[一般展示のページへ] [特別展示会のページへ] [ 附属図書館のページへ ]

Ⅰ.凌雲閣とは

 明治時代中頃、日本各地において塔の建築が盛んに行われていた。
 東京には、明治23(1890)年、浅草の地に高さ173尺(約52m)の展望塔が建築された。設計は東京帝国大学衛生工学講座のお雇い外国人教師であったバルトンによるものと言われている。
 十二階建てだったことから通称「十二階」と呼ばれたこの塔には、日本初の電動式昇降器、いわゆるエレベーターが設置されていた。人々の期待と注目を集めていたエレベーターだが、開業前から不調が続いており、わずか半年で撤去の憂き目にあう。
 大きな目玉を失ってしまった凌雲閣は、集客のため「百美人」「ジオラマ展示」など様々なイベントを行うものの、徐々に客足が遠のいてしまうようになる。
 所有者が代替わりしながら営業を続けていた凌雲閣だが、大正12年に発生した関東大震災の際に、上部が倒壊してしまう。残りの部分も崩壊のおそれがあり、当局によって爆破されてしまう。これが凌雲閣の最期である。


1.『浅草公園凌雲閣登覧壽語六』
 【明治文庫 81:2】
 凌雲閣の入り口を振り出しに、各階の窓を順番に巡って塔を登り、十二階の展望台にある上りを目指す絵双六。
 「四」のコマでは、五の目が出ると「でんききかい(エレベーターのこと)にて八階目四十九までのぼる」ことができる。
 「六十」のコマでは、一が出ると「上り」。ただし四か六が出ると振り出しへ戻る。
 なおこの双六は、元は「二人上り」(上りが二つ)である。画面左上の落下傘で降りてくる人物の上に、風船に乗った人物が描かれためくり紙が貼られ、そちらがもう一つの上りであった。

 クリックで拡大・すごろく表紙 表紙      クリックで拡大・すごろく本体表 本体表      クリックで拡大・すごろく本体裏 本体裏
 *画像をクリックすると拡大します。


2.「凌雲閣登閣記事」(『工談雑誌』第22号(明治24年2月7日)
 【明治文庫 Z50:Ko19】
 実際に凌雲閣に登った人の体験記。この記事によると、エレベーターは9層(おそらく8階の誤り)までを2分で昇り、そこから頂上の十二階へは螺旋階段で昇ったとのことである。
 これらの図は記事に添えられた図である。第一図の「昇降機械略図」はエレベーターの構造を、第三図の「電気機械略図」はエレベーターの動力であるモーターの構造を示している。しかしながら解説文などは添えられていないため、詳細な構造設計についてはわかっていない。
 なお凌雲閣のエレベーターは開業前から不具合が相次いでいた。その都度修理を行っていたが、開業からわずか半年後に営業が完全に停止してしまう。

 クリックで拡大・凌雲閣登閣記事
 *画像をクリックすると拡大します。


3.「凌雲閣の百美人」(『あづま新聞』[マイクロフィルム版] 第169号(明治24年8月11日))
 【明治文庫 M5:4:A】
 エレベーターの営業停止後、それにかわる呼び物として考え出されたのが、東京各所から選び抜かれた芸妓100名を写真に撮り、閣内に掲載し投票する「百美人」という催し、いわゆる美人コンテストだった。
 この記事によると、締切日が間近なため一昨日(8月9日)は登閣者が非常に多く、中には1人で10枚も投票用紙を購入した人もいたらしい。現在のアイドル総選挙に通じるものがある。


4.「浅草の十二階見物」(『時事新報』[復刻版]第4530号(明治29年3月1日))
 【明治文庫 N36:J49:F】
 新聞掲載の5コマ漫画。凌雲閣の高さに驚いた田舎者らしき男性が、塔の高さを数えていくうちに、後ろにひっくり返って池にドボン、というオチ。


5.「浅草の十二階が眞中からぶち折れる刹那」(『大正大震災写真帖』)
 【明治文庫 N14:1-1】
 大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災にて、凌雲閣は8階から上の部分が倒壊してしまう。これはその模様を撮影したものである。
 残った部分も崩壊の恐れがあり危険とみなされ、9月23日に陸軍工兵隊の手によって爆破されてしまう。これが凌雲閣の最期で、以降再建されることはなかった。



>>TOPページに戻る   >>2.凌雲閣をめぐる人々   >>3.内藤多仲と東京タワー
この展示についてのご意見、ご感想は
附属図書館展示委員会 srv.sen[at]lib.u-tokyo.ac.jp まで