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家族と友人

鴎外は自らの思想や作品をめぐって周囲の作家や学者らと論争が絶えなかったが、家族や友人らには愛情をもって温かく接していたことが、鴎外の手元にあった資料からも窺い知れる。
 例えば家族に関する資料としては、鴎外にとってたいへん大きな存在であった母・峰子からの書簡が残されている。
 鴎外は慶応4年(1868)に津和野藩の儒学者・米原綱善から四書の素読を学んだ。そのとき、鴎外の学習の手助けをしようとした峰子は字が読めなかったにも関わらず「かくれて曾祖母(峰子の母)に乞い『いろは』から習い始めやがて仮名つきの四書を読み得るように」なった。また「再三熟読暗誦林太郎の復習を監督した。そしてその寝につくのを待って終日の家事に疲れた身で、夜更けまで暗い灯火の下で翌日の分を予習した」(『父親としての鴎外』p.103-104)とされる。
 鴎外が東京を離れ小倉へ一人で赴任していた間は、峰子から「みそ、しょうゆ、のり、つけもの、そして肌着から普段着まで、頻繁に輸送され」(『鴎外をめぐる女たち』p.215)、鴎外と峰子の間でやり取りされた書簡は『宗旨雜記』の裏打ちに用いられた。
 鴎外は家族以外の人々とも非常に幅広く付き合い、年下の文学者たちとも交流があった。明治40年(1907)頃、短歌雑誌『明星』と『アララギ』が思想の違いから対立していたが、40代半ばの鴎外は「明星」派と「アララギ」派の若手歌人たちを同時に自宅に招き、以後数年にわたって観潮楼歌会を催した。
 鴎外自身も短歌をよく詠んだが、短歌界に自らの派閥を作ることをしなかった。その一方で後輩たちからの相談事には協力を惜しまず、相手に対して細かく気を配り、「極めてオオプンな、誰に対しても城府を撤して奥底もなく打解ける半面をも持っていた(中略)…若い人が常に眷(なつ)いて集まった(後略)」(『新編思い出す人々』p.338)と評された。鴎外文庫に収められた献呈本は、その大半が「明星」「アララギ」両派の新進作家たちから寄せらせたものである。
 鴎外の細かい気の配り方は「極めて神経質で、学徳をも人格をも類するに足らない些事でも決して看過しなかった」(『森鴎外』p.274)と言われたほどであるが、その几帳面な性格は彼の蔵書にも現れている。
 「蔵書は父の最も大切にしたものである。父の生活は一刻も手から書巻を離したことがないと言えよう」(『父親としての森鴎外』p.274)とあるとおり蔵書は丁寧に扱われ、古くなった書物には裏打ちなどの修復が行われている。
 また、気になる雑誌の記事や自身に送られた手紙を用いて自ら造本を行ったと思われるものも存在する。その造本技術は確かなもので、100年以上を経た現在もほとんど崩れが見られない。


クリックで拡大・語格指掌圖1
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2-1 語格指掌圖(ごかくししょうず)
牧村光香[著] 文久元[1861][刊] 1帖


 津和野藩の藩士であった牧村光香が文久元年(1861)に記した、語格をまとめた図である。
 鴎外も津和野藩出身であることから、幼少時の鴎外はこの図を用いて語学の学習を行ったとされる。
 図の裏打ちに用いられた紙には幼少時の鴎外と鴎外の弟である篤次郎(三木竹二・劇評家、医師)により、北海道の地名に混ざり「四歳 森林太郎」「森篤次郎三歳」と記されている。(多田、一部改編)

クリックで拡大・宗旨雜記1 クリックで拡大・宗旨雜記2 2-2 宗旨雜記(しゅうしざっき)
日乾[著] 洛陽 栗山宇兵衛 天和2.7[1682][刊] 2冊


 この資料は日蓮宗の僧・日乾が記したものであるが、綴じられた紙の裏側には鴎外が小倉赴任中に記した母・峰子への書簡の断片が裏打ちされている。
 森鴎外は明治32年(1899)から明治35年(1902)に軍医部長として小倉で勤務していた。その間、東京に残した母・峰子と書簡をやり取りしていたとされ、柳生四郎「小倉時代の森鴎外未発表書簡」により母親宛の書簡が『宗旨雜記』の裏に貼られていたことが明らかになった。
 書簡は『宗旨雜記』の綴じ順とは関係なく裏打ちされ『宗旨雜記』の大きさに合わせて切断されているため完全な復元は不可能であるが、現存する書簡の翻刻はすべて終了している。また、書簡は「鴎外文庫書入本画像データベース」で公開されている。

クリックで拡大・菅頼系諸家事蹟 2-3 菅頼系諸家事蹟(かんらいけいしょかじせき)
1冊


 伊沢蘭軒(江戸時代末期の医師・儒学者)や北条霞亭(江戸時代の漢学者)に関する資料を鴎外自身がまとめたものである。
 この資料で特筆すべきは、当時、旧制中学に通学していた井伏鱒二が鴎外に記した手紙が綴じられている点である。「森鴎外氏に詫びる件」(朝日新聞1931年7月15・16日朝刊)に「私が森鴎外氏をだまして、その結果、森鴎外が新聞小説の一回分を余計に書いたことについて話さう」との書き出しで、井伏鱒二自身がこの手紙を送った経緯を記している。
 井伏鱒二は鴎外に2回手紙を送っており、1回目は偽名「朽木三助」、2回目は本名を用いて実在しない朽木三助の死について記した。なお、鴎外は2回目に送られた手紙を綴じ込んだ。

クリックで拡大・幻影の盾ほか 2-4 幻影の盾(まぼろしのたて)・倫敦塔・一夜・カーライル博物館・二百十日
夏目漱石著 1冊


『ホトトギス』8巻7号の付録として刊行された『幻影の盾』、『帝国文学』(明治38年1月号)に掲載された『倫敦塔』など5つの短編が掲載誌から切り取られ綴じられている。
 造本の特徴として、漱石の作品に関係ない箇所は半紙が糊付けされ隠されている点が挙げられる。また、造本は鴎外の手によって行われたと推定される。
 鴎外は漱石に対し好意を持ち「芸術院に推薦した小説家の筆頭に漱石」を挙げ、慶應義塾大学の文学科顧問就任時には教授職候補として「慶應義塾文学部の刷新に当たり、まず漱石に交渉した」とされる。
 また、鴎外と漱石の間では著書の贈答や書簡のやり取りが行われていた。ただし、二人が顔をあわせた機会は2回のみである。

クリックで拡大・椀久物語ほか
クリックで拡大・椀久物語ほか
2-5 椀久物語(わんきゅうものがたり)・不安・當流人名辭書
幸田露伴著 [鴎外による自家製本] 1冊


 幸田露伴が『文藝倶楽部』第六巻第壱編(1900)に発表した小説「椀久物語」、およびその頃雑誌『新小説』に発表した随筆類を、鴎外が雑誌から抜き取って自ら一冊に製本し直したと推定されるものである。露伴の作品と直接関係のない印刷部分には上から紙が貼付されており、例えば「椀久物語」では冒頭の "『文藝倶楽部』第六巻第壱編" という表記が隠されている。
 鴎外と露伴は20代に知り合い、その後十余年にわたる親交を持った。特に若い頃は鴎外の末弟が「(鴎外の自宅に)最も度々来られたのは幸田露伴氏であつたやうに思ふ」(森潤三郎『鴎外森林太郎』p.33)と書くほど親しく、鴎外自身も「この如き人に交ることを得た幸福を喜ぶことを辞せない」(『鴎外全集』第23巻p.142)と記している。

クリックで拡大・短歌私鈔1  クリックで拡大・短歌私鈔2 2-6 短歌私鈔(たんかししょう)
齋藤茂吉著 東京 白日社 1916 1冊


 斎藤茂吉(1882-1953)の歌論が一本にまとめられた最初の著作であり、歌集『赤光』につぐ第2の著書である。茂吉が『赤光』(1913)の歌境を切り開いていくきっかけの一つは、「明星」・「アララギ」両派を宥和させるために森鴎外が発案した観潮楼歌会に参加した経験であると言われている。この歌会は、明治40年(1907)3月より43年(1910)4月まで、千駄木の鴎外邸で毎月1回催された。後年茂吉自身も「後進者として私などはいつも刺戟を受けることの多い会合であった」(『観潮楼断片記』)と回顧している。

クリックで拡大・一握の砂1 クリックで拡大・一握の砂2 2-7 一握の砂(いちあくのすな)
石川啄木著 東京 東雲堂書店 1910 1冊


 明治41年(1908)、上京した啄木は新詩社で『明星』を主宰する与謝野鉄幹に連れられて初めて観潮楼歌会に参加し、以後複数回にわたって観潮楼を訪れた。鴎外は、啄木からの相談に応じて啄木の小説原稿を出版社に買い取らせたりするなど、親身になって接した。『明星』廃刊後、啄木が発行人となって明治42年(1909)に創刊された雑誌を『スバル』と命名したのも鴎外である。啄木の処女歌集『一握の砂』は『明星』『スバル』などに掲載された短歌を中心にして刊行された。明治45年(1912)に啄木は26歳で没したが『スバル』は大正2年(1913)まで継続し、北原白秋・吉井勇・高村光太郎ら新詩社派だけでなく、佐藤春夫・堀口大学・谷崎潤一郎ら当時の期待の若手が小説や詩を寄せた。

クリックで拡大・青海波1 クリックで拡大・青海波2 2-8 青海波(せいがいは)
与謝野晶子著 東京 有朋舘 1912 1冊


 晶子が欧州歴訪の長旅に出る4か月前、明治45年(1912)1月に出版された歌集。短歌の歴史上、初めて出産を取り上げた歌も多く収められている。
 鴎外所蔵本の標題紙裏には「麹町、中六、十 与謝野晶子」と当時の晶子の住所(東京市麹町区中六番町十)が記された紙の切貼がある。

クリックで拡大・雲母集:歌集1 クリックで拡大・雲母集:歌集2 2-9 雲母集:歌集(きららしゅう:かしゅう)
北原白秋著 東京 阿蘭陀書房 1915 1冊


 大正4年(1915)、すでに詩集『邪宗門』や歌文集『桐の花』で世評を確立していた北原白秋(1885-1942)は、弟とともに出版社・阿蘭陀書房を設立し、顧問に鴎外と上田敏(1874-1916)を迎えた。白秋はかつて「明星」派の若き歌人として観潮楼歌会にたびたび参加、『スバル』にも創刊時から参加し、鴎外とは長く関わりがあった。阿蘭陀書房からは鴎外の『詩歌集 沙羅の木』(1915)、与謝野晶子『新訳徒然草』(1916)、芥川龍之介『羅生門』(1917)などが出版された。白秋自身も自ら装幀を手がけた第二歌集『雲母集』などを出している。

クリックで拡大・信天翁の眼玉1 クリックで拡大・信天翁の眼玉2 2-10 信天翁の眼玉(あほうどりのめだま)
辰野隆著 東京 白水社 1922 1冊


 辰野隆(1888-1964)は、仏文学者、随筆家。本著作は、著者の処女評論集で、主としてフランス文学に関する紹介、小論文、感想等を集めたものである。一方、鴎外は、雑誌『スバル』に、1909-1913年の5年間55回にわたって『椋鳥通信』を連載したが、内容は海外の新聞の文芸欄を中心とした雑報の抄録と紹介であった。「露伴、鴎外、漱石は僕に取っては文学の三尊なのである」と鴎外を敬慕していた著者が、『椋鳥通信』から『信天翁の眼玉』のスタイルを思いついたとも言われている。

クリックで拡大・白き手の獵人1 クリックで拡大・白き手の獵人2 2-11 白き手の獵人:詩集(しろきてのかりゅうど:ししゅう)
三木露風著 東京 東雲堂書店 1913 1冊


 本著作は、明治43年(1910)から大正2年(1913)までの作品集で52編の詩と7編の散文とからなる詩集であり、象徴詩の最も高度の成果といわれている。三木露風(1889-1964)は兵庫県生まれ、童謡「赤とんぼ」は山田耕筰によって作曲され、広く知られている。鴎外との出会いについて、『我が歩める道』の中で、『スバル』に詩を寄稿していた関係で参加した同派の文学者等の晩餐会において、鴎外から詩について敬意を表されたと述べている。

クリックで拡大・南蛮寺門前1 クリックで拡大・南蛮寺門前2 2-12 南蛮寺門前(なんばんじもんぜん)
太田正雄著 東京 春陽堂 (地下一尺集 第2) 1914 1冊


 太田正雄は、木下杢太郎(1885-1945)の本名。本著作は、明治42年(1909)に雑誌『スバル』第2号巻頭に初出掲載された。杢太郎は、後に「今でも僕は残念に思っているのだが、それは僕の戯曲の第一作の『南蛮寺門前』をば、森先生が校正の時添削して下さるというのを、その時昴の第二号の編輯を引受けていた石川啄木の偏執からその機会を失したことである」と『南蛮寺門前』(『木下杢太郎全集』第14巻p.138-142)の中で書いている。
 杢太郎は鴎外について、その著作『森鴎外』において、鴎外の生活の時期を、「出生、少青年の時代」「軍医副及び留学の時代」「柵草紙の時代」「目不醉草の時代」「芸文及び萬年艸の時代、附日露戦役の前後」「豊熟の時代」「晩年」の7期に分けて、鴎外の略歴を著述しているが、後の鴎外史の枠組みの基本構造となった。

参考文献

・森於菟.父親としての森鴎外.筑摩書房,1969,p.103-104.
・文沢隆一.鴎外をめぐる女たち.林道舎,1992,p.215.
・内田魯庵.新編思い出す人々.岩波書店,1994,p.338.
・森於菟.父親としての森鴎外.筑摩書房,1964,p.274.
・合山林太郎,出口智之.未翻刻森鴎外書翰紹介:東京大学総合図書館鴎外文庫蔵『宗旨雑記』より.鴎外.2009,85号,p.1-18
・岡崎義恵.森鴎外と夏目漱石.法文館,1973,p.6-8
・齋藤茂吉."観潮楼断片記".齋藤茂吉全集.第7巻.岩波書店,1975,p.393-403
・柴生田稔."第9巻について".齋藤茂吉全集月報12(第9巻).岩波書店,1973,p.10-12
・品田悦一.齋藤茂吉:あかあかと一本の道とほりたり.ミネルヴァ書房,2010,345p,(ミネルヴァ日本評伝選).
・二瓶愛蔵.若き日の露伴.明善堂書店,1978,445p.
・森潤三郎.鴎外森林太郎.丸井書店,1942,364p.
・森鴎外."鴎外漁史とは誰ぞ".鴎外全集.第23巻.岩波書店,1951,p.142.
・山崎國紀.評伝森鴎外.大修館書店,2007,849p.
・日本近代文学館編.日本近代文学大事典.講談社,1977-1978,6冊.
・河盛好蔵.仏文学問わず語り―11―辰野隆先生と「信天翁の眼玉」.文學界.1993,47(9),p.206-214.
・辰野隆."鴎外先生".忘れ得ぬ人々.福武書店,1983,p.151-153,(辰野隆随想全集;1)
・三木露風."我が歩める道".三木露風全集.第2集.三木露風全集刊行会,1973,p.157-301.
・木下杢太郎."森鴎外".木下杢太郎全集.第15巻.岩波書店,1982,p.22-71.

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