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作品の原点

 鴎外文庫は森鴎外の旧蔵書からなるコレクションである。鴎外が折にふれて読んだり、執筆の参考にしたりした書籍であるから、鴎外自身の作品や著書はほとんど無く、直筆原稿や日記・書簡なども含まれていない。特徴としてよく言われるのは、歴史・芸術・文学等の人文科学から軍事・医学といった自然科学までの広範な分野を含み、古典籍から当時の新刊書に至るまで洋の東西を問わず収集された、その資料の多種多様さである。また、鴎外自身による書入れがあるものや執筆の過程で収集した参考資料やノート類を装丁したものが多く残されているのも大きな特色である。
 本コーナーでは、このような鴎外文庫の特徴をふまえ、鴎外作品からいくつかを取り上げ、その作品に直結する資料、いわば「作品の原点」といえるものを紹介する。最初に取り上げるのは、史伝三部作といわれる『渋江抽斎』(1916)、『伊沢蘭軒』(1916-1917)、『北条霞亭』(1917-1921)である。鴎外の書簡や日記によれば、鴎外はこの三部作の執筆にあたって、知人や被伝者の子孫などに手紙を書いたり、面会したりして資料の収集を依頼していたことがわかる。鴎外文庫には、こうして収集した資料や執筆のためのノートなどをまとめ、柿色の表紙を付けて糸綴じし、鴎外自筆の題簽を貼ったもの(鴎外文庫本によく見られる装丁である)が残されており、鴎外作品を研究する上で欠くことのできない重要な資料としてかねてから注目されている。
 ついで、史伝三部作から『渋江抽斎』を選び、作中重要な役割を担っている武鑑という資料を取り上げる。鴎外文庫の中で比較的大きなまとまりを持つものに、江戸時代の武家名鑑である武鑑と古地図(江戸図)がある(下段の表を参照)。特に『渋江抽斎』では、医師・儒者であった抽斎が武鑑・江戸図の収集家であったところに鴎外が大いに共感を持っていたことが読み取れ、執筆のきっかけを作った資料といっても過言ではないだろう。ここでは、ごく一部分ではあるが、『渋江抽斎』に登場する武鑑などの関係資料を展示することによって、その執筆過程の追跡を試みたい。
 最後に、史伝三部作以外の作品として、歴史小説から『魚玄機』(1915)、『大塩平八郎』(1914)、『堺事件』(1914)の三作品。これらの資料からは、歴史小説とはいえ、鴎外が同時代の人々やできごとからも大きな影響を受けていたことや歴史を題材にする際の執筆態度などがうかがわれる。また、鴎外は数多くの作品を翻訳したことでも知られているが、その中からドイツの短編小説とオペラ、そして著名な思想家ルソーの自伝(『告白』)の翻訳の元となったドイツ語の洋書を鴎外の書入れとともに紹介する。これらの資料は、文豪と呼ばれる鴎外の創作活動が非常に幅広いものであったことの一端を示すものとなろう。

鴎外文庫の武鑑関連資料と江戸図(現在所在が確認されているもの)
 ○武鑑(*)    260点   953冊   ○江戸図     101点(舗)
 ○分限帳等     7点    16冊   ○江戸切絵図    40点(舗)
 ○公家名鑑    81点   149冊
*自筆題簽等から鴎外が「武鑑」と判断したものの数量で、例えば『治代普顕記』(資料4-10)等も含んでいる。他に9点19冊が所在不明となっている。
 ちなみに、『鴎外全集』第20巻p.808では、267部971冊に及ぶとある。


クリックで拡大・澀江家乘 4-1 澀江家乘(しぶえかじょう)
[森鴎外自筆] 1冊


 本書は鴎外史伝三部作の第一作である『渋江抽斎』の基礎資料となったものである。『渋江抽斎』執筆の経緯は作品中に詳しく記されているが、抽斎の子である渋江保との邂逅と保からの資料提供は作品成立に際して決定的に重要であった。本書の内容が作品の序盤に反映していること、掉尾には保の娘である乙女について「大正四年十六歳」とあることなどから、鴎外と保が初めて会談した大正4年(1915)10月ころの成立と推定でき、鴎外文庫蔵の『渋江抽斎』関係資料の中でも最も早い段階のものであると考えられる。展示箇所は鴎外自筆になるもので、「引用書目」として挙げられている中に、「渋江保記憶」とあるのが作品の起源を思ううえで興味深い。この後に抽斎の伝記が27枚にわたって綴られている。(出口、一部改編)

クリックで拡大・抽齋年譜 4-2  抽齋年譜(ちゅうさいねんぷ)
[澁江保自筆] 1冊


 渋江保自筆の原稿を鴎外が1冊に綴じた本。『渋江抽斎』執筆のため、鴎外が年譜の作成を求めた(大正4年(1915)11月4日付渋江保宛書簡)のに応じて、渋江保が執筆した。作中に「保さんと会見してから間もなく、わたくしは大礼に参列するために京都へ立った。勤勉家の保さんは、まだわたくしが京都にいるうちに、書きものの出来たことを報じた。わたくしは京都から帰って、直に保さんを牛込に訪ねて、書きものを受け取り、また『独立評論』をも借りた。」(『渋江抽斎』その九)とあるのが本書である。内容は文化2年(1805)の抽斎1歳から、安政5年(1858)の54歳までの年譜であり、一部に鴎外の書入れが見られる。編年体を取る『渋江抽斎』は、本書に大きく依拠する。展示箇所は、抽斎が没した54歳のときの記述で、保(成善)の教育についての遺命が記されている。(出口、一部改編)

クリックで拡大・抽齋の親戚、并に門人 4-3 抽齋の親戚、并に門人(ちゅうさいのしんせき、ならびにもんじん)
[澁江保自筆] 1冊


 渋江保自筆の原稿を鴎外が1冊に綴じた本。巻末に渋江保筆の「抽斎の学説」を付す。『渋江抽斎』執筆のため、鴎外が「抽斎ノ親戚並ニ門人」及び「抽斎ノ学説」の題で渋江保に作成を求めた(大正5年(1916)1月24日付渋江保宛書簡)ところ、早くも鴎外の2月6日付渋江保宛書簡には本書の完成への礼辞が掲げられている。
 抽斎の親戚中で「第一に指を屈すべき」人物としてここに記されている比良野貞固は抽斎の二番目の妻威能の弟である。ここに「封建武士の典型」と書かれているように謹直な人物で、『渋江抽斎』作中で鴎外は共感を持って描いている。(出口、一部改編)

クリックで拡大・抽齋歿後 4-4 抽齋歿後(ちゅうさいぼつご)
[澁江保自筆] 1冊


 渋江保筆の原稿を鴎外が1冊に綴じた本。題名は鴎外自筆の題簽によるが、内題として渋江保自筆で「抽斎歿後の渋江家と保 附五百」とある。数章に段別されており、逐次的に鴎外のもとに送られたと考えられる。鴎外が史伝『渋江抽斎』を書くため、渋江保に父についての回想録を依頼し(大正5年(1916)3月6日付渋江保宛書簡)、それに応じて保が書いた原稿である。内容は抽斎没後の渋江家の人々に関する回想が中心で、生前の抽斎、四番目の妻五百(保の母)らについての挿話も含まれている。
 特に鴎外は五百に強い親しみを覚えたようで、『渋江抽斎』の中で数々の印象的な場面を記している。展示部分はそのうちの一つで、金を奪おうとして渋江家に来た詐欺侍に抽斎が脅迫されていたところ、入浴中だった五百が裸のまま飛び出して「懐剣を口にくはへ、左右の手に各々一箇の熱湯の入りたる小桶を携へ出でゝ」退治したくだりである。(『渋江抽斎』その六十、六十一)(出口、一部改編)

クリックで拡大・伊澤文書 4-5 伊澤文書(いざわもんじょ)
[森鴎外ほか写] 1916 4冊


 伊澤蘭軒の子孫伊澤徳から提供を受けた資料の写しで、鴎外史伝三部作の第二作『伊澤蘭軒』の基本資料となった。展示部分は鴎外自筆と思われる家系図で、分家二代目の蘭軒から五代目徳までが記されている。すでに和田万吉(東京帝国大学教授・附属図書館長)が同じ資料を基に蘭軒伝を著していたので、鴎外は重ねてこれを記すに当たって、以下のように執筆の態度を明らかにしている。「わたくしはこう云う態度に出づるより外無いと思う。先ず根本材料は伊沢徳さんの蘭軒略伝ないし歴世略伝に拠るとする。これは已むことを得ない。和田さんと同じ源を酌まなくてはならない。しかしその材料の扱方において、素人歴史家たるわたくしは我儘勝手な道を行くこととする。路に迷っても好い。若し進退維れ谷まったら、わたくしはそこに筆を棄てよう。所謂行当ばったりである。これを無態度の態度と謂う。」(『伊澤蘭軒』その三)

クリックで拡大・池田京水文書 4-6 池田京水文書(いけだきょうすいもんじょ)
[森鴎外自筆] 1917 1冊


 本書は二世池田全安所蔵の池田京水自筆の巻物を、鴎外が筆写したものである。内容は、「参正池田家譜」、「水津家系図」、「寛政庚申書上」、「池田分家過去帳」の4部からなっている。
 鴎外は『渋江抽斎』その十五で、抽斎に種痘の術を授けた池田京水の出自に疑いを持ったが、この時はまだ依るべき資料が十分ではなかった。その後、京水の縁者二世池田全安を知り、京水自筆の巻物を見ることを得た(『伊澤蘭軒』その二百二十一)。これを基に鴎外は、京水が継母に憎まれて継嗣を辞退し、分家を立てて後大成した次第を記している。
 展示箇所は、「参正池田家譜」の池田善直(京水)記載の箇所である。この系図は京水の父池田錦橋が幕府に提出するために作成したものが元になっており、継嗣辞退について「病ニ依テ嗣ヲ辤スル」(病のために跡継ぎを辞退する)と書かれている。

クリックで拡大・北條文書 4-7 北條文書(ほうじょうもんじょ)
1冊


 北条霞亭に関連する資料を1冊に綴じた本。鴎外史伝三部作の第三作『北条霞亭』の資料となった。『北条霞亭』その三に、「福田禄太郎さんの手より許多の系譜、行状、墓表等の謄本を贈られた」とあるが、それらの資料をまとめたものや、大正5年(1916)11月28日島田青峰宛書簡で鴎外が依頼した、「北条御一家ノ戒名歿年歿時ノ齢」の書抜き、秋荘老人・横山廉次郎・浜野知三郎の来翰などが付されている。
 展示箇所は「霞亭先生行状」の一部である。霞亭14歳のとき、通りすがりのある「士人」が霞亭の人相を見て「必大名ヲ成ン」と言ったという挿話(その五)や、亀田鵬斎に愛されたこと(その八)等、多くの箇所が作品中に取り込まれている。(出口、一部改編)

クリックで拡大・霞亭小著鈔 4-8 霞亭小著鈔(かていしょうちょしょう)
[森鴎外自筆] 1冊


 北条霞亭の著である「霞亭渉筆」、「嵯峨樵歌」、「薇山三観」、「帰省詩嚢」、および山口凹巷(韓聯玉)の著である「芳野游藁」を、鴎外が抜萃したノート。『北条霞亭』その二に、「わたくしは蘭軒伝を草するに当って、夙く霞亭渉筆、嵯峨樵歌、薇山三観三書の刊本を浜野氏に借りて引用することを得た。薇山三観は後に帰省詩嚢と合刻せられたが、わたくしは後者の単行本を横山廉次郎さんに借りて読んだ」とある。
 「嵯峨樵歌」は霞亭が京都嵯峨に隠棲した時期に作った詩を集めたもので、展示部分は本文の冒頭である。鴎外は『北条霞亭』執筆の動機を語って、霞亭の嵯峨隠棲を自身の若いころの夢に重ね合わせ、かつて理想として抱いた隠遁者の生活を敢えて為した霞亭の生涯に興味をひかれたことを記している。(『北条霞亭』その一)(出口、一部改編)

クリックで拡大・武鑑 文化十二年 4-9 武鑑 文化十二年(ぶかん ぶんかじゅうにねん)
江府 千鐘房須原屋茂兵衛 文化12[1815][刊] 5冊


 「この蒐集の間に、わたくしは「弘前医官渋江氏蔵書記」という朱印のある本に度々出逢って、中には買い入れたのもある。わたくしはこれによって弘前の官医で渋江という人が、多く「武鑑」を蔵していたということを、先ず知った。」(『渋江抽斎』その三)

 鴎外と抽斎との武鑑を通しての出会いを語った印象的な場面である。
 武鑑とは、江戸時代に大名家及び幕府の役人に関する記載を中心にして、民間で出版された武家の名鑑のこと。江戸時代前期には「御紋尽」「御紋鑑」「江戸鑑」などの名称で京や江戸の複数の板元から出版されていたものが、次第に江戸の板元に限られるようになり、後期になると「(年号)武鑑」に代表される須原屋と「大成武鑑」に代表される出雲寺との競合関係へと移っていく。
 本資料には全5冊のうち3冊の冒頭に抽斎の蔵書印(朱印)が押されている。現時点でこの蔵書印が確認されているのは、鴎外文庫中では本資料のみである。

クリックで拡大・治代普顯記 六十餘州知行高一萬石以上 4-10 治代普顯記 六十餘州知行高一萬石以上(ちだいふげんき ろくじゅうよしゅうちぎょうだかいちまんごくいじょう)
鎌田家時[著] [森鴎外自筆] 1915 1冊


 「それは沼田頼輔さんが最古の「武鑑」として報告した、鎌田氏の『治代普顕記』中の記載である。沼田さんは西洋で特殊な史料として研究せられているエラルヂックを、我国に興そうとしているものと見えて、紋章を研究している。そしてこの目的を以て「武鑑」をあさるうちに、土佐の鎌田氏が寛永十一年の一万石以上の諸侯を記載したのを発見した。即ち『治代普顕記』の一節である。沼田さんは幸にわたくしに謄写を許したから、わたくしは近いうちにこの記載を精検しようと思っている。」(『渋江抽斎』その三)

 土佐藩2代藩主山内忠義の父康豊の右筆・鎌田家時が著した、江戸時代前期のことを記す随筆で、寛文4年(1664)の忠義の死までのことを記す。本資料の扉には「沼田頼輔藏本大正四年十二月謄冩」、跋文末には「寛永十一/極月日 鎌田勘丞/家時」とあり、『渋江抽斎』中の記載と符合している。鴎外は、その後の「精検」により寛永13年(1636)のものと考証し、表紙に「寛永武鑑 寛永十三年」と自ら記した題簽を貼付している。
 なお、近年の研究によれば、本書は個人の随筆であり民間の出版物でもないので、武鑑の範疇には入らないとされている。ただし、大名家の紋所・知行高・氏名・官職・居城などを記したものが既に寛永年間に編まれていたことは、武鑑という資料の成り立ちを考える上で沼田頼輔や鴎外同様に注目してよいだろう。

クリックで拡大・武鑑の研究(一) 4-11 武鑑の研究(一)(ぶかんのけんきゅう)
沼田頼輔[著] [東京] [古書保存會] [1915] 1冊


 大正4年(1915)発行の雑誌『典籍』第2号の抜刷。「沼田頼輔さんが最古の「武鑑」として報告した」という、その報告にあたるもの。
 沼田頼輔(1867-1934)は明治~昭和前期の歴史学者、紋章学者。大著『日本紋章学』(明治書院 1926)で知られ、土佐山内家の家史編纂にも携わっている。
 鴎外の大正4・5年(1915・1916)の日記には、沼田頼輔との間で手紙や資料のやりとりをしていたことが記されている。鴎外文庫本の「御大名武士鑑」(鴎H20:870)も資料4-10同様、沼田頼輔所蔵本からの転写本である。

クリックで拡大・正保四年改御大名並御旗本記 4-12 正保四年改御大名並御旗本記(しょうほうよねんあらためおだいみょうならびにおはたもとき)
[森鴎外自筆] 1915 1冊


 「そんなら今に迨るまでに、わたくしの見た最古の「武鑑」乃至その類書は何かというと、それは正保二年に作った江戸の「屋敷附」である。これは殆ど完全に保存せられた板本で、末に正保四年と刻してある。ただ題号を刻した紙が失われたので、恣に命じた名が表紙に書いてある。この本が正保四年と刻してあっても、実は正保二年に作ったものだという証拠は、巻中に数カ条あるが、試みにその一つを言えば、正保二年十二月二日に歿した細川三斎が三斎老として挙げてあって、またその第を諸邸宅のオリアンタションのために引合に出してある事である。この本は東京帝国大学図書館にある。」(『渋江抽斎』その三)

 鴎外自身も「わたくしは現に蒐集中であるから、わたくしの「武鑑」に対する知識は日々変って行く。」(『渋江抽斎』その三)と述べているが、その後の研究によれば、寛永20年(1643)刊のものも確認されており、正保年間(1644-1648)の本書が最古の武鑑というわけではない。
 鴎外文庫の武鑑、特に江戸前中期のものの中には、本資料のように収載人物の生没年や役職などを調査してその情報が実際にはいつのものであるかを考証し、冒頭に識語として記してあるものが多い(署名の「源高湛」(みなもと たかやす/たかしず)とは鴎外のこと)。このことから、鴎外が「「武鑑」の成立を考えて見れば、この誤謬の多いのは当然で、それはまた他書によって正すことが容易である」(同上)として実践していたことがわかる。また、これらの考証が行われた時期が大正4年(1915)に集中していることや鴎外の大正3・4年(1914・1915)の日記に武鑑の記事が散見されることは、『渋江抽斎』の連載が大正5年(1916)1月13日から始まることと併せ考えると興味深い。
 表紙には「武鑑 正保二年」と記された鴎外自筆の題簽が貼られ、大正4年(1915)4月22日の識語によれば、「帝國大學本を借りて手寫して文庫に藏し」たものとある。残念ながら、その「帝國大學本」は大正12年(1923)の関東大震災で焼失し、現存していない。
 ちなみに、細川三斎とは、安土桃山~江戸時代の武将細川忠興(1563-1645、三斎は号)のことで、かつて鴎外ともゆかりの深い豊前小倉の城主でもあった。

クリックで拡大・御紋尽 4-13 御紋尽(ごもんずくし)
[森鴎外自筆ヵ] 1915 1冊


 「降って慶安中の「紋尽」になると、現に上野の帝国図書館にも一冊ある。しかし可笑しい事には、外題に慶安としてあるものは、後に寛文中に作ったもので、真に慶安中に作ったものは、内容を改めずに、後の年号を附して印行したものである。」(『渋江抽斎』その四)

 鴎外自筆の題簽には「武鑑 慶安四年」、原本の刊記を写した部分には「明暦三年二月吉日 西澤太兵衛板」とある。鴎外は、巻頭に記した大正4年(1915)4月10日の識語の中で、慶安4年(1651)11月25日以降明暦年間までの異動が反映されていないので、慶安4年時点の内容をそのまま明暦3年(1657)に刊行したと考証している。
 原本は帝国図書館(現国立国会図書館)の所蔵で、本資料は大正4年(1915)2月に筆写されたもの。実は国立国会図書館本は明暦2年の刊本なのだが、刊記の「暦」の字の刷りがあまり良くなく、ともすると「明暦三年」に見えなくもない。「明暦二年」とあるべきところを鴎外が誤写したものか。

クリックで拡大・武鑑 明暦元年 4-14 武鑑 明暦元年(ぶかん めいれきがんねん)
1冊


 「それから明暦中の本になると、世間にちらほら残っている。大学にある「紋尽」には、伴信友の自筆の序がある。伴は文政三年にこの本を獲て、最古の「武鑑」として蔵していたのだそうである。それから寛文中の「江戸鑑」になると、世間にやや多い。」(『渋江抽斎』その四)

 鴎外自筆の題簽には「武鑑 明暦元年」、原本の刊記を写した部分には「明暦四年三月吉日 松會開板」とある。鴎外の大正3年(1914)12月28日の識語によれば、明暦元年(1655)7月3日以降の記事が掲載されていないので、資料4-13同様に内容を改訂せず刊記だけを新しくして刊行したと考証する。翌4年(1915)の4月19日には東京帝国大学図書館本と対校し、朱筆で書入れを行っている。
 伴信友(1773-1846)は若狭小浜藩士で江戸時代後期の国学者。対校の時に東京帝国大学図書館本にあった文政3年(1820)の信友による序(識語)も写されており、そこには「後世所謂武鑑之祖者焉」(後世武鑑といわれるもののはじめである)と記されている。この伴信友旧蔵本も資料4-12の原本同様、大正12年(1923)の関東大震災で焼失し、現存していない。

クリックで拡大・江戸鑑圖目録 4-15 江戸鑑圖目録(えどかんずもくろく)
1915 1冊


 「それは上野の図書館にある『江戸鑑図目録』という写本を見て知ることが出来る。この書は古い「武鑑」類と江戸図との目録で、著者は自己の寓目した本と、買い得て蔵していた本とを挙げている。この書に正保二年の「屋敷附」を以て当時存じていた最古の「武鑑」類書だとして、巻首に載せていて、二年の二の字の傍に四と註している。著者は四年と刻してあるこの書の内容が二年の事実だということにも心附いていたものと見える。ついでだから言うが、わたくしは古い江戸図をも集めている。
 然るにこの目録には著者の名が署してない。ただ文中に所々考証を記すに当って抽斎云としてあるだけである。そしてわたくしの度々見た「弘前医官渋江氏蔵書記」の朱印がこの写本にもある。」(『渋江抽斎』その四)

 武鑑や江戸図を通して鴎外と抽斎を結び付けるきっかけとなった重要な資料。
 鴎外自筆の題簽には「古武鑑古江戸圖目録」とあり、「上野の図書館」=帝国図書館(現国立国会図書館)所蔵の写本を大正4年(1915)2月に書写したもの(書写者は不明)。渋江抽斎所蔵の「江戸鑑」(武鑑)と江戸図の目録であり、巻頭には「弘前毉官渋江氏藏書記」という蔵書印まで墨書されている。
 これも鴎外によるものかどうかは不明だが、「正保二(四)年」の箇所(資料4-12参照)のように、利用上注意すべき年代の記述などには朱で丸印や圏点が書き入れられている。
 なお、鴎外文庫の中には『大學圖書館帝國圖書館武鑑目録』(鴎A10:121)、『武鑑目録』(鴎A10:211)、『帝國圖書館備附武鑑及諸家分限帳目録』(鴎A10:212)など、東京帝国大学図書館や帝国図書館所蔵の武鑑について、鴎外等により筆写された目録が含まれており、鴎外の武鑑への関心のほどがうかがわれる。

クリックで拡大・武鑑 嘉永二年、嘉永三年 4-16 武鑑 嘉永二年(ぶかん かえいにねん)
[江戸] 出雲寺萬次郎 嘉永2[1849][刊] 8冊


4-17 武鑑 嘉永三年(ぶかん かえいさんねん)
[江戸] 出雲寺萬次郎 嘉永3[1850][刊] 10冊


 「嘉永二年三月七日に、抽斎は召されて登城した。躑躅の間において、老中牧野備前守忠雅の口達があった。年来学業出精に付、ついでの節目見仰附けらるというのである。この月十五日に謁見は済んだ。始て「武鑑」に載せられる身分になったのである。
 わたくしの蔵している嘉永二年の「武鑑」には、目見医師の部に渋江道純の名が載せてあって、屋敷の所が彫刻せずにある。三年の「武鑑」にはそこに紺屋町一丁目と刻してある。これはお玉が池の家が手狭なために、五百の里方山内の家を渋江邸として届け出でたものである。」(『渋江抽斎』その三十七)

 出雲寺版の嘉永2年(1849)及び3年(1850)の武鑑。武鑑収集家であった抽斎自身が将軍徳川家慶(在職1837-1853)に謁見を許され、「御目見医師」となったため掲載されたもの。
 武鑑の内容は、諸大名家について記す「大名付」と幕府役人について記す「役人付」とに大きく二つに分けられる。役人付には大老・老中に始まる武家だけではなく、医師、絵師、連歌師、棋士から能役者に至るまで、また御用達商人・職人なども掲載されている。
 ちなみに、「渋江道純」(嘉永3年のものは刷りが悪く見えにくい)とあるのは字で、抽斎は号、名は全善(かねよし)という。武鑑に自分の名を見たときの抽斎の感慨はいかばかりであったろうか。

クリックで拡大・武鑑 天保六年 4-18 武鑑 天保六年(ぶかん てんぽうろくねん)
江府 千鐘房須原屋茂兵衛 天保6[1835][刊] 7冊


 「抽斎は大名の行列を観ることを喜んだ。そして家々の鹵簿を記憶して忘れなかった。「新武鑑」を買って、その図に着色して自ら娯んだのも、これがためである。」(『渋江抽斎』その六十四)

 須原屋版の天保6年(1835)の武鑑。本資料は「弘前毉官渋江氏藏書記」の蔵書印が捺されていないので抽斎の旧蔵書ではないだろう。
 展示箇所は薩摩藩主島津斉彬(1809-1858)の項で、江戸市中での行列(=「鹵簿」)道具には色が付けられている。実際に大名行列を見て武鑑に書き入れや彩色を行うことについて、鴎外は趣味と捉えていたようである。しかしながら、武家間での交際や武家との交渉・取引を行うにあたって、江戸在勤の武士や商(町)人などは大名家の格付や幕府役人の異動等を知る必要があった。武鑑はこのような情報を得るために活用された実用書という性格を持っており、実際の必要上から彩色などがなされたという側面も見逃せない。
 なお、天保年間のどの武鑑であるかは不明だが、鴎外の日記に初めて現れる武鑑の記述は、大正2年(1913)9月の「十四日(日)陰。(中略)妻を天保武鑑を買ひに遣る。」である。

クリックで拡大・唐女郎魚玄機詩 4-19-1 唐女郎魚玄機詩(とうじょろうぎょげんきし)
[長沙] [葉徳輝] 光緒25[1899]題 1冊


 歴史小説『魚玄機』(『中央公論』30年8号、大正4年(1915)7月)の資料の一つ。
 「佐々木信綱君将来」と鴎外墨筆の前識語がある。佐佐木信綱宛の書簡(明治37年(1904)2月、全集書簡番号337)に「其節御寵贈之詩集今日一讀仕候」云々とあり、この前後に本書が信綱より贈られたものと推定される。同書簡には「見レバ作者ハ別品ニテ女道士兼藝者ト云フヤウナ人物ナルニソレガ又嫉妬デ別品ノ女中ヲ毆チ殺シ獄ニ下リタリトアリ實ニ芝居ニデモアリサウナ珍事ニテ面白ク存候」との感想が述べられており、これが後年『魚玄機』の構想につながったのだろう。この間、日露戦争への出征などもあり、成稿までに11年の歳月が流れている。
 玄機の性的成長の過程に関する記述については、同時代を生きた平塚明子(らいてう)の言動の影響を、斎藤茂吉が示唆している。(梅山、一部改編)

noimage 4-19-2 【参考資料】森博士(もりはかせ)
佐佐木信綱[著]
『心の花』第26巻第8號 東京 竹柏會出版部 1922


 この号には、桑木巌翼ほかによる森鴎外への追悼文が掲載されている。佐佐木信綱は、鴎外との長きにわたる交流の思い出と素直な寂しさを記している。
 鴎外は、明治40年(1907)から観潮楼歌会という短詩会を催しており、佐佐木信綱のほか与謝野寛(鉄幹)、伊藤左千夫、石川啄木、斎藤茂吉など多くの文人が集っていた。

クリックで拡大・大鹽平八郎 4-20 大鹽平八郎(おおしおへいはちろう)
幸田成友著 東京 東亜堂書房 1910 1冊


 歴史小説『大塩平八郎』(『中央公論』大正3年(1914)1月)の資料であり、作品は本書に多く依拠している。
 鴎外は評論『大塩平八郎』(『三田文学』大正3年1月、後に「附録」として収録)において、「大鹽に關した書籍の中で、一番多くの史料を使つて、一番精しく書いてある幸田成友君の『大鹽平八郎』を讀み、同君の新小説に出した同題の記事を讀んだ」と記している。大塩事件は天保8年(1837)2月19日に起こり、その日のうちに鎮圧された。この幸田の『大鹽平八郎』に多くを依りながら、「忠實に推測を加へて、此二月十九日と云ふ一日の間の出來事を書いた」とも記している。他に、「平八郎の思想は未だ醒覺せざる社會主義である」、「平八郎は哲學者である。併しその良知の哲學からは、頼もしい社會政策も生れず、恐ろしい社會主義も出なかつたのである」などの記述から、明治43年(1910)から翌年にかけて起こった大逆事件との関係性も示唆される。
 書中、赤・青色の鉛筆や万年筆による傍線が多く引かれ、文字書入れも見られる。展示部分は、本文中「拾七」というところに黒い傍線が引かれ、その前の部分にある人物名に赤い傍線で19まで番号が振られており、上欄に「十九人ニナル」と記されている。鴎外著の該当部分には「十九人あつた」と記述されている。(出口、一部改編)

クリックで拡大・大塩平八郎 4-21 大塩平八郎(おおしおへいはちろう)
1冊


 鴎外自筆の題簽には「大鹽平八郎事件」とある。展示部分の2丁表には「武藏國岩槻領岡泉村/組頭 丈輔事/宇三郎/執筆/大塩平八郎ヲ森先生ニ謹呈ス/孫/渋谷塊一」とあり、鴎外の筆で「(南埼玉郡日勝村岡泉也)」と注記がある。『大塩平八郎』執筆の際に参考とされた資料と考えられる。(出口、一部改編)

クリックで拡大・泉州堺烈擧始末 4-22 泉州堺烈擧始末(せんしゅうさかいれっきょしまつ)
佐々木甲象著 高知 箕浦清四郎、山崎惣次、土居盛義 1893 1冊


 慶応4年(1868)2月15日に起こった『堺事件』の資料。「堺列擧始末」と外題が書かれ、緒言には、自刃した11士の雪冤顕彰のため、靖国神社への合祭を念願して執筆されたことが記されている。
 鴎外文庫蔵の幸田成友『大塩平八郎』(資料4-20)と同様に赤や青の鉛筆で多くの傍線が引かれているほか、文字、図表などもインクで書入れられており、本書を見ながら『堺事件』の執筆が進められたことが推測できる。展示部分は、妙国寺での自刃の場面の記述箇所で、赤や青の傍線のほか、上欄に臨検の役人の並び方を略図にした書き入れが2面あり、片方は消してある。
 『堺事件』については、鴎外がその歴史事実の確認にあたって本書のみを使用し、他の資料と十分に比較検討などを行わなかったことが指摘されている。とくに、大岡昇平は、この作品を、歴史の「切盛と捏造」であると批判し、鴎外の「歴史其儘」の態度について再検討がなされるきっかけを作った。
 鴎外は評論『大塩平八郎』を書きあげてから、『堺事件』を6日後に脱稿した。間髪を容れず、急遽執筆したことにより、『大塩平八郎』や大逆事件との関係性が示唆される。(小谷、一部改編)

クリックで拡大・Deutscher Novellenschatz 4-23 Deutscher Novellenschatz
herausgegeben von Paul Heyse und Hermann Kurz. Munchen : Oldenbourg. 24v.


 パウル・ハイゼ、ヘルマン・クルツ共編『ドイツ短編集』全24巻。総計86篇が収録されるが、31編を除いて、各編の終わりに読後感と読了日付が書入れてあり、これによって鴎外のライプチヒ時代の読書歴の多くを知ることができる。
 展示部分は、後年『悪因縁』(全集第1巻)として訳されたクライスト(H. Kleist)の『サント・ドミンゴ島の婚約』(Die Verlobung in St. Domingo、本書第1巻)の文末である。「驚魂動魄之文字 乙酉八月十二日」(乙酉は明治18年(1885)にあたる)と記されている。同じく『はげあたま』(全集第3巻)として訳されたコピッシュ(A. Kopisch)の『イスキアのカーニバル』(Ein Carnevalsfest auf Ischia、本書第5巻)には、「一氣呵成、何等快筆.明治十八年四月廿三日」と識語が付されている。他、ハックレンデル(F. W. Hacklander)の『二夜』(Zwei Nachte、本書第23巻)が、『ふた夜』(全集第1巻)の翻訳原本である。
 また、本書の内容は、明治20年代の鴎外の小説批評の基礎を形作っていると言えよう。たとえば、鴎外が「「文学ト自然」ヲ読ム」(全集第22巻「文学と自然と」)で提出した小説の分類概念「単稗」、「複稗」は、本書第1巻序文におけるハイゼの「ノヴェルレ」、「ロマーン」の分類を参考にしていた。この他にも、実例引用において、本書に学んだ面が少なからず存在するらしい。(山田、一部改編)

クリックで拡大・Deutscher Novellenschatz 4-24-1 Orpheus und Eurydice : Oper in drei Akten
Christoph Willibald Gluck. Leipzig : Reusche. 1v.


 クリストフ・ヴィリバルト・グルック『オルフェウスとエウリディケ』。ライプツィヒ市立劇場での公演用に作られた特別なヴァージョンの台本で、「ライプツィヒ劇場の興行用公式版」とある。展示部分である表紙には、赤インクで、鴎外がライプツィヒ市立劇場で観劇した日の日付(1885年6月21日)と当日出演したソロ歌手の名前が記入されている。
 『大正二年日記』、『大正三年日記』(全集第35巻)によれば、鴎外は大正2年(1913)7月14日に田中一良に当作品の翻訳を依頼された。その時の翻訳原本は本書であり、実際の作業は大正3年(1914)2月10日に開始され、同14日に終了した。しかし、この第一稿歌詞(『未定訳稿オルフエウス』【参考資料1】)は国民歌劇協会の使用していたピアノ・スコアと合わず、鴎外は同3月30日に相談を受けて、修正を行った。この第二訳稿(『Orpheus(沙羅の木)』【参考資料2】)の成立は同8月27日である。これらの事情は、『オルフエウス(附記)』(大正3年(1914)10月、全集第19巻)に記されている。(河野・山田、一部改編)

noimage 4-24-2 【参考資料1】オルフエウス(第一稿)[未定訳稿]
森林太郎著 鴎外全集 著作篇第19巻 東京 岩波書店 1938


 資料4-24-1の展示箇所に該当する冒頭部分。
 鴎外は原本のこの部分に「緑葉編環/挂之墓前」と書き入れている。

noimage 4-24-3 【参考資料2】Orpheus[第二訳稿](沙羅の木)
森林太郎著 木下杢太郎[ほか]編 鴎外全集 第19巻 東京 岩波書店 1973


 資料4-24-1の展示箇所に対応する冒頭部分。
 鴎外は『オルフエウス(附記)』に「第二稿では、私は韻語としての句に拘泥せずに、縱に續けて書き流すことにした。これは謡ひものとして、句ごとに行を改める必要がないからである」と記している。
 当初、グルックの生誕200年にあたる大正3年(1914)7月に上演する計画であったが、同附記には「然るに六月の末にはオオストリアの皇儲がサラエヲで刺客のために命を殞し、それが導火になつて、(中略)遂にヨオロツパの大戰を惹き起した。切角の記念日は、オオストリアがどうするだらうと云ふ人心恟々の間に經過してしまつたのである。記念演奏などもどうなつたやら、私は精しい事を聞かずにしまつた」とある。
 なお、文字どおり幻の舞台となってしまった本作品が実際に上演されたのは今世紀に入ってからで、鴎外の翻訳から90年余を経た平成17年(2005)9月に東京芸術大学奏楽堂で行われたのが初演である。

noimage 4-24-4 【参考資料3】沙羅の木

      沙羅の木
   褐色の根府川石に
   白き花はたと落ちたり
   ありとしも青葉がくれに
   見えざりしさらの木の花

 『Orpheus[第二訳稿]』は、後に詩集『沙羅の木』に収められた。鴎外はその序に「「沙羅の木」は譯詩、沙羅の木、我百首の三部から成り立つてゐる。此三部は偶然寄り集まつたもので、其間に何等の交渉もない。(中略)うたひものは二つ収めてある。長くて前にあるのはグルツクのオペラで、これは從來日本人の手で興行せられたことのある唯一の樂劇である。私はこれを書く時、始て『逐音譯』を試みた」と記している。
 なお、書名にもなっている詩『沙羅の木』を刻した詩壁が文京区千駄木1丁目の観潮楼跡にある。永井荷風の揮毫によるもので、鴎外の三十三回忌に当たる昭和29年(1954)7月9日に供養として建てられた。鴎外の子・於菟は「この時より二年前、私が東武線〔原文のまま〕市川駅の近くに隠棲して居られる永井荷風さんを訪ねて執筆をお願いしたところ、世俗をきらうというので名高い荷風氏は一言の下に快諾され…」(『父親としての森鴎外』p.333)と記している。
 また、娘・杏奴の回想によれば、鴎外を「先生」と畏敬し続けた荷風の死の床には『渋江抽斎』が開かれたままになっていたという。

クリックで拡大・Rousseau's Bekenntnisse 4-25-1 Rousseau's Bekenntnisse
uebersetzt von H. Denhardt Leipzig Reclam. 2v.


 ルソー『告白』。同書の翻訳『懺悔記』を制作する際に底本として使われた。明治21年(1888)の時点で、全訳出の計画があったというが、実際は要約や省略を含む抄訳となった。本書第1巻の21ページから第2巻の27ページまで346ページ分が省略されている。
 女性に対する露出によって快感を得ていた事を述べた箇所(本書第2巻)の欄外に「Exhibitioner」(露出者の意か)、展示部分の、寄宿先の牧師の娘(ラムベルシエエ嬢)に受けた折檻によって官能に目覚めた事を述べた箇所(本書第1巻)には墨書きで大きく「Pfarrers Tochter in Vassey」(ボセーの牧師の娘、の意か)とあり、左欄外には青字で「褻」とある。
 鴎外のルソーへの言及には、他に『ルーソーガ少時ノ病ヲ診ス』、石川戯庵による全訳書『懺悔録』(大日本図書 1912)の序文『「ルッソォ懺悔録」序』があり、本書への書入れの多さも相まって、関心の深さが窺える。『ルーソーガ少時ノ病ヲ診ス』では、クラフト・エービング(R. von Krafft-Ebing)の著書『変態性欲心理』(Psychopathia sexualis、鴎外は『華癲論』または『房惟心疾』と訳す)に上記のようなルソーの症例が記されていない事に疑問を呈している。展示部分の右欄外には「Zur Psychopathia sexualis」(変態性欲心理と比較せよ、の意か)と、対応する鉛筆書きの書入れがある。また、そこで引用された訳文は『懺悔記』の文章とは異なっており、『懺悔記』訳出にあたって鴎外が新たに訳文を作成し直した事がわかる。(河野・山田、一部改編)

noimage 4-25-2 【参考資料】懺悔記
森林太郎著 木下杢太郎[ほか]編 鴎外全集 第2巻 東京 岩波書店 1971


 資料4-25-1展示箇所に該当するページ(p.79-84)の一部。

参考文献

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・梅沢静香.“『伊澤文書』(一)”.近代文学注釈と批評.2000,4号,p.134-150.
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・安達原達晴.“『伊澤文書』(三)”.近代文学注釈と批評.2003,5号,p.138-151.
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・森鴎外.鴎外歴史文学集,第5巻.岩波書店,2000,477p.小泉浩一郎注釈
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・秋山一実“武鑑について:その定義と範囲”.神道古典研究 会報.1984,5号,p.126-148.
・藤實久美子.武鑑出版と近世社会.東洋書林,1999,325p.
・藤實久美子.江戸の武家名鑑:武鑑と出版競争.吉川弘文館,2008,232p.,(歴史文化ライブラリー,257).
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・尾形仂.森鴎外の歴史小説 史料と方法.筑摩書房,1979,273p.
・齋藤茂吉.鴎外の歴史小説.岩波書店,1975,1022p.,(斎藤茂吉全集,第24巻).
・小堀桂一郎.森鴎外―文業解題,創作編.岩波書店,1982,462p.
・小堀桂一郎.森鴎外―文業解題,翻訳編.岩波書店,1982,551p.
・小堀桂一郎.“翻訳原本の鴎外自筆書き入れについて1~3”.鴎外全集.月報1~3,岩波書店,1971-1972.
・山崎一穎.“鴎外・『堺事件』試論”.跡見学園女子大学紀要,1975,8号,p.43-56.
・藤田覚.“解題”.鴎外歴史文学集.第2巻,岩波書店,2000,p.443-467.
・瀧井敬子.漱石が聴いたベートーヴェン.中央公論新社,2004,228p.,(中公新書,1735).
・森於菟.父親としての森鴎外.筑摩書房,1969,351p.,(筑摩叢書,159).
・小堀杏奴,大岡昇平.“文豪鴎外の肖像”.対談日本の文学.中央公論社,1971,p.25-31.


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