東大初期洋書教科書の世界(常設展:2005年4月〜6月)

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  1. 洋書教科書とは何か
  2.  東京大学の前身である大学南校、第一大学区第一番中学、開成学校においては、語学はもちろん哲学から数学・物理学にいたる当時の欧米諸国の中等教育課程が、外国人教師によって直接英語・フランス語・ドイツ語で教えられた。 それは、アメリカのハイ・スクールやフランスのリセなど、欧米の中等教育機関の教科書をそのまま用いた授業であったが、総合図書館には東京大学の前身諸校で明治初年に実際に使用された洋書教科書が約1500冊ほど残され,当時の学生たちの書き込みや落書きを今に伝えている。

     幕末の洋学者がいかに語学の修得に苦労したかは、福沢諭吉の『福翁自伝』などによって明らかである。 欧米との経済格差のために輸入される洋書はきわめて高価であったから、これを購入することのできない貧しい洋学者は、たいへんな手間暇をかけて文法書や読本を筆写し、しかる後にようやくその学習にとりかかる状態であった。 明治政府はよく知られているように、苦しい財政にもかかわらず、多額の報酬によって米・英・仏・独から外国人教師を招聘したが、そのかたわらで、幕末の洋学者たちの閲した苦難を軽減するため、相当な額にのぼる予算を投じて洋書教科書をも買い入れ,これを新時代の学生たちに貸与して彼らの学習の便宜を計った。


  3. 洋書教科書のシステム
  4.  パーレイの『万国史』( Parley's Universal History )は当時の日本でもっともよく読まれた教科書の一冊である。 その1874年(明治7年)以降の版の日本に関する章には、日本人は今や諸国民の歴史を学ぶことに貪欲で「はるか彼方より、ほかならぬこの『万国史』を二百、四百、いや六百部と注文してくる」という記述が見られる。 これは、個人の注文の集積というよりは、諸学校からの五十部、百部というまとまった注文であると見なくてはならない。 大学南校、また開成学校では、これら大量に買い入れた教科書の表紙見返しに「第一号」「第二号」「第三号」と複本番号を墨書すると、学期の初めにそれぞれ学生に貸し出して自由に使用させた。 学生たちはその教科書を持って外国人教師の授業に臨み、学期の終わりになると返却する。 次の学期の初めには新しい学生たちに貸し出され、こうして順次、同じ教科書が多数の学生に利用されたのである。

     笈を負って上京した没落士族の子弟たちが、貧しさに耐えながら学問にはげみ、わずかな期間のうちに新しい知識を身につけることができた背景には、この教科書の貸出システムが存在していたと言って過言ではない。 彼らが手にしたのは、洋書とはいえ貧弱な装幀の中等教育の教科書であったが、それにしても貸与された書物には離れがたい愛着をおぼえたものらしく、おそらく自分が読んだというしるしを残すためであろう、多くの教科書にはかならずと言ってよいほど使用者の署名や捺印が見受けられる。 これらの教科書は、明治初期の洋学の受容を研究する上できわめて有益な資料であり、現在、文学部の文化資源学研究室の手で整理が進められている。


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