18 管理社会の開幕
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- フェノロサの明治15年7月の卒業式演説. 『学藝志林』明治15年(1882)11月号所収 [総合図書館 ZA:41]
明治15年に卒業時期を迎えた高田早苗ら文学部、法学部の卒業生多数は、大隈重信の政治幕僚である小野梓の影響を受けて卒業後官途に就くことを拒み、大学側の度重なる慰留にも拘わらず改進党系の政治活動に向かった。何年も給費を与えて育てた虎の子の学士を奪われた学校当局、および政府の衝撃は大きく、この事件以降、文部省・大学当局は学生の管理を強化する。『学藝志林』は東京大学発行の学術雑誌であり、10月号、11月号に卒業式の来賓・教官挨拶を載せているが、それによると文部卿福岡孝梯、加藤弘之、法学部教授穂積陳重などの挨拶がいっさいこの事件に触れていないにもかかわらず、文学部外国人教師フェノロサのみが学生たちの行為をたしなめる演説をしているのは異様である。
- ドイツ人外国人教師ラートゲンの申報. 『東京大学第三年報』明治15年9月〜16年12月(1882〜1883)所収 [総合図書館 ZK:365]
明治15年初頭に外国人教師として来日したドイツ人ラートゲンの、明治15〜16年度における申報。政治学教授ラートゲンは、長年日本で教科書として用いられたギゾーの『欧羅巴文明史』を国権主義の立場から批判し、また公法比較論の講義でもドイツ憲法を基準として英仏の憲法を論じ、英法の学生たちの不興を買った。また、申報に見られるように「現今独乙ノ諸大学ニ於テ施行セル方法」で授業することを試みたと述べているが、これはゼミナールのことである。ラートゲンによれば、学生たちの反応ははかばかしくなく、みずから進んで資料に当たり、みずから意見を述べる学生は皆無であったという。学生の中には、ラートゲンの試みを締め付けの強化としか感じない者が多かったという。この申報によれば、これ以前からドイツ語が第二外国語として必修化されているようだが、プロシア流の国権主義の大学への侵入を物語るものであろう。
- 明治十六年事件退學者名簿. 明治16年(1883) [五十年史料 72]
東京大学では7月に卒業式、10月に学位授与式をおこなうことが慣行になりつつあった。学位授与式では午後いっぱいを在校生と卒業生はともにスポーツに過ごし、夕方の授与式のあとの酒が入った祝賀パーティーを楽しみとしていた。ところが、明治16年、式は午後早い時間に移されることとなり、飲み食いのできなくなることに腹を立てた学生たちは式をボイコットして外出、夕刻戻ると大声を上げて寄宿舎の中を暴れまわった。この事件については『東京大学百年史』に詳しい解説がある。当時大学は寄宿舎のまわりを「五寸角の二間の高さもある柵」で囲い、門限その他の問題でよりたやすく管理することを狙っていたが、学生たちは「牢屋のような柵を打ち壊せ」と叫んだという。大学当局はただちに事情聴取を始め、政府首脳にも通報された。政府では、前年の卒業騒ぎのように、背後に改進党の煽動があったのではないかと疑っている。処罰は厳しく、関係した学生は退学に処せられ、かつ東大以外の文部省直轄学校、その他全国の公私立学校への入学が禁じられた。(もっとも半年後には、改悛の情ありとして、ほぼすべてが復学した。)退学に処せられた学生の中には、後年、大逆事件で辣腕をふるうことになる平沼騏一郎がいる。
- 成立學舎概則 [個人蔵]
駿河台の成立学舎は、共立学校と並んで大学予備門へ多数の合格者を出した予備校。すでに受験戦争の萌芽のような競争が始まっていた。英語の学力不足をおぼえる地方出身の学生は、予備門を受験の前に、こうした予備校に1、2年を過ごしてから受験した。この規則書によると、サンダース第4読本、ロビンソン代数書、スウィントン万国史など、予備門で学ぶカリキュラムが教えられている。成立学舎は、二松学舎で漢文を学んだ夏目漱石が1年通った予備校である。
- 東京大學豫備門前本黌生徒及改正學科生徒試業優劣表(第二學期). 明治18年(1885)3月 [総合図書館 K40:332]
受験勉強を経て予備門へ入ると、今度は内部での合否の試験が待っていた。第2級では、134人中、下から14番目に尾崎徳太郎(紅葉)がおり、成績は74.6点で不合格。第4級には116人中、17位に芳賀矢一、27位に塩原(夏目)金之助、36位に柴野(中村)是公、59位に南方熊楠、64位に山田武太郎(美妙)、69位不合格に正岡常規(子規)がいる。学期ごとにこのような成績表が作られたらしい。
- 駒崎林三, 漢學問答一千題附和學問答. 明治23年(1890) [個人蔵]
明治20年前後、旧幕時代と比べて時代の変化をもっとも痛切に受け止めたのは漢学者であったろう。かつては四書五経の素読を7、8歳から15、6歳までのんびりと続けるだけでよかった。その総字数は48万4915字。日に150字を唱えるだけで、9年をかければ終えることができた。それが、「三年ノ学問ハ一年ニ仕上ゲ一年ノ学問ハ半年ニ仕上ゲルモ尚遅キヲ訴フルノ変化ヲキタシ」、「学問ノ種類ハ益々多ク只英ニ佛ニ獨ニ止マラズ漢モ修メザル可カラズ和モ講ゼザルベカラズ」。この学習参考書の無名の編者は、しみじみと「多忙ノ世界トナリ」と嘆いている。
(作成:月村辰雄、展示委員会)
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