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III.内藤多仲(ないとうたちゅう)と東京タワー

 凌雲閣が倒壊した原因は建築の専門家による設計ではなかったことが大きいが、そもそも凌雲閣の竣工当時、世界的に見ても近代建築において耐震構造の研究はまだ始まったばかりで、専門家が設計していれば倒壊を免れたとは言い切れない状況にあった。しかし明治中期以降、例えば日本では東京帝国大学を中心に耐震構造の研究や講義が充実していき、後年、大地震にもよく耐える施設やタワーが建設される基礎が作り上げられていった。


12.佐野利器, 谷口忠著「耐震構造汎論」(岩波書店、1934)
 【総合図書館、U40:63】
13.内田祥三著「建築構造汎論」(岩波書店、1935)
 【総合図書館、U40:64】
 内藤多仲(1886-1970)は東京帝国大学工科大学建築学科で佐野利器教授に師事、鉄骨構造や鉄筋コンクリート構造について学んだ。佐野は世界における耐震構造学のパイオニアで、「震度」の概念を提案したことでも知られる。佐野は後年、岩波全書という学術書シリーズの一冊として「耐震構造汎論」を著したが、この時同シリーズで「建築構造汎論」を書いた内田祥三も大学院で佐野に学んでおり、関東大震災後に東京帝国大学教授として東大構内の建築物(安田講堂や総合図書館など)の設計を数多く手掛けた。


14.内藤多仲卒業設計「Casino」(複製)
 【工学系研究科建築学専攻所蔵】
 明治43(1910)年に建築学科を卒業した内藤が卒業設計として提出した全9枚のうち、正面図と側面図である。原寸は62cm×94cm。当時の卒業生たちが選んだ設計課題はホテル、美術館、ホールなどの公共施設が多く、内藤もその一人である。カジノといってもショーを行うステージを主体としており、レストラン・会議室・ビリヤード室などが付随している。


15.内藤多仲著「建築構造学」 訂正9版(早稲田大学出版部、1924)
 【総合図書館、U40:89】
 明治45(1912)年に早稲田大学教授となった内藤は、1年間のアメリカ留学を経て大正7(1918)年に初の著書「建築構造学」を出版、その後もたびたび増補版や改訂版を出した。総合図書館所蔵の訂正9版には、昔の利用者による数式や図の書き込みが見られる。
 帰国後、耐震壁を用いた耐震構造理論を打ち出し、日本興業銀行本店や歌舞伎座の構造設計を担当した。それらの建築物が大正12(1923)年の関東大震災で無事だったことから、内藤はその後次々と大規模建築の構造設計を任され、戦前はラジオ塔の設計も多数行った。


16.内藤多仲著「建築構造要覧」上巻 (早稲田大学出版部、1944)
 【総合図書館、U40:134】
 同じタイトルの著書を昭和4(1929)年、昭和8(1933)年(改訂新版)にも出版している。今回展示した昭和19(1944)年版の出版当時、内藤はすでに建築学会会長や早稲田大学理工学部長を歴任する大家であった。各章は「度量衡及び数学」「材料及び構造力学」「高層矩形ラーメン略算法」などから成るが、内藤は第7章「鉄骨構造」を鈴木竜蔵とともに担当している。


17.INAXギャラリー企画委員会企画『タワー : 内藤多仲と三塔物語』
 【個人蔵】
 戦後、内藤は名古屋テレビ塔(1954)を皮切りに、東京オリンピック(1964)の頃までに日本で建設された鉄骨構造の電波塔・観光塔においてほとんどの設計を担当し、塔博士と呼ばれた。内藤は構造計算に一貫して計算尺を用い、電卓やコンピュータの時代となってもそれは変わらなかった。


【参考展示 計算尺】
 ヨーロッパで使用されていた計算尺が初めて日本に持ち込まれたのは明治27(1894)年で、内藤が建築を学び始めた1900年代後半頃の日本人にはまだ目新しい器具だった。展示品は内藤の使用していたものではない。


18.「内藤多仲博士の業績」刊行委員会編「内藤多仲博士の業績」(鹿島研究所出版会、1967)
【工1B図書室、226-0:N.4-1】
 昭和41(1966)年、内藤が80歳を迎える機会に建築界有志で業績集の刊行が企画され、実行委員19名、刊行委員約600名という膨大な人の手によって翌年刊行された。作品が年代別に掲載されているが、塔に関しては特に1章を割き、ラジオ放送用の東京放送局(JOAK)タワー(1925)から博多タワー(1963)まで主に7点を紹介している。見開きの写真は東京タワー(1958)建設時の工事風景。


【参考展示 伊東忠太「世界の建造物 高さ比べ」】
【工学系研究科建築学専攻所蔵】
 伊東忠太(1867-1954)は東京帝国大学の前身である帝国大学工科大学を明治25(1892)年に卒業、帝大建築科の教授を務めながら、築地本願寺や本郷キャンパス近くにある湯島聖堂などの設計に携わった名建築家である。この図で最も高い塔であるエンパイア・ステート・ビルの竣工が1931年であること、建造物の説明が、内田祥三とともに安田講堂などの設計を手掛けた岸田日出刀(1899-1966)によって1931年に貼付されたものであることから、図も1931年に作成されたものと推測できる。すべてフリーハンドで描かれているが、伊東はこの年64歳、その目と手の確かさには驚かされる。

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謝辞
 今回の展示にあたり、法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター(明治新聞雑誌文庫)及び工学系研究科建築学専攻藤井研究室、工1号館図書室Bのご協力により、貴重な資料を展示することができました。謝して記します。



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