加藤見立(かとう・けんりゅう)は文化4年(1807)に尾張藩医加藤立見(かとう・りゅうけん、常庵、1745 - 1810)の子として生まれた。父の立見が文化7年5月24日になくなったので、文化10年、7歳になると父の友人野村立栄(のむら・りゅうえい)の家に同居して、蘭学稽古に励んだ。同年11月、立栄の長男で藩医の立伯は見立を自分の門人で年齢は9歳と藩に届け出ている。よほど秀才であったのであろう。
尾張蘭学の祖として名高い野村立栄は天明2年(1782)長崎に留学し阿蘭陀通詞吉雄幸左衛門のもとで医学と蘭語を修めた。しかし、その内容がどのようなものであったかは従来、幸左衛門が天明3年正月に立栄に与えた「授吉雄家学之秘條」と「免状」から推測するしかなかった。 今回の展示を前に調査したところ、鶚軒文庫に伝わる「加藤見立遺書」は、野村立栄が長崎で学んだ自筆写本として、ハックフォールト『レッテル・コンスト』、阿蘭陀通詞の会話教科書「サーメンスプラーカ」、バウト『新外科試験問答』(1700)、フルブリュヘ『海上外科薬品箱』(1700)を含むことが判明した。また、少年見立が野村父子のもとで筆写しながら学んだ写本類から、ウェルフェ『オランダ語宝函』(版種不明)、メイエル『辞学宝函』(1745)、ボイス『新修学芸百科事典』(1769 - 1778)、ネイラント『オランダ本草』(1688)、ウォイト『医薬宝函』(1741)、ウェイク『明解外科試験』(1775)などの蘭書が直接間接に利用されたことを確認、または推定できた。さらに、阿蘭陀通詞作成の蘭日対訳単語帳「メモリーブーク」の新資料4冊も出現した。
加藤見立のその後の消息は未詳であるが、彼の遺書を古書店からまとめて購入したのは『日本米食史』(1913)の著者で、蘭学史研究者でもあった岡崎桂一郎であった。鶚軒土肥慶蔵がこれを入手した経緯も不明である。とにもかくにも、日本最初の理学博士伊藤圭介を生んだ尾張蘭学のルーツを解明する貴重資料が鶚軒文庫から発見されたことを喜びたい。(松田清)