」として伝わるものである。その撮影時期等はいっさい不明であるが、場所は南校構内(現在の如水会館から共立女子大学にかけての区域)であろう。また、後列の外国人教師の何人かが白っぽい夏服を着用していること、日本人教職員の何人かが絽の羽織を着ていることから見て、初夏とみるのが妥当であろう。南校が学制発布後、第一大学区第一番中学と改称するのが明治5年8月であるから、この写真は明治5年の初夏に撮影されたものであると考えられる。前景を年少の学生が占め、後ろにゆくに従って年かさが増し、最後列には日本人助教および職員、また外国人教師とおぼしい人々が並んでいる。年少の学生でも皆、袴をつけているが、これは「大学南校規則」に「諸生徒洋服無刀無袴禁止ノ事」とあったのが、依然として守られているのであろう。大学南校時代の通学生は、玄関で刀を預けて教場に向かったという。
ところで写真中の外国人教師は18名、日本人は405名。後述の明治5年4月の「南校一覧」に載る学生名簿の447名という数字にほぼ見合う。おそらくこの中には、貢進生の時代から寄宿生活を続ける若き日の小村寿太郎、鳩山和夫、穂積陳重、古市公威、伊沢修二、杉浦重剛らの姿が含まれている。
最後列には外国人教師と日本人助教および職員が、年かさの学生と交じり合うようにして並んでいる。教頭フルベッキは、別掲の、慶応2年から明治2年までの長崎・致遠館時代の写真の面影を参考にすると、中央アーケードの右から4人目に映っている夏服の人物であろう。
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致遠館は、大隈重信の首唱で長崎に作られた鍋島藩の洋学校で、フルベッキはここで大隈や副島種臣らにアメリカ合衆国憲法や独立宣言、さらに国際法やウェーランドの『経済学』などを教えた。明治元年には岩倉具視がフルベッキに息子のアメリカ留学の手配を頼んでいる。フルベッキはこの岩倉や大隈の縁によって大学南校の教頭に推挽された。