特別展示会附属図書館
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2. 震災前の図書館

 東京大学は明治10年4月12日に創立された日本で最初の大学である。学部は法理文学部と医学部の4学部からなり、法理文学部を遡ると、明治以降だけでも、大学南校、南校、第一番中学校、開成学校、東京開成学校とめまぐるしく変遷する。この変遷史にしっかりと寄り添っていたのが図書館である。当初は図書館という独立の施設も、専属の掛も存在しないが、図書業務なくしては学校が存続し得ないほど重要な役割を果たしていた。

 大学南校を始めとする学校は西洋文明の摂取という目標を掲げて設立され、それを達成するために外国人を教師として雇い、外国語の教科書を使い、外国語で授業を行っている。この環境で求められるのが洋書の教科書であった。しかし明治初期は現在と違い、洋書の取扱店は少なく、価格も高価であった。そのため学校は教科書を購入して利用させる環境を整えざるを得ない。しかも生徒は明治6年の230名が最小で、この前後の時代の学校はいずれも250名を越えるので、図書にかかわる業務は少なくなかったはずである。この業務を行っていたのが「書籍局」のため、この局はあたかも図書業務の専属掛のように見える。しかしこの掛は机、椅子、火吹き竹といった物品も管理していた。書籍局とは名ばかりで、実際は「物品管理掛」であり、図書業務は全業務の一部分に過ぎなかった。

 図書の業務に限ると、教科書の貸出、返却、販売、買い戻し、再販売を行っている。「買い戻し」とは学年の終了と共に教科書が不要になるので、それを学校が安く買い取ることである。そして次年度の学生に古書として「再販売」もしていた。掛は貸出、返却という図書業務の他に、書店業務や古書店業務も行っていたのである。

しかもこうした業務を行うには、教科書が生徒の数だけ必要なため、50冊、100冊、200冊と同じ本を揃えなければならない。これでは本の置いてある場所は「倉庫」であり、書庫とは言えない。決して恵まれた状況ではなかったが、これだけ手厚い生徒支援をするのは教科書の入手が学校にとっても、生徒にとっても最重要な事柄であったからである。書籍局は学校の中心にあったことがわかる。

2-1. 建物

図1には外国語学校と開成学校が見えている。当初、開成学校は外国語学校の場所にあったが、新校舎が建設されると移転する。それが図1であり、その写真が図2になる。ちなみに開成学校の地番は神田錦町であり、現在ここには学士会館が建っている。外国語学校は正面右手から写っている。その校内の最も右隅の建物が書庫と図書室である。これはさらに遡れば大学南校時代から使用されてきた書庫のはずである。図3は新校舎の図面である。この図で、2階中央から左側の3部屋を使って、「書器局」が「書籍」と「器械」の業務をこなしている。しかし新校舎には閲覧室(「書籍縦覧室」)も書庫もなかったため、外国語学校の図書館を使うという変則的な状態が続くが、閲覧室は7年5月に、書庫は6月に作られ、新校舎での図書室はすこしずつ整備されていく。

 そして9年になると、突然、校内に一般公開の国立図書館が出現した。その名を「法律書庫」と言う。所管は共同設立者である「書籍館」(現在の国立国会図書館の前身)であったため、地租税の税率を下げたことが原因で明治政府が財政難になると、「法律書庫」は10年2月に廃止されてしまう。1年にも満たないはかない命であった。

 それから2ヶ月すると、東京開成学校と東京医学校が合併し、東京大学が創立された。この時、東京英語学校も包摂して予備門となり、校内に移転したため、旧東京開成学校の2階部分は教室に転用されてしまう。図書館の利用者は多様化(学生と生徒)し、利用者数も増大したため、10年10月に完成した建物は320坪もの大施設となる。そして法学部用、理文学部用、予備門用という、学部別の閲覧室を採用して、利用者の交通整理を行っている。建物は独立棟となったことから、日本で初めて図書「館」という名称を使用した。先の「書籍館」が13年に東京「図書館」と名称を変更したのは東京大学での使用を意識したからではないだろうか。日本の二大機関が「図書館」という名称を使ったことから、図書施設の呼称は定まったと言える。もっとも当初は「toshokuwan」と発音され、「toshokan」と呼ばれるようになるのは文献上は14年のことであった。しかしこの興味深い建物も、これまでのところその姿を映した絵や写真は見つかっていない。

 16年になると、現在の地、本郷へキャンパスを移転する計画が起こり、図書館は法文学部と共に移転する。しかし学内の財政事情は厳しく、法文学部の教室を図書施設としたため、学部別閲覧室制は維持できなくなる。書庫も普通の教室を転用しているため、図書の過重に悩み、崩壊する不安を抱えたまま明治26年まで続く。そのため総長渡邊洪基は卒業式でこれまで不便をしのいできた学生にお詫びを兼ねて「来学年ニ於テハ図書館ノ新築ニ着手センコトヲ期ル」と報告をしないわけにいかなかった。図4は新築なった図書館である。図書館は総坪数433坪、300人を収容する大閲覧室と3階建ての書庫からなっていた。この図書館の「広く、長く、天井が高く、左右に窓の沢山ある」大閲覧室を「三四郎」も利用している。後年、書庫は増築されるが、建物は新館当時の外観を保ちながら震災まで続くのである。従って崩壊したのはこの図書館だったのである。

2-2. 組織・運営

 次に図書館の組織、運営をふり返ってみよう。学校時代に専任の図書掛が出来たのは明治9年のことである。10~13年は、大学が学部の連合体とみなされたため、図書業務を含めて、総ての決裁は法理文学部長と医学部長が行っている。そのため10年に図書館は新築されたが、図書館長はいなかった。14年に職制が改正されると、総理を頂点とする体制を作り、権限を総理に集中させたため、業務が停滞してしまう。これを打開するために、権限を分散するが、総理の代行という含みもあって、代行者にはいずれも教官が任命された。この中には図書業務の代行者も含まれていた。「図書課取締」である。この職制は後に図書館長につながる職制であり、以後、東京大学の図書館長は教官が勤めるという先例が出来てしまった。それでも「図書課取締」は図書業務すべての決裁権を持つことになり、図書館長の下に図書館は充実した活動を行っている。

 ところが19年に帝国大学が創設されると、状況は一変した。図書館長にあたる「図書館管理」職は設けられたが、図書館業務の最終決定権は総理に移ってしまう。この形態はその後も維持され、図書館長に全決裁権が移譲されるのは昭和5年まで待たなければならなかった。

 しかし19年にはもう一つ重要な出来事が起こっている。図書館が事務部から分離・独立したのである。部局となれば、部局長が必要であり、これが教官の任命にもつながったものと考えられる。おかげで図書館業務とそれを執行する司書は事務とは異なった職種として位置付けられることになった。その意味で、19年は図書館にとっても、後の日本の大学図書館にとっても重要な年となったと言える。惜しむらくは職制の確立と処遇がそこに附帯されなかったことである。

2-3. 図書の蒐集

 当初、学校では、前述したように、教科書を買い揃えることに終始する。その結果、書庫には同じ本が並んでいた。そのため7年に語学教育部門を切り離し、上位の教育を行うことになった時に、読ませたい図書も、読ませる場所もなかった。7年に閲覧室(「書籍縦覧室」)を設けたのは利用環境の改善が目的であった。しかし部屋はすぐに作れても、図書の収集は簡単ではない。購入費も必要である。そこで教科書は生徒各自で用意するように方針を変更して、購入費を確保し、図書の種類数を増やすことに方向転換をする。しかしこの方針が即座に効力を発揮する前に、法律書の少ないことが大問題となる。そして「書籍館」で所蔵する法律書の活用という奇策を弄して国立の法律図書館を建て、法律書の利用環境を好転させた。「法律書庫」は1年に満たない命運で、10年2月には廃止されるが、書籍館が供出した法律書は東京開成学校が入手することで、法律書の利用に影響が及ばない努力がなされている。

 10年に大学になると、外国に行く人や出張する人もに外国書の購入を頻繁に依頼している。来日したエドワード・モースも「大學図書館のために、二萬五千巻に達する書籍や冊子を集め、また佳良な科学的蒐集の口火を切った」と言っている。種類数を増やす必要があること認識し、その努力が続けられたことが分かる。

 明治10年以前は西洋文化の摂取を目指していたことから、揃える本は洋書が中心であった。しかし大学になると、文学部が新設された。この学部にとって必要な本は和書であるから、和書も積極的に収集する必要がある。加えて13年には古典講習科や法学別科という速成の講座が開設される。これらの学科も授業は日本語で行うので、関連書は和書になる。こうして図書館は洋書だけでなく和書も積極的に収集するようになる。

 収集方針が出来ても、毎年の購入や寄贈で入手できる図書の数は多くない。そのため文学部生で、後の早稲田大学総長になる高田早苗は「東大の圖書館も其頃は甚だ貧弱」だと、明治13、4年頃のことを思い出して嘆いている。このような状態であるから、2つの学校が合併し、その蔵書を受け入れたことは図書館にとって大きな財産となった。18年に東京法学校が法学部に合併する。東京大学の法学部は英米系の法律を中心に教えているため、蔵書も英米書が中心である。それに対して東京法学校はフランス系の法学を教授していたので、蔵書も仏書が中心である。政府が招聘したフランス人法学者ボアソナードが刑法等を起草し、施行されていることから、当時の法律はフランス系が主流であった。法学校の蔵書は、東京大学の図書館にとって貴重な蔵書群になったはずである。

 19年には工部大学校が工芸学部と合併し、工学部が誕生する。帝国大学は工部大学校の洋書をほぼ受け入れたことから、工学書の増加も、帝国大学図書館にとっては蔵書の重要な核になったはずである。

 蔵書の増加に向けた努力の続けられる一方で、削減もされている。教育制度の変革によって、予備門が切り離されることにあわせて、予備門用の図書を切り離したからである。おかげで蔵書数は大幅に減少するが、大学とすれば、大学教育に必要な蔵書に統一できるばかりでなく、書庫スペースも拡大できたので、この削減は大学にとってマイナスというより、大いにプラスになったはずである。

 その後、蔵書が大きく変動することはない。しかし明治40年に書庫が増築されていることから、蔵書は着実に増えていたことが分かる。このようにして集めた図書が震災で焼失してしまったのである。地震が発端とはいえ、図書館の蔵書が焼失したことによって、文化の継承に大きな断絶ができたことは確かである。図書館の立地条件は単にスペースがあるからというだけでは済まないことを教訓とする必要がある。

 東京帝国大学附属図書館は、震災で崩壊後、国内外から暖かい援助を受け、現在の蔵書の基礎が築かれた。そしてこれらの図書は現在も書庫に大切に収められ、利用者に日々活用されている。

参考文献

  1. 『図書復興関係書』大正十二年十月ヨリ大正十三年十二月マデ
  2. Reconstruction album: Tokyo Imperial University Library, 1923-1920.  東京帝国大学、昭和5年
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